第3話
翌日の昼食の時間、俺たちがわずかなパンと水だけの食卓を囲んでいると、玄関のドアを叩く音がした。
エレニが可愛らしい足音を立てて、ドアに向かう。せっかちな客が外から声を掛けた。
「おーい、ばあちゃん、エレニ! いるか?」
「マノス、どうしたの?」
エレニが、ドアを開ける。
マノスと呼ばれた声の主は、俺より頭半分は背が高そうな若い男。年は、エレニや俺より少し上だろうか? 日に焼けた肌に、服の上からも分かる厚い胸板、人懐こそうな笑顔は、男の俺から見てもイケメンだ。
マノスは、小脇に抱えていた小さな袋をエレニに渡した。
「礼拝堂に寄ったら、司祭様がばあちゃんとエレニに持ってってやれって」
袋を開けたエレニの声が明るくなる。
「ありがとう! パンも残り少なかったから助かるわ」
「いつも世話になってばかりで済まないねぇ、マノス」
「なんの。今は城壁の向こうからモノが来ないからな。ばあちゃんたちが稼ごうにも稼げないだろ」
ふむふむ、包囲戦ってことは、当たり前だけど、輸入も輸出もストップしてるんだな。
……なんて、マノスの言葉にお利口に頷くより、俺は今さらながら落ち込んでいた。ばあさんとエレニの貴重な食料を、俺は居候の分際でなんの遠慮もなくいただいていたのだ。あのボソボソのパンだって、きっと二人が食べるのを我慢して、捻出してくれたに違いない。
密かにしょげている俺に、エレニの頭越しに、マノスが明るく声を掛けてきた。
「おーい、お前がエレニが拾ったっていう行き倒れ?」
くそぅ……イケメンって嫌味がねぇな。俺が顔を上げると、マノスが歯を見せて笑っていた。
「見てくれは異教徒みたいだが……礼拝堂で倒れてたなら、神のお導きに違いない」
「そうかねぇ、こんなどこの馬の骨ともしれないへんちくりんに、神のご加護があるもんかね?」
「おばあちゃんったら! レオをいじめすぎよ」
「そうか、レオって言うのか、お前」
三人の家族のような息の合った会話に、俺は正直気後れしていた。
そんな俺を気遣うように、エレニが紹介してくれた。
「レオ、幼なじみのマノスよ。ご近所さんなの」
「よろしくな、レオ」
「……おう、よろしく、マノス」
それが俺と恋敵との出会いだった。
そんな和やかな雰囲気が壊れたのは、一瞬のこと。
ドォン! 突然、地を揺らす轟音が響いた。
「きゃあ!」
「またオスマン軍の砲撃か……!」
エレニが耳を塞いでしゃがみ込む。気の強いばあさんが、頭を抱えて、テーブルに突っ伏している。
ここは決して城壁の近くってわけじゃないのに、家全体が震えるような衝撃で、テーブルの上の皿がカタカタと音を立てる。
俺は、なすすべなく固まっているしかなかった。
そのとき、入口のマノスの背後からよく通る低い声が響いた。
「マノス、ここにいたのか! ばあちゃんもエレニも無事だな」
「親父!」
「おじさん!」
マノスの親父さん……ってことだよな? ガッチリ体型の日焼けしたイケオジは、なるほどマノスがそのまま年を取ったみたいだ。
親父さんは、全員の顔を見回して、胸を撫で下ろしたのも束の間、自分自身を落ち着けるように息を吐いてから言った。
「落ち着いて聞いてくれ。オスマン軍が総攻めしてくるって噂がある。市民は続々とハギア・ソフィア大聖堂へ集まってるって話だ」
マノスが、エレニが、ばあさんが、息を呑んだのが分かった。
突き付けられる現実に、俺の身体からスゥと血の気が引いていく。
この街は……コンスタンティノープルは、本当に明日滅亡するんだ——。
* * *
この世界に初めて来た日に見た巨大なドーム、あれがハギア・ソフィア大聖堂だったらしい。
俺とばあさん、エレニは今、ほとんど身一つで、その大聖堂が建つ高台へと向かっていた。周りは同じようにハギア・ソフィアへ急ぐ人たちでいっぱいだ。子どもを連れた母親、足の遅い年寄りを励ましながら進む家族、皆一様に不安な表情だった。
道は登ったり下ったりの坂道。エレニや俺はともかく、腰の曲がったばあさんには険しい。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「アタシのせいで、アンタたちまで遅くなって……済まないねぇ」
荒い息の下でばあさんがそうつぶやいたとき——ドォン!
また爆発音が鳴り響いた。コンスタンティノープルの城壁を脅かすオスマン軍の砲撃だ。
周りの市民たちがざわめく。不安に駆られた人たちの足が自ずと速まる。
人の波に押されて、ばあさんがよろめく。
「あ、おばあちゃん……!」
支えようとしたエレニの手を、ばあさんがピシャリとはねのけた。
石畳の道に倒れ込んだばあさんは、それでも気丈だった。
「アンタたちだけでも、先行きな! アタシのことは構うんじゃないよ!」
「そんなこと、できるわけないじゃない……っ!」
今にも泣きだしそうなエレニの顔を見て、俺はギュッと拳を握った。
俺は、なんでこの世界に召喚されたのか分からない。
明日、自分がこの世界を救う方法も知らない。
でも、エレニの笑顔は、俺の手で守る! 絶対に!
「ばあさん、乗れ!」
俺はばあさんの前にしゃがみ込み、背中を差し出した。
「レオ……」
「アンタの世話にはならないよ! エレニをハギア・ソフィアまで無事送り届けな!」
「うるせぇっ! 俺の坂道ダッシュなめんな!!」
「さ、坂道ダ……? え?」
そうだよ、おれが卓球部で毎日坂道ダッシュの基礎練を積んできたのは、今日この日のため。
エレニの前でばあさんを助けて、カッコいいとこ見せるためだったんだ!
俺は、ばあさんを半ば強引に背中に乗せた。
「ちょ、な、何するんだい!」
「うわっ、暴れんなよ! 余計重くなるだろ!」
「失礼な男だねっ! 重けりゃ下ろしな!」
「やだね、下ろさねぇ!」
ジタバタするばあさんを抑え込んで、俺はエレニに向き直った。
「エレニ、先急ぐんだろ!? 行くぞ!」
「う、うん……!」
俺は、再びハギア・ソフィア大聖堂へ続く坂道へと踏み出した。
背中にばあさんの体重を、隣にエレニの存在を、たしかに感じながら。




