第6話
あのコンスタンティノープル陥落の日、オスマン兵・ハサンの奴隷になってから3ヶ月。
コンスタンティノープルは、夏の盛りを迎えていた。
「じゃあ、俺、明日田舎に帰るわ! お前らの新しい主人から、代金は受け取ったから」
「はぁぁあ……!?」
なんとハサンは、あっさり俺たちを転売しやがった。
エレニとソフィアばあちゃん、マノス、親父さん、俺の五人は、開いた口が塞がらなかった。
「いやぁ、ブルサから移住してきたっていう金持ちの織物商がさ、ソフィアばあちゃんの目利きの腕にベタ惚れでさ! 他の四人もセットでいいって。よかったな、レオ!」
……まぁ、そこの条件を守ってくれたことには、感謝してるよ。
大金を手に入れてホクホク顔のハサンに、俺は心の中で礼を言った。
それにしても……俺はいつになったら、現代に戻れるんだ?
コンスタンティノープル陥落が、攻略イベントじゃなかったのかよ!?
盛大にツッコむ俺の横で、エレニが少し不安げにつぶやいた。
「新しいご主人って……どんな人かしら?」
「まぁ、生きてりゃなんとかなるだろ!」
俺がお気楽に親指をグッと立てると、エレニの表情が見る間に変わっていく。
「そう……そうね。あのとき、ハギア・ソフィアで、レオが助けてくれたから。たとえ奴隷でも、みんなでいられれば、きっとなんとかなるわ!」
パッと周りまで明るくするようなエレニの天使の笑顔。
これを隣で見られるなら、まぁ現代に戻るのはもうちょっと先でもいいかな!
俺たちの新しい生活が始まろうとしていた。
* * *
コンスタンティノープルの街は、この3ヶ月で変わり始めていた。
戦争でも焼け野原になることはなかったこの街は、今オスマン帝国の都として整備され始めている。
街を歩けば、肌の色も顔立ちも服装も、様々な人たちとすれ違う。オスマン帝国の政治や経済を支える人材だけでなく、新しい都でチャンスをものにしようと野心あふれる人々が各地から移り住んでいるらしい。オスマン帝国の大都市・ブルサからやってきたという新しい主人も、そんな民の一人なのだろう。
ハサンの案内で、俺たち一行は坂道を上る。
片手で額に噴き出す汗を拭った俺に、ふいに背中から艶っぽい声がした。
「レオ、またアンタの背におぶわれるなんて、アタシャ生きててよかったよ♡」
ソフィアばあちゃん、その冗談、いつまで続けるんすか……。
俺が遠い目になっていると、ハサンが足を止めた。
「ここだよ」
2階建ての邸宅の門をくぐり、わがもの顔で中庭を通り抜けて、ハサンが屋敷の扉を叩く。
「おぉ、来たか!」
そう言って出迎えてくれたのは、頭にターバンを巻き、ゆったりとしたズボンの上に足元まである長衣を羽織ったイスラム教徒。50代くらいだろうか? 俺がイメージしていた野心家とは思えない柔和な顔のおっさんだった。
「お世話になります」
年長者のマノスの親父さんが代表して頭を下げると、その人はコクリと頷いた。
俺もつられて頭を下げると、背中のソフィアばあちゃんが「わっ!」と声を上げる。
その瞬間、新しい主人が俺に——ソフィアばあちゃんに駆け寄って手を取った。
「ソフィアさん! 道中、暑かったことでしょう。あぁ、先の皇帝御用達の目利きを、また間近で見られるなんて……私は幸せ者だ!」
ソフィアばあちゃんは、目を白黒させている。
……あっ、言葉! そっか、みんなは言葉が通じないのか。
俺が通訳すると、ソフィアばあちゃんはそっけなく言った。
「あぁ、アンタだったのかい、アタシたちの主人っていうのは……」
ソフィアばあちゃん、態度がデカいですッ!
どうやらハサンとこの人が商談成立したとき、ソフィアばあちゃんは織物の目利きの腕を披露していたらしい。俺の誇大広告が、そのまま伝わってるとは誤算だったが……この人が、ばあちゃんの腕に惚れ込んだのは本当のことらしかった。
「じゃ、うまくやれよ、お前ら」
ハサンがヒラヒラと手を振って、門を出ていくのを、俺たちはまだなんとなく心細い思いで見送ったんだ。
* * *
それからの毎日は慌ただしかった。
旦那様が商売のための店舗や倉庫を契約したり、織物を仕入れたり、俺はどんなところにでも一緒にくっついてって、通訳をする。計算ができることがバレてからは、在庫表や帳簿まで手伝うようになった。オスマン語の文字を覚えるのは、めちゃくちゃ苦労してるけど……。
ソフィアばあちゃんは、仕入れや品揃えを決めるのに、存分に腕を振るっている。驚いたことに、旦那様とソフィアばあちゃんは、すぐに織物のことなら話が通じるくらい、お互いの言葉を理解するようになった。プロ同士ってそんなものなのかもしれない。
親父さんとマノスも忙しい。旦那様が移住してきたイスラム教徒のために、今まで教会だった建物に手を入れて、イスラム教の小さな礼拝所を整備しようとしているのだ。その工事に参加して、マノスがイスラム教徒の職人から習った新しい技術について、目を輝かせて語るのは、ちょっと意外だった。
その中で、エレニひとりが浮かない顔をしているように、俺には見えた。
その日、朝から庭で洗濯ものを干しているエレニの後ろに座り込んで、俺は声を掛けた。
「エレニ、おはよう。最近、元気なくない?」
「そう……かな?」
「隠すなよ。何か悩んでる?」
「…………」
エレニは、物干し竿に向かったまま、俺の方を見ない。肩を落とした背中が、小さく見える。
「わたしだけ、何の役にも立たなくて……」
「え?」
「みんなが旦那様のお役に立ってるのに、家のことしかできなくて……」
俺は言葉に詰まった。「家事だってみんなの役に立ってるよ!」なんて言葉は、たぶんエレニの慰めにならない。きっとそういうことじゃない。
俺は思わず立ち上がって、エレニの肩を両手で包み、真正面から顔を見て言った。
「エレニ、俺にまかせて!」
エレニは、少し潤んだ鳶色の瞳を大きく見開いて俺を見た。
「よく分からないけど、レオがそう言うなら……」
いつだって、どこでだって、エレニの笑顔は俺が守る!
エレニのいじらしい表情に、キュン死にしかけながら、俺はあらためて誓ったんだ。




