第2話
ほんのりとした灯りが点されたエレニの家の食卓には、パンとスープ、水の質素な夕食が並んでいた。
エレニが心配そうに俺に問いかける。
「レオ、本当に大丈夫? 何日も食べてないんでしょう?」
「お腹は空いてる!」
実際久しぶりの食事を前に、俺はウズウズしていた。立ち上るスープの香りが、鼻をくすぐる。
「それじゃ、いただくとするかね」
ばあさんの合図で、俺はパァン!と音を立てて、手を合わせた。
「いただきますッ!」
スプーンを勢いよく茶色っぽいスープにつっこもうとした俺は、二人の視線を感じて止まった。
エレニが不思議そうに尋ねる。
「今のが、レオの食前のお祈り?」
ん? いただきますのことか?
「祈りっていうか、感謝かな? 命をくれた食材と、食事を作ってくれた人への」
「そう、そうなの。なんだか素敵ね!」
日本人にとっては、ごくごく型どおりの返答だったのに、そういって笑ったエレニの顔を見て、俺はなんだか胸の辺りがこそばゆくなった。
ばあさんとエレニが、首にかけていた十字架を握って、小さく祈りらしきものを唱える。最後に胸の前で十字を切って、二人は目を開けた。
もう食べていいんだよな? 俺は湯気を立てるスープをひと匙すくって、口に運ぶ。
「うまっ!」
一口目で、思わず声が出た。喉から食道を通って、胃に落ちる温かさに、俺はジーンと感動していた。
正直初めて食べる料理なので、味の良し悪しなんてよく分からない。ただ、温かい食べ物がいただける。俺はそれだけで、なんかすげー安心したんだ。
「うちの秘伝のスープだからね。旨いに決まってるよ!」
「そうよ、おばあちゃんの得意料理なの! 玉ねぎとレンズ豆のスープ」
ばあさんのドヤ顔に、エレニもうれしそうに自慢する。
二口目は、味わって食べよう。とろみのついたスープを舌の上で転がすと、玉ねぎの甘みと素朴な豆の味を、シンプルな塩味が引き立て、ほんのりと乾燥ハーブの風味が鼻に抜ける。ちょっとだけコクを感じるのは、オリーブオイルだろうか?
ヤバ、これ何杯でもいける!
「ちょ、ちょっと、レオ。病み上がりなんだから、もうちょっとゆっくり食べないと」
エレニの心配をよそに、俺はあっという間にスープを飲み干した。
隣からエレニが、控えめに自分の皿を差し出す。
「もう少し食べる? レオ」
「え、いいの?」
そのとき、向かいで見守っていたばあさんが、ピシャリと俺を叱った。
「ちょっとアンタ、いい加減にしな! この戦時中、どこの家にスープをおかわりできる余裕があるってんだい。行き倒れを拾ってやっただけでもありがたく思いな。エレニも、甘やかすんじゃないよ!」
食卓は火が消えたように静かになった。食器がぶつかる音が、わずかに響くのみだ。
俺は思い知った。そりゃそうだよな、今日が5月27日ってことは、コンスタンティノープルはすでに約2ヶ月包囲戦を戦っていることになる。いつまで戦闘が続くか分からない状況で、市民は食料が底を突くかもしれない恐怖と戦っているんだろう。本当はあと2日で決着が着くんだけど……とは言えないが。
俺はモソモソしたパンを、水で流し込みながら、そんなことを考えた。
* * *
その夜、この家に来てからずっと寝かされていたベッドに、再び休もうとしていたとき。
階段を昇る軽やかな足音がして、小さなノックの後、エレニの顔がのぞいた。夕食のときは三つ編みだった髪が解かれて、栗色の髪がゆったりと波打っている。
髪をかき上げるエレニの仕草に、俺は目が離せなかった。エレニのやわらかそうな唇が、スローモーションで俺の名を呼ぶ。
「レオ」
「……っ!」
(ど、どうしよう……エレニ、可愛すぎるだろ! ドキドキしすぎて、なんもいえねぇ……)
エレニが、訝しそうに俺の顔を覗き込む。
「レオ? どうしたの?」
「あ、やっ……えと……」
顔を真っ赤にしてどもる俺を、変なの、と笑って、エレニはベッド脇の壁に向き直った。
「夜のお祈りだけさせてね」
この部屋は、もともとエレニの寝室らしい。
壁には、子どもを抱いた女の人の後ろに後光が差してる、なんていうか……独特な絵が飾られていた。「イコン」というのだと、エレニが教えてくれた。
「生神女マリヤ様よ。レオも祈るといいわ。知らない土地でも、きっと神があなたを守ってくださる」
そんなこと言われても、俺はエレニのように、この国のお祈りの言葉も知らないし……。そもそも神様に真剣に祈ったのなんて、高校受験のときぐらいだ。エレニは毎晩こうしてお祈りしているんだろうか? 神様を日常的に信じるってことが、俺にはどうにもよく分からない感覚だった。
十字架を両手で包んで、一心に祈りを捧げるエレニの横顔を、俺は隣から下心いっぱいで眺めていた。エレニの長いまつげが、頬に陰を落とす。少し俯いた横顔に、ハラリとひと筋髪が流れ落ちた。
(やっぱり……エレニの髪、きれいだ)
いくらでも見ていたいと思ったのに、やがて髪と同じ色のエレニのまつげがゆっくりと上向き、大きな鳶色の瞳が俺に向けられる。少し眉根を寄せて、エレニはぷくっと頬を膨らませた。
「もうレオったら……真面目にやって!」
(ヤベェ! むくれた顔もめちゃくちゃ可愛い!)
俺のおでこを軽くペチッと叩いて、エレニは「おやすみなさい」と去っていった。
直後、俺が枕に突っ伏して悶絶したのは、言うまでもない。
その夜やっとこの世界で人心地ついて、安心して眠りについた俺は、深く考えることもなかったんだ。
2日後、エレニが、ばあさんが、この街がどうなるかなんて──。




