新しい服と人生
午後の紅茶の時間。
女王は、王城のテラスで優雅にフィナンシェを頬張っていた。
「んー、おいし♡」
焼きたてのバターの香りが、紅茶の湯気に混じってふわりと鼻をくすぐる。
ちなみにフィナンシェは、フィナンツェ王都の名物である。
金の延べ棒に似たその形は、マネーリテラシーの高いフィナンツェ国民に広く愛されている。
「ね、そういえば」
二つ目のフィナンシェへ手を伸ばしながら、女王は隣に立つ軍師を見上げた。
「軍師の趣味ってなに?」
「趣味ですか?」
不意を突かれたように、軍師が瞬きをする。
「ええ。いつも仕事ばっかりしてるじゃない。休みの日は何してるの?」
「特には……」
軍師はしばし考え込んだ。
「強いて挙げるのであれば、読書やチェスでしょうか」
「読書とチェス……」
女王は紅茶のカップを持ったまま、じっと軍師を見る。
「なんか渋いわね」
「そうでしょうか」
「もっとこう……スポーツとか、アウトドアとか、若者らしいことに興味はないの?」
「さあ、特には」
軍師は意味が分からない、とでも言いたげに首を傾げた。
女王は小さく笑う。
「まあいいわ。それより、今日の午後は予定空いてる?」
「はい。特に急ぎの案件はございませんが」
「じゃあ、お買い物に行きたいわ」
「はあ」
「軍師も一緒に来てちょうだい」
「……なぜ、私も?」
あまりにも素朴な疑問だった。
「次の外交用のスーツを仕立てるのよ。あなたにも生地を一緒に選んでほしいの」
「ああ、そういうことでしたらご一緒いたしましょう」
軍師は素直に頷いた。
「よろしくね」
* * *
そして約束の時間。
女王は自室で、街へ出る支度を整えていた。
せっかく街へ出るのだからと、彼女は普段より少しだけおめかしをしている。
淡い水色のワンピースに、薄手のカーディガン。
それでもトレードマークの王冠は外さない。
鏡の前で最後に前髪を整えていると、扉がノックされた。
「陛下、軍師殿がお迎えにいらっしゃいました」
侍女の声に、女王はぱっと顔を上げた。
「はーい。今行くわ」
扉を開ける。
「お待たせ、軍師——」
と、言いかけて女王は止まった。
「ん?」
軍師を見る。
「ん〜??」
つま先から頭のてっぺんまで、もう一度見る。
「えーっと……」
「陛下、どうかなさいましたか?」
「軍師……私服それ?」
「はい?」
軍師は自分の服装を見下ろした。
「これが何か?」
「うーん……」
似合っていないわけではない。
それどころか、上質で仕立てのいい服を一部の隙もなく着こなしている。
濃い茶色のクラシカルな上着。
茶色のベスト。
落ち着いた薄茶色のシャツ。
上着とお揃いの細身のスラックス。
靴もよく磨かれた革靴で、どこを見ても品がある。
——ただし。
若い男性が好む服装かと言われれば、かなり怪しかった。
どう見ても、『由緒正しい家柄の、品の良い老貴族』
……そんな装いである。
銀縁のモノクルも相まって、妙にクラシカルな感じが漂っている。
「あの、何か問題がございますか?」
「問題っていうか……」
女王は軍師の周囲を一周した。
軍師は黙ってそれを目で追う。
「なんていうか、お父さま……」
少し考える。
「……いや、お祖父さまみたいなセンスじゃない?」
「そうでございますか?」
軍師は軽く口角を下げた。
女王は激しく頷く。
「そうよ、なんか……おじいちゃんの服を借りてきた人みたいなのよ!!」
「はあ……?」
軍師は本気で分かっていないようで、女王は額を押さえた。
「あなた、もうちょっと今時の服とか着たいと思わないの?」
「今時の服……」
軍師は困ったように小首を傾げた。
「そうは申されましても」
少し言いにくそうに間を置いて、彼は言った。
「私、享年六十四歳ですから……」
女王の動きが止まった。
「…………」
軍師も黙って、二人は顔を見合わせた。
「…………六十四?」
「はい」
「つまり……」
女王は震える指で軍師を指した。
「軍師って、おじいちゃんだった〜!?」
王城に女王の絶叫が響いた。
「いえ、孫はおりませんでしたので、厳密には祖父ではありません」
「そういう意味じゃないわよ!」
軍師はなおも不思議そうな顔をしている。
「服の好みとしては、年相応かと思っておりましたが」
「見た目が年相応じゃないのよ!」
女王は頭を抱えた。
言われてみれば当然のことだった。
今の軍師は、錬金術によって若き日の容姿を取り戻してはいるが、中身まで若返ったわけではない。
インドアで落ち着いた趣味に、流行にはまったく関係のないファッション。
さらにいうなら、いつもの少々時代がかった口調。
——すべてが一本の線で繋がった。
「…………」
女王はしばらく俯いて何かを考えていたが、やがて、ばっと顔を上げた。
「予定変更!」
「はい?」
「今日は私のスーツは後にしましょう。
——あなたの服を買いに行くわ!」
「私の?」
「今後、あなたの服は私が選びます!!」
「なぜそのような話に……」
「いいから行くわよ!」
軍師の抗議を無視して、女王はその腕を掴んだ。
* * *
そして数十分後。
王都の紳士服店で、試着室のカーテンが開いた。
「……いかが、でしょうか」
着慣れない服を着た軍師が、おそるおそる出てくる。
シンプルな白いシャツ。
身体の線を美しく見せる細身のパンツ。
現代風のすっきりとしたジャケット。
モノトーンの若々しく品のある装いだ。
銀青の長髪が肩を流れ、チャコールグレーのスーツを彩った。
決して派手ではない——それなのに。
女王は言葉を失った。
「……女王?」
「…………」
「お気に召しませんでしたか?」
「逆よ……」
女王は自分で見立てたファッションに満足したのか、感極まった声を上げた。
「これよ、これだわ!
