ep.86 奇遇やね、奇遇やな
第三学年 五月八日 土曜日
宝来橋
この日は、梅雨には早いだろうといいたくなるような曇り空だった。
せめてもの救いは天がベソをかいていないことであろう。
父が会社の同僚に宝塚ならではの土産を持っていくため、一文字は名物・炭酸せんべいを求めて宝塚駅周辺までやってきていたのだ。
買い物を終えた一文字が駅に向かおうと宝来橋に差し掛かったとき、向こうから見慣れた少女が歩いてきた。
村瀬友里だった。
互いの距離があと数歩というところで、村瀬が白い整った顔に柔らかな笑みを湛え声を掛けてきた。
「あれ?岡君やん、こんなところで会うなんて奇遇やね」
「ほんまやな」
言葉を返しつつ、(ああ、やっぱり村瀬は可愛いな)と一文字はしみじみ思った。
そんな一文字の心中に気付かない素振りで村瀬は尋ねた。
「ところで、こんなとこでどないしたん?」
「おう。親父の勅命を受けて、すぐそこの店に炭酸せんべいを買いに来とってん。
目当てのものをゲットしたから今から帰るところや」
「うわ、ほんまに奇遇やね。
私もあそこの店に炭酸せんべい買いに来てんで。
うちのおばあちゃんの大好物やから、明日遊びに行くとき持っていってあげようと思って」
「ほんまに、奇遇やな」と一文字が応じるとそう来ると予想していた村瀬が、ぴったりとはもった。
二人は顔を合わせて大いに笑い合った。
笑いが一段落つくと村瀬が言った。
「そうや、ちょっと待っててや。急いで買ってくるから一緒に帰ろう」
「おう、ええで」
一文字が応じると村瀬は嬉しそうに微笑み、足早にせんべい屋へと向っていった。
二人は宝塚駅から花のみちを抜け、宝塚大橋を渡り宝塚南口へとさしかかった。
「そういえば、南口にある老舗のサンドイッチ屋さんってすごく美味しいねんで、昔から好きでよく買って貰っててん」
「ああ、あそこのサンドイッチは確かにうまいな。俺もよく食べてるで」
「ちょっと、寄っていってええかな?」
「ええで、俺も買っていこうかな」
会話とは面白いもので、宝塚南口から伊和志津神社下のトンネルを抜ける頃には、フルーツサンドからロールケーキ、気が付けばドーナツの不思議について一文字が熱く語っていた。
「だから穴があるという訳、分かりましたか~?」
「うん、分かったけど、ようそんなん知ってるねぇ」
「まあ、俺はミスター・スイーツやから・・・・・」
一文字の語りが一通り終わり、そっと沈黙が訪れた頃、不意に村瀬がじっと一文字の顔を見つめてきた。
(え、なに?)
思わず一文字も村瀬の顔を見つめ返した。
「そういえば岡君、一年生の頃から比べると、なんか雰囲気変わったね。なんか前よりしっかりして見えるっていうか、かっこよくなったというか・・・」
突然、そう言った村瀬の顔は少し赤み掛かって見え、一文字をドキリとさせた。
「そ、そうか?自分じゃ、よく分からんけどな、」
「ううん、やっぱり変わったって、熱中できるものを見つけたからかな?」
(え、佐那のこと?)などと一瞬、一文字は焦ったが、冷静に考えてから応じた。
「ああ、合気道か。
はまってるのは確かやけど、俺の雰囲気を変えたかどうかは分からんな。
なにせ銀ちゃんあたりからは、お前は中学の頃から成長せえへんってよく言われるからな。
まあ、小学生くらいでピタリと止まってる奴に言われたくないねんけどな」
一文字の言葉に小さく頷きながら村瀬は微笑んだ。二年前に心奪われた、あの綺麗な笑みだった。




