第5話
夜明け前、激しかった砲撃の音が途切れた。
その知らせが届いたのは、ハギア・ソフィア大聖堂に集った市民たちが、疲れ切ってうなだれていた頃のことだった。
大聖堂の扉を激しく叩く音に、みんなの緊張が一気に高まった。
「入れてくれ! 頼む!」
隙間程度に開けられた扉に手を掛けて、倒れるように転がり込んだのは、負傷したビザンツ兵だった。鎧はほとんど身に着けていない。片手の槍は武器というより、傷ついた身体を支える杖のようだった。頬には自分のものか他人のものかも分からない血がべったりと付いている。ざわつく市民たちを前に、その人は無情な現実を告げた。
「城壁を突破された! オスマン兵が街に入ったぞ!」
敗走するビザンツ兵が、次々にハギア・ソフィア大聖堂へと押し寄せる。
やがてオスマン兵の侵入に備えて、男たちの手で大聖堂の扉は、内側から固く閉ざされた。
「くそっ! どうなっちまうんだ、俺たち」
隣でマノスが、焦りを隠せずつぶやく。
本当だよ、このまま史実どおりになったら、俺たち——。
「騒ぐんじゃないよ。アタシたちにできるのは、祈ることだけさ」
年の功というべきか、ばあさん……あらため、ソフィアばあちゃんは、誰よりも落ち着いていた。今にも敵兵が攻め込んできて、殺されちまうかもしれないっていうのに。
エレニに目を遣ると、ばあさんと同じように祈ってはいるものの、顔は青ざめ、十字架を握る手は小さく震えている。なんの慰めにもならないかもしれない。でも、励ましてやりたい。
そう思った俺の目の前で、エレニの手に自分の手を重ねたのは、マノスだった。
恐れていたときが、ついに訪れた。
ハギア・ソフィア大聖堂の周りに、オスマン兵たちの声が響く。
ガキィン! ガンッ! ガンッ!
外側から、扉がこじ開けられようとしている。
「おばあちゃん……!」
エレニが、ソフィアばあちゃんをギュッと抱きしめた。
その場の人たちを支配しているのは、恐怖や混乱、それ以上に「これが最後」という悲壮な覚悟。祈りの声とすすり泣きが、大聖堂に淀んでいた。
バァン!
ついに、大聖堂の扉が破られた。閉ざされていた大聖堂内に、外の光が鮮烈に差し込む。
一斉に絶望の叫びが、市民や敗残兵たちから上がった。
逆光で、侵略者の表情は見えない。ただ、そいつらの昂った会話が俺の耳に届いた。
「おやおや、こりゃあ、大漁だな。戦利品が選び放題じゃないか!」
「早い者勝ちだぞ」
「さて、どいつだろうな? 価値ある奴隷は」
俺は、背筋が寒くなった。
奴隷だって? エレニが奴隷にされたら……どんな扱いを受けるんだ?
考えたくもない想像が頭を駆け巡り、俺はかき消すように頭を振った。
扉から興奮した様子のオスマン兵が、続々と大聖堂内に入ってくる。ビザンツ兵より軽装だが、手には剣や槍がギラリと光る。
市民たちが一斉に壁際に身を寄せる。オスマン兵たちは気にも留めず、 人の群れに足を踏みいれていく。
「ふむ、なかなか器量のよい娘じゃないか」
エレニぐらいの年のうら若い女性の顔を、一人のオスマン兵が片手で上向けたときだった。
「薄汚い侵略者が! 同胞に触れるなぁ!」
後ろにいたビザンツ兵の一人が、剣を振り上げた。
グサリ……と音がして、倒れたのはビザンツ兵のほうだった。オスマン兵の槍が、一瞬でその人の腹を貫いていた。
周りで市民たちの悲鳴が上がる。床に血だまりがどんどん広がっていく。
オスマン兵に手を掛けられた娘の顔は、恐怖に凍りついていた。
「馬鹿な男だ。大人しく奴隷になっていれば、命は助かったものを」
間近で人の死を見た衝撃より、俺の頭にはオスマン兵の一言が強烈に残った。
奴隷になれば、命は助かる。
とにかく、今は生き残ることじゃないか? この場を切り抜けるために、奴隷になってでも。
気づけば、大聖堂のあちこちで、さっきみたいなやり取りが繰り広げられ、混乱が広がっていた。
「大人しくしろ! 命は取らん」というオスマン兵と抵抗するビザンツ兵や市民たち。それでも抵抗すれば、「面倒だ」とばかりに、オスマン兵は平気で人々を斬り捨てていく。
みんな落ち着けよ! 俺は叫びたい思いだった。
こいつらの言葉が、100%本当とは限らない。でも、少なくとも大人しくしておけば、生存確率は上がるのに——。
そのとき、俺は気づいたんだ。
みんな分からないんだ、あいつらの言葉が。
俺だけが、オスマン兵の言葉を理解してる。
これが、転移者チート!!
そのとき、エレニとソフィアばあちゃん、マノス、親父さん、俺に近づいてくる二人のオスマン兵がいた。
「こっちの男たちは、なかなかガタイがいいな。力仕事に使えそうだ」
「娘も上玉じゃないか。ババアは不要だが」
「ん? この珍妙な見てくれのヤツは、外国人か? 役に立つのかよ?」
これだ! ここが生き残るチャンスだ!
俺は震えを押し殺し、オスマン兵たちの前に進み出て、声を張った。
「俺は、役に立つ男だ!」
背中で、エレニたちがハラハラしてるのが分かる。
オスマン兵たちが顔を見合わせる。
「お前、俺たちの言葉が分かるのか……?」
「分かる! あんたたちの言葉も、ここの人たちの言葉も!」
一人がニヤリと笑った。
「なるほど、通詞ができるというのは、なかなか面白いな。俺がもらう」
「待て、条件がある!」
俺が止めると、もう一人が片方の口の端をつり上げて嘲笑った。
「条件? 勘違いするなよ。お前らは交渉できる立場にない。選ぶのは俺たちだ」
スラリと抜いた剣を鼻先に押し当てられて、俺は黙るしかなかった。背中の四人が息を呑む気配がした。それでも、これが最大にして最後のチャンス。ビビってる場合じゃねぇ!
意外なことに「俺がもらう」といった男のほうが、助け舟を出した。
「言ってみろ、条件とやらを」
俺は、一瞬だけ後ろで身を寄せ合う四人に目を遣った。
エレニは……みんなは、俺が救う!
俺は、グッと腹に力を入れた。
「俺は……俺たちは、全員役に立つ! あんたの奴隷になるなら、五人一緒が条件だ!」
「ほぅ、どう役に立つ?」
「男二人は、腕利きの大工だ! 女の子は、才能ある織物職人。そして、このばあさんは……コンスタンティノス11世陛下に献上する織物を選んでた熟練の目利きだッ!」
さ、最後はちょっと盛っちまったが……これでどうだ!
鼻先に突き付けられていた剣を、男が手でのけた。
「いいだろう、今日から俺がお前らの主人だ」
俺たち五人を見下ろして、その男——ハサンは、ニッと白い歯を見せて笑った。
俺の後ろでは、まだ事態を吞み込めないエレニたちが呆然としていた。




