第7話
その夜、旦那様は仕事が終わってから、居間でゆったりと円柱型のクッションに背を持たれかけ、くつろいでいた。片手には、飲み物の入った小ぶりなガラスの杯が光っていた。
「おや、レオじゃないか。座りなさい」
俺が声を掛ける間もなく、旦那様が気づいて、近くに座るよう促した。俺も四角いクッションがいくつも並んだ一角に、ボフッと腰を下ろす。床に敷物を敷いて、クッションにもたれてくつろぐスタイルは、日本人の俺にはなじみやすい。
「エレニ、レオにも飲み物を」
「はい、旦那様」
エレニが小さな足音を立てて台所へ姿を消す間、旦那様は俺を労ってくれた。
「レオ、お前の働きには満足している。通詞ができる奴隷というのは、探してもそう買えるものじゃない。おかげでこの地で商売を始めるのに、ずいぶん有利に進められたよ」
そう褒められると、ちょっと照れるぜ。
いうて、俺の実力っていうより、転移者チート能力のおかげだけどな!
俺は、小さくお礼の言葉を返した。
しばらくして戻ったエレニが手にしていたのは、ブドウのシェルベット。潰して搾ったブドウの汁を水で割り、蜂蜜で甘さを加えた飲み物だった。杯を置いて去ろうとするエレニの細い手首を、俺は思わずガシッと掴んでいた。
「レ、レオ……!?」
エレニ、ごめん! びっくりしたと思うけど、今がチャンスなんだ! 俺は畳みかけた。
「旦那様、お話があります! 仕事のことで、エレニから! なっ、エレニ!」
「えっ……えぇっ、わたし!?」
いつも柔和な旦那様の顔が、少し真剣になった気がして、俺はドキリとした。
大丈夫……だよな?
「エレニ、言ってみなさい」
尻込みするエレニも、その一言に観念したらしかった。エレニは自分の気持ちを言葉にした。
「あの……わたしもおばあちゃんと一緒に、織物の仕事をしたいです。いつかはおばあちゃんの後を継げるような、立派な職人になりたいんです!」
すぐに俺が旦那様に訳して伝える。その間エレニは、旦那様の顔をとても見られないというように俯いていた。ギュッと握りしめたエレニの両手が、細い肩が震えている。
エレニの言葉に、どれだけの勇気が込められているのだろう。俺は胸がギュッと苦しくなった。
旦那様が、静かに口を開いた。
「エレニ、お前は仕事を選べる立場にない。分かるかね?」
スッと血の気が引くような思いだった。俺たちの奴隷という立場を突きつけられて。
二の句が継げない俺に、旦那様が促す。
「どうした、レオ? エレニに伝えなさい」
「え、えと……」
「私は、お前の家事という役目を免じるつもりはない。この家の皆のために、身を粉にして働くのがお前の務めだ」
俺が甘かったのか。旦那様なら……この人なら分かってくれると、どこかで期待していた。でも、奴隷ってこういうことなんだ。ごめん、エレニ。俺が余計なことを——。
旦那様の言葉をそのまま伝えるしかない自分が、ひどく惨めだった。エレニは俯いたまま、俺の震える声を聞いていた。
長い沈黙が俺たちの間に立ち込める。
「しかし、ソフィアさんの後継ぎか……そうか」
ふいに、旦那様がそう小声でつぶやいた。甘いシェルベットを口にしているのに、旦那様は渋い顔で何度も口髭を撫でる。コトリとシェルベットの杯を置いて、旦那様は再び口を開いた。
「エレニ、聞きなさい。家事を免じるつもりはない。だが、自分の仕事をきちんと全うできるなら、職人としての修行は止めない。ソフィアさんも孫に自分の技を継げるなら本望だろう」
ソフィアばあちゃん……あんたへのリスペクトが、旦那様のお心を見事にひっくり返してくれたぜ!
俺が早口で旦那様の言葉を伝えると、エレニがハッと顔を上げる。その目から大粒の涙が、次々にこぼれる。濡れた頬を手の甲で拭いながら、涙声でエレニは何度も繰り返した。
「旦那様、ありがとう……ございます。ありがとうございます……!」
その日飲んだシェルベットの味を、俺は覚えていない。
ただただ胸に熱いものが込み上げてきて、旦那様とエレニの前で、鼻水を垂らさないようにするのがせいいっぱいだった。
* * *
夏も終わりに差し掛かったその日、俺は旦那様のお供で外出していた。足元の影は濃く、空気はまだむせるように熱い。
訪れたのは、もともと教会があった場所。今はモスクへの改修が進んでいる。そこは親父さんが指揮し、マノスが一職人として働く現場でもあった。
しかし、旦那様が視察に訪れたこの日に限って、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
「うるせぇっ! 俺はもうやってられねぇ!」
一人の職人が手にした工具を投げ捨てた。派手な音を立ててコテが落ち、床を漆喰が白く汚す。
男が前にしていたのは、聖人の壁画。俺がエレニの家で初めて見たイコンみたいな絵だった。
職人らしいその男は、近づいてきた親父さんに食って掛かった。
「あんたら、頭がおかしいぜ! イスラム教徒にヘコヘコ頭を下げて、自分たちの神を裏切るのかよ!? 聖人の絵を塗り潰して、平気でいるのが信徒かよ!?」
周りを見回せば、壁にも天井にも、たしかに漆喰で塗り潰された箇所がいくつもある。これが全部聖人たちの絵だったのだろうか?
「……お前も納得して始めた仕事だろう。職人なら、最後まで全うしろ」
親父さんの言葉に、男は吐き捨てた。
「あんたのことは、親方としては尊敬してる。でも、俺は食い扶持のために、自分の心まで征服者に売り渡す気はねぇ!」
去っていく男が、旦那様をチラリと見て、唾を吐いた。
男の肩がわずかに俺に掠って、身体の芯を揺らした。
俺は分からなくなった。
ハサンや旦那様の奴隷になることで、俺は親父さんやマノスの信心を捨てさせたのだろうか? 生き残るためと言いながら、心を殺す選択をさせたんじゃないだろうか?
床に散らばった漆喰を、マノスが黙って片付け始める。
旦那様は目の前で何が起こっていたか、俺に何も聞かない。
最初の夜、イコンの前で一心に祈っていたエレニの姿がよみがえる。
あの頃、ただ可愛いと思っていたその横顔に、俺の胸は焼けるように痛んだ。




