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ep.71 冬雨の日

 第二学年 十二月十六日 水曜日

 武庫川沿いの道


 寒の中、冬雨がしとしとと降り続いている。


 一文字は合気道の練習に付き合ってほしいと佐那を誘い、二人は市民体育館の道場へと向って歩いていた。


 灰色の空に佐那の赤い傘が咲く、はじめて出会ったときに佐那がさしていた傘だなと、一文字は密かに懐かしんでいた。


 二人は宝塚新大橋へと続く武庫川沿いの道に差し掛かる。


 雨が降っているものの雨量はさほど多くないため、川の水量はいつもとそれほど変わりはない。


 それでも雨の日の川はどこか寂しく、怖い。


「今日は冷えるね、雨、冷たいし」


「ほんまやな、まあ、道場で体動かしとったら、すぐ温まるやろ」


「そうやね、それにしても武庫川の水、冷たそうやわ」


「冷たいで~、中学の時、冬季マラソン大会が武庫川の河川敷で行われてな。その後にみんなで水の掛け合いになって、気付いたら川の中におったんや。はしゃいでる時はよかってんけど、帰り道は凍死しそうにやったで」


「中学生のとき、そんなことしてたんや。って、やってること今もあんまり変わらへんのとちゃう?」


「ほんまやな、ってやかましいわ!」


 二人が笑っていると、雨音の中、ミャーミャーとか細い猫の鳴き声が聴こえてきた。


 二人が歩みを進めるにつれ、鳴き声は大きくなってくる。


 声の先を見やると二人の歩く道の先に猫が横たわっているようだった。


 二人は急ぎ足で猫に歩み寄り、間近に迫ったとき、一文字は思わず息を呑んだ。


 鳴いている猫は、車にでも轢かれたのか、下半身が無残に砕け、体内のものが無秩序に飛び出していたのだ。


 肉が飛び散り血にまみれた体、それでも息をして声をあげているのだ。


(嫌なものを見てしまったな)


 一文字は視線を逸らし猫から遠ざかろうと歩き出したが、佐那がついてこない。


 気になって振り返ると佐那が呆然と猫の前に立ち尽くしている。


 その表情は蒼くこわばり、まるで死に顔のようで一文字が思わず声を掛けるのを躊躇うほどであった。


 それでも心を奮い、一文字は硬い声を掛けた。


「どないしたん、佐那?」


 一文字の声に応じるように佐那の視線が上がるが、その瞳は虚空を見ていた。


「行こう」


 一文字が促すと佐那は小さく頷き、再び一文字と共に歩き出した。


 十歩ほど歩いたとき、佐那はピタッと立ち止まり、詰まるような口調で言った。


「あかん、やっぱり放っておけへんわ」


 佐那の言葉には、悲しみ、怯え、後悔、冷たく熱い感情が渦巻いており、戸惑いを覚えた一文字は言葉が出せない。


 佐那はそれ以上は何も言わず、踵を返すと猫のもとへと走り去った。


 何がなんだか分からないまま慌てて一文字も後を追った。


 いつの間にか激しさを増した雨の中、佐那は傘を放り出して横たわる猫の元にかがみ込む。


 苦しそうに鳴き声をあげる猫の体を数回優しく撫でると、そっと両手で猫を包み込んだ。


 死に行く瞬間に、せめてもの温もりを与えようというのだろうか、佐那の優しさに一文字の心は締め付けられるような気がした。


 佐那はどんな思いなんだろうか、雨に濡れた長い髪が純白な佐那の顔を覆い表情を隠している。


 一文字は佐那の対面に屈み、慈愛に満ちているであろう佐那の顔を覗き込んだ。


 ・・・・・・ 息を呑んだ


 覚悟の中、冷酷に光る漆黒の瞳、それは聖母などではなく死神のそれだった。


 一文字の背筋に容赦のない冷たい風が吹き込む。


 刹那、目を疑うような光景が眼前に広がった。


 佐那は、手の平をすっと猫の首にあてがうと一気に力を込め、脈を圧迫させはじめたのだ。


 驚愕の中で一文字は目を見開き、ただ、ただ、見つめるだけが精一杯であった。


「があああ~!」


 猫は声にならない声をあげた、それは断末魔の叫びであった。


 猫は息を失い、ぐらりと崩れ落ちた。


 雨音と遠くを走る車の音だけが響く中、二人は動けず、ただ雨に打たれていた。


 長い沈黙の後、佐那は生命を失った猫を優しく抱きかかえて立ち上がると、絶句して凍りつく一文字に静かに言った。


「さようなら」と、


 それは悲しい寂しさに満ちていた。


 佐那は猫を抱えたまま近くにあった赤茶色に錆びた鉄製の階段を河川敷へと降りていった。


 カンカンと響く足音を聞きながら一文字はその後姿をただ呆然と見送った。


 ふと、久美のあの言葉が、聞こえてきた


「あの人は残酷な人やから・・・」


 何度も何度も繰り返されるあの言葉。


「あの人は残酷な人やから・・・」


(佐那は残酷な子・・・)


(佐那は残酷な子・・・)


(佐那は残酷な子・・・?)


(違う、佐那は残酷なんかやない、佐那は優しいから、だから、放っておけない)


 一文字は、傘を投げ捨て勢いよくに立ち上がると、佐那の後を走って追いかけた。


 雨に濡れるもそのままにカンカンカン、金属製の階段を降り、自転車道として整備されたアスファルトを駆け抜け、宝塚新大橋へと向った。


(いた!)


 一文字の目に映った佐那は、宝塚新大橋のたもとで屈み込み、手にした石で一心不乱に穴を掘っていた。

 長く黒い髪は濡れて頬にはり付き、細く白い指は泥にまみれていた。


「佐那、」


 一文字の声に佐那はゆっくりと振り返る、大きく見開いた瞳には驚きを湛えている。


「佐那、俺も手伝う」


「一君・・・」


 佐那の声は震えていた、鳴いていた猫のように心細く震えていたのだ。


 一文字は佐那の隣に腰を降ろすと尖った石を拾い穴を掘りだした。


 猫を埋葬した二人は、疲れきり河川敷のコンクリートの堤防に腰を落ろして川音と雨音の奏でる交響曲を聴いていた。


「一君、ありがとう、」


「礼なんかいらへんって、」


「うん、でも、ありがとう、嬉しかった、」


「だから、礼はいらんって」


「うん、でも、なんで、来てくれたん?」


「放っておけへんかった。佐那はなんも間違ってへんし、悪いこともしてへん、それどころか優しくて勇気ある行動をとったのに、自分を責めてたからな、」


「一君・・・」


 佐那の大きな瞳が一文字を見つめてきた。


(この雰囲気は、もしや?)


 一文字の心臓は高鳴った。


 佐那は雨ではない雫で瞳を閏わせて微笑み、言った。


「これからも友達でいてくれるん?」


 過去に久美を失った佐那は純粋に一文字に感謝しているのだ。


 一瞬浮かんだ自分勝手で低俗な考えが妙に恥ずかしく思えた。


 一文字は自分を取り戻すため、佐那を守るために温かく言ってあげた。


「あたりまえやん、俺らはいつまでも一緒やで」


「うん」


 頷く佐那は、優しく微笑み弱々しく泣いていた。


 一文字は雨と不安で冷えきった彼女の体をそっと抱き寄せた。


(あえて友達という言葉を使わなかった俺は卑怯だったろうか、それでも佐那は頷き、腕の中にいてくれたのが嬉しかった)


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