第1話
行き着いた礼拝堂の軒先から、ぴちゃん、ぴちゃんと雨水が滴る。顔先の水たまりで、雫が跳ねる。
「腹……減った……。寒い……」
半袖のパーカーと短パンの服装の俺に、夜風は厳しかった。
朝靄の中、冷たい石段の上に倒れたまま、遠のく意識の中で、俺はつぶやいた気がする。
この世界に来て、どれくらい経っただろう? 2日……いや、3日?
知らない文字に、外国のような石造りの街並み。これはたぶん異世界転移ってヤツ。ふつう助けてくれる村人とすぐに出会うとか、テンプレ展開があるだろうよ? この世界の創造者は、そんなことも知らないのか?
焦りとは裏腹に、俺に手を差し伸べてくれる住民は、誰もいなかった。
突然飛ばされたこの街に、人影はまばらだった。時折響くドォン!という地面を揺らす音に、人家も商店も、怯えたように門を閉ざしている。
くそっ! ここはどこだよ? いつなんだよ!? それさえ分かれば、俺の高校生男子レベルの現代知識でも、無双できるんじゃ!?
街並みの向こうにそびえ立つ巨大なドーム、あれがヒントか?
あ、ダメだ……今度こそ意識が……。
あきらめかけたその瞬間だった。
「あなた、大丈夫……!?」
俺の顔にハラリとこぼれかかる長い栗色の髪。
この世界で初めてやさしい言葉をくれた可憐な声の主が、天使に見えた。
肩を揺するその子の手のぬくもりに安心して、つい俺は目を閉じてしまったんだ。
* * *
5月下旬にしては、汗ばむ陽気の週末。
俺は自室で、中間テストの勉強に明け暮れていた。
ヤバイ、とにかく世界史がヤバイ……。
ノートを開くと、パッと目に入ってきたのは、走り書きされた一文。
〝1453年5月29日 コンスタンティノープル陥落″
歴史オタク教師・増田の声がよみがえってきた。
「ここ、テストに出るからなー! 世界史上の大転換点! ビザンツ帝国の滅亡!」
いやでも、その後が面白かったんだよな。コンスタンティノープルでのビザンツ皇帝・コンスタンティノス11世とオスマン帝国スルタン・メフメト2世の攻防! 金角湾の封鎖、オスマン艦隊の山越え、絶大な威力のオスマン軍の大砲……増田の数々の一人語りの中でも、あれは聞くに値する脱線だった。
……って、そんなピンポイントの事件じゃなくて、テスト範囲全体をカバーしなきゃいけないんだろうが、俺!
ぬるくなった麦茶を一口飲んだ時、網戸にしていた窓からカーテンがブワッと舞い上がって、俺の視界を塞いだ。
思わずつぶった目を再び開けたとき、俺の前には閑散とした石畳の街が広がっていたんだ。
* * *
ピクピクと痙攣するまぶたを、うっすらと開けると、柔らかいオレンジ色の光で視界が満たされた。
そのまま首を回すと、だんだんと視点が定まって、夕陽の窓に向かう三つ編みの女の子の後ろ姿が目に入る。
「俺……?」
乾いた唇から漏れた声は、自分のものとは思えないほどしゃがれていた。
栗色のおさげが大きく揺れて、女の子が振り向く。俺と同い年ぐらいだろうか?
驚いた様子で、その子はドアに向かって叫んだ。
「おばあちゃーん! 目を覚ましたわ!」
ドタドタと足音がして、バンッ!と扉が開かれる。
シワシワの顔に腰の曲がったばあさんは、ベッドの上に起き上がった俺を、片眉をつり上げ、上から下まで見回して言い捨てた。
「怪しいねぇ! 顔立ちと言い、服と言い、こんなへんちくりんな人間は見たことがないよ。やっぱりオスマンの間者じゃないのかい!?」
「そんな間抜けなことってある? 凍えて行き倒れてる間者なんて、聞いたことないわ」
へんちくりん、間抜け……全く褒められていない。
ん……? 俺この人たちの言葉が分かる。これが転移者特典!
てか、オスマン? オスマンって言ったか、今?
言い合う二人の間に、俺は言葉を挟んだ。
「あの……ここはどこですか?」
きょとんとして、女の子が答える。
「ここは、おばあちゃんとわたしの家だけど」
「あ、そうじゃなくて……国とか都市とか?」
ばあさんが、フンッ!と鼻息荒く答えた。
「ここはコンスタンティノス11世陛下のお膝元、コンスタンティノープルさ!」
俺は心臓を鷲掴みにされたように、ビクンとなった。
コンスタンティノープルだって……!? あの増田の一人語りに出てきた!?
「あの……っ! 今は、何年何月何日ですか!?」
女の子が怪訝な顔で返した。
「1453年5月27日だけど?」
「…………!」
コンスタンティノープル陥落まで、あと2日。
知ってるのは、転移者の俺だけ。
俺に何ができる? 何をするために、俺はこの世界に呼ばれたんだ!?
ドクンドクンと暴れる心臓がうるさい。
「ねぇ、そんなことよりあなたの名前を教えて」
栗色の髪の女の子に、やさしく顔を覗き込まれて、俺は掠れた声で答えた。
「あ、あぁ……玲央、伊藤玲央」
「イトー!? やっぱりお前よそ者だね! そんな珍妙な名前、聞いたことないよ!」
「あ、えっと……玲央が自分の名前で、伊藤は家の名前です」
「レオ、レオっていうのね、あなた」
いつのまにか女の子に手を握られて、俺の鼓動はトクトクとさっきとは違うリズムを刻み始めた。
「わたしは、エレニ。よろしくね、レオ」
雨の朝、俺を拾ってくれた天使が、潤んだ大きな鳶色の瞳で微笑んでいる。
心臓の音が伝わるんじゃないか?
そんな心配をしながら、俺はエレニの華奢な両手を、おそるおそる握り返したんだ。




