第4話
ハギア・ソフィア大聖堂は、集まった市民でごった返していた。疲れて座り込む老人、泣く子どもをなだめる母親、祈りの言葉を唱える人たち。みんな顔には不安や疲れの色が濃い。
そんな中、知った顔と会えたのは幸運だった。
「ばあちゃん、エレニ、レオもみんな無事だったのか!」
「マノス、おじさんも……よかった!」
不安にこわばっていたエレニの顔が、ホッとほころんだのを見て、俺は胸がジンと熱くなった。
マノスの親父さんが、ばあさんを労う。
「ばあちゃん、ここまでの坂道はしんどかったろう。頑張ったな」
「それがねぇ、この色男がね……」
「…………!?」
ばあさんの指が、スススと俺の胸を昇ってくる。
俺は、ゾゾゾと肌を粟立たせた。嫌な予感。
「アタシを攫うようにおぶってここまで走ってくれたのさ」
おい、ばあさんの目が完全に恋する乙女なんだが……。
「ばあさん、何言って……」
「そんな他人行儀な呼び方はよしておくれよ。ソフィアと呼んでおくれ、レオ♡」
ちょっと待てーーー! 今絶対語尾にハート付いてたろ!?
ちがう! 俺はエレニのために!
「そうなのか、レオ。ありがとうな!」
マノス、お前、微笑ましそうに眺めてるんじゃない!
「ばあちゃんに気に入られるとは、なかなかやるなぁ、レオ」
親父さんも、誤解ですッ!
「あのときのレオ、すっごく頼もしかったわ!」
エレニがそう言ってくれるなら……まぁいいか。
てか、マジ天使! ふわっと花がほころんだようなエレニの笑顔に、俺は鼻の下をこすった。
ばあさんをおぶって走ったのは、単に俺の下心からの行動だったのに、みんなが笑顔になってくれて。俺も家族の一員に認められたようで、この世界に来てやっと居場所ができたような気がしたんだ。
ハギア・ソフィア大聖堂が夕闇に包まれ、灯りが点された。といっても、高い天井のドームは、今は闇に包まれていて、昼間見えていた荘厳な装飾を見えない。
俺とエレニとマノスは、小さな声で語り合っていた。二人と向かい合っていると、なんだかここが今夜陥落するコンスタンティノープルとはとても思えない。体育祭の待ち時間に、友だちとくだらないおしゃべりをしてるような錯覚にさえ陥る。
マノスが俺に尋ねた。
「レオは、どこから来たんだ?」
「うーん……ずっと東の方?」
「ははっ、大雑把だなぁ」
今度は、エレニに聞かれた。
「仕事は? レオは何が得意なの?」
「得意ってわけじゃないけど、学校に行って勉強してた」
「そうなの? すごいわ、レオの家はお金持ちなのね!」
「いや、普通の家だけど……」
でも、そんなに年の変わらない二人が働いてるって聞いて、勉強だけしてればいいって、恵まれたことなのかもしれないと思ったんだ。
今でこそ、原料の繊維が入ってこないから商売にならないけど、エレニは織物職人らしい。ばあさんに至っては、熟練工として、織物の目利きの才を買われ、大商人のところにも出入りしてたんだとか。
マノスと親父さんは、大工として生計を立ててるんだって。俺が倒れてたあの小さな礼拝堂も、二人が手入れしているらしい。
歴史オタク教師の増田の授業を聞いたとき、こんなふうにこの街で暮らしてる人たちがいるなんて、考えもしなかった。
年号。皇帝やスルタンの名前。戦争に勝った、負けた。テストに出るのはそれだけ。
じゃあ、コンスタンティノープル陥落って? この都市がオスマン帝国のものになったら、一体何が起こるんだ?
街が焼き払われる? 人が死ぬ?
エレニは、マノスは、ばあさんや親父さんは? ここに集まってる人たちはどうなるんだよ?
今夜、みんなに何が起こるんだ!?
くそっ! 転移者のくせに、なんで俺は何も知らないんだよ!
俺は、唇を噛んだ。
「レオ? 疲れちゃった?」
エレニが心配そうに、俺の顔を覗き込む。
あの雨の日、礼拝堂の軒下で、俺を見つけてくれたエレニの鳶色の瞳。
そうだ、これから起こることは分からないけど、エレニのことは必ず俺が守る!
「俺、頑張るから!」
つい口に出てしまった一言に、エレニとマノスが顔を見合わせた後、小さく吹き出した。
「レオったら、変なの!」
「よく分かんないけど、頼りにしてるぞ、レオ」
夜が更けていく。その日、大聖堂には聖職者や市民、貴族や外国人、ふだんはケンカしてる宗派まで、いろんな人が集まっていたらしい。その誰もが「これが最後の夜かもしれない」という切迫感の中、祈りを捧げていた。正直俺にとっては、一つ一つの儀礼は意味が分からないし退屈で、ウトウトしながら子守歌のようにそれを聞いていた。
ときどき、隣で一心に祈るエレニの横顔を見ては、やっぱり髪がきれいだなぁとか、まつ毛長いなぁとか、そんなことを考えていた気がする。
急に大聖堂全体から、わぁっと悲壮などよめきが上がって、俺は目を覚ました。
「陛下! コンスタンティノス11世陛下!」
世界史の教科書に載っているその人は、その名を悲痛に叫ぶ人垣の向こうで、俺からは全然姿が見えない。
ただ、「あぁ、この人はもうこの街に帰ることはないんだ」と、俺だけがその史実を知っていた。




