第8話
金角湾から吹く風が、頬を刺す。コンスタンティノープルは、冬を迎えていた。
旦那様の商売は軌道に乗り、ソフィアばあちゃんは憎まれ口を叩きながらも、楽しそうに働いている。エレニは家事以外の空いた時間で、ソフィアばあちゃんから織物の目利きのイロハを叩きこまれているらしい。寝不足な顔で、朝洗濯ものを干している様子も、日常になった。
親父さんとマノスは、腕を買われて、最近は少し規模の大きなモスクの工事にも参加するようになったらしい。信心深い旦那様は誇らしげだけど、あの夏の日の事件以来、俺は未だに複雑な気持ちだった。
俺はといえば、通訳や会計係をしながら、オスマン語の読み書きを学ぶ日々。
それぞれが忙しく過ごす日々の中、ほんの少しの隙間時間に俺の頭をよぎることがあった。
俺、いつになったら現代に戻れんの……?
もう半年だぞ? 完全に帰る機会を逸してないか?
おーい、この世界の創造者、まさか忘れてんじゃねーだろーな!?
そんなある日のこと、マノスがあらたまって、俺に頭を下げてきたんだ。
「レオ、旦那様に話したいことがあるんだ。頼む、付き合ってくれ!」
「それはいいけど……なんか真面目な話?」
「いやまぁ、それはその場でさ……」
ふだん回りくどい言い方をしないマノスが、めずらしく口ごもった。
ただ、表情は真剣そのものだ。
「みんなにも絶対に賛成してほしい話なんだ!」
「お、おぅ? マノスが決めたことなら、誰も反対しないんじゃねーの?」
予想できるはずもなかったんだ。
こいつの決断が、俺の運命まで決めるなんて。
* * *
「旦那様、俺、イスラム教に改宗します!」
マノスの言葉にその場で一番唖然……いや、愕然としたのは、俺だったと思う。
まっすぐに旦那様を見つめるマノスを見て絶句した俺を、旦那様が促す。
「レオ? マノスは何と?」
「あ、や……」
「レオ、伝えてくれよ!」
マノスに肩を揺すられて、俺は白目になった。頭の整理がつかないまま、俺はマノスの言葉を右から左に流した。
「マノスがイスラム教徒になりたいと……」
「そうか、そうか!」
旦那様の表情がパッと明るくなる。……どころか、感極まって、旦那様はマノスを実の息子のように抱きしめた。
俺は周りを見回す。親父さんは、事前に聞いていたんだろう。目を閉じて落ち着き払っている。ソフィアばあちゃんは、驚いてはいるが、あのハギア・ソフィアの一夜にも動じなかったタマだ。俺ほどの驚愕はないだろう。
てか、エレニ! エレニは知ってたのか!? 緊張の面持ちで正座するエレニの様子からは、どちらとも読み取れない。
「理由を聞かせてくれるかね、マノス?」
旦那様が満面の笑みで尋ねる。
そうだよ、理由! 聞かないでいられるかっつーの!
俺の通訳に、マノスは間髪空けず答えた。
「これから職人として、もっと大きな仕事がしたいからです!」
「…………」
「レオ、訳して!」
俺は意味が分からなかった。たしかにこの街がオスマン帝国の都になってから、イスラム教徒が優遇されやすい面はあるんだろう。でも、異教徒もうまく使うのがオスマン人という現実も、肌で感じていた。大きな仕事にこだわらなければ、働き口はいくらだってある。
なのに、たかが仕事で、自分の神様を捨てる? それでお前はいいのかよ!?
あのハギア・ソフィアの夜、お前たちが守りたいもんは何だったんだ!?
モスクの改修現場で、お前は何の葛藤も感じなかったのか!?
俺は、ただただマノスに腹が立って仕方なかった。
「訳さねぇ……まず、俺に説明しろ」
「は?」
「たったそれだけかよ? 仕事なんかのために改宗!? ふざけんなッ!」
俺の剣幕に、言葉が分からない旦那様は困惑している。
マノスは、慌てたように俺を両手でなだめた。
「落ち着け、レオ。理由ならまだある!」
「ほぉ、言ってみろ」
人を殺しかねない目つきで聞いた俺に、マノスは言ってのけた。
「金持ちになって、エレニとばあちゃんに楽な暮らしをさせてやりたい!」
「は?」
「俺、エレニと結婚するから!」
エレニと結婚? するから? するから……?
まるでぐわーんと鐘を突いたかのように、俺の頭の中でマノスの言葉が反響する。
気づけば、マノスの隣でエレニがほんのり頬を染めて微笑んでいた。
手を繋ぐ二人に、旦那様は俺の通訳などなくても全てを察したらしい。
ソフィアばあちゃんが、グッと俺を抱き寄せた。
「レオ、肩を落としなさんな。アンタにはアタシがいるよ♡」
ソフィアばあちゃんの平たい胸の中で、その日の俺の記憶は途切れた。
* * *
「レオったら、気を失うほど驚かなくてもいいじゃない」
翌朝、いつものように洗濯ものを干しながら、エレニが笑った。一つに束ねた栗色の長髪が朝日に照らされ、金色に光っている。
エレニ……絶対分かってねーな、俺が他でもないお前に失恋したってこと。
てか、カッコ悪すぎるだろ、俺……失恋で失神って。
「……エレニは、いいのかよ? 結婚するなら、お前も改宗しないといけないんだろ? 神様を変えるって、そんなに軽いこと?」
俺は往生際悪く食い下がった。だって、最初の夜、イコンに祈っていたエレニの横顔が、どうしても忘れられない。
エレニは駄々っ子に言い聞かせるみたいに笑った。
「軽い気持ちじゃないわよ、マノスもわたしも。イスラム教でも、家族みんなが幸せになるために、神様に祈るんでしょう? 今と何も変わらないわ」
「変わるよ!」
「レオったらもう、子どもみたいなこと言わないで!」
ちくしょう! 俺は子ども扱いかよ!
こみ上げてくる涙を片腕で押さえて、俺は冬晴れの空に叫んだ。
「俺は、エレニのきれいな髪が隠れちゃうのが嫌なんだ!」
俺の心の底からの本音は、虚空に消えた。
洗濯ものを干すエレニの手が一瞬止まる。
「髪がなぁに……?」
「イスラム教の女の人は、スカーフで髪を隠さなきゃいけないんだぞ!」
「そうなの?」
「そんなことも知らずに、改宗決めたのかよっ!?」
「レオは物知りなのね」
そのとき、冷たい風がエレニの髪を巻き上げた。物干し竿に掛かっていたシーツが、風に攫われて、宙に舞う。
「きゃっ!」と小さく声を上げたエレニの背中を見たのが、最後だった。
真っ白なシーツに視界を奪われたと思った次の瞬間——俺は見慣れた自分の部屋の机に座っていたんだ。