なんで今までその見た目で、おじいちゃんみたいな服着てたのよ!」
「……そこまで私の服にガッカリなさっていたのですか?」
「素材がいいんだから、もっと活かしなさいよ!!」
理不尽に怒られ、軍師はわずかに目を細めた。
「私としては、品位を損なわなければ何でも構わないのですが」
「何でもいいが一番困るのよ」
「左様でございますか……」
女王は満足げに軍師を眺めた。
けれど軍師は鏡の前に立ったまま、どこか落ち着かなそうに自分の姿を見つめていた。
「……軍師?」
呼びかけると、軍師はハッと我に返った。
「はい」
「どうかしたの?」
「……いえ」
軍師はもう一度、鏡の中の自分を見た。
「少々……妙な気分になりまして」
「妙?」
「ええ」
鏡の中には、若い男が立っている。
皺ひとつない白い肌。
まっすぐに伸びた背。
銀青の髪にも、かつて混じっていた白髪はない。
二十代の頃と、ほとんど変わらない姿。
それを見つめながら、軍師は静かに言った。
「私は生前、少しずつ自分の老いを受け入れていました」
女王は黙って軍師の話に耳を傾けた。
「年を経るたびに、次第に皺が増え、髪が白くなり……身体が以前のようには動かなくなる」
淡々とした声だった。
「それが、私にとっての自分の姿なのです」
軍師は、自分の手を見る。
細くしなやかな指は、もはや老人のものではない。
「ですから、こうして若い姿に戻ったところで……」
少しだけ笑った。
「気持ちまで若い頃に戻ったわけではないのです」
女王は、しばらく軍師の横顔を見つめていた。
「……そっか」
女王は、軍師の隣に立った。
鏡の中に、二人の姿が並んだ。
若い女王と、彼女より少し年上にしか見えない軍師。
けれど、男は女王よりもずっと長い時間を生き、そして一度その生涯を終えたのだ。
「じゃあ、さ」
女王は鏡越しに軍師を見る。
「無理して若者にならなくてもいいんじゃない?」
軍師が少し意外そうに目を向けた。
「さっきまで若い服を着ろと仰っていたように記憶しておりますが」
「服は別よ」
「別なのですか」
「別なの!」
きっぱり言い切ると、女王は少し笑った。
「でもね、中身まで無理に若返る必要なんてないわ」
「……」
「あなたは六十四年生きてきた。だけど——」
女王は鏡の中の彼を指差す。
「今のあなたには、今の時間があるのよ」
「今の……時間」
「そう」
女王は頷いた。
「昔の続きじゃなくて、新しく始まった時間」
軍師は何も言わなかった。
「だから、今まで着なかった服を着たっていいし、今までやらなかったことをやってもいいじゃない」
そこで女王は、いたずらっぽく笑う。
「読書とチェス以外にも、趣味を増やしてもいいし」
「……その話に戻りますか」
「だってあなた、人生二周目みたいなものでしょう?」
「人を転生アニメの主人公みたいに言わないでください」
「ま、重く考えたって仕方ないじゃない」
女王はくるりと彼の前へ回った。
「せっかくもう一度生きられるんだから」
そして、両手に持った新しい服を、次々と彼に当ててみた。
「ほら、このニットも似合う。カットソーも!」
どちらも若者が好みそうなファッションに、軍師は少し戸惑った。
それを見て、女王はにっこりと微笑んで見せた。
「前の人生でできなかったこと、いっぱいやりましょ!」
その一言に、軍師は少し目を見開いた。
「陛下——」
けれど、すぐには言葉が次いで出なかった。
彼は、もう一度鏡を見た。
そこには、自分がいる。
もう二度と見ることはないと思っていた、若い頃の自分が。
そしてその隣には、得意げな顔をした女王が立っている。
軍師は静かに息をついた。
「……そうですね」
そしてわずかに口元を緩めた。
「少しずつ、慣れていくことにいたしましょう」
「何に?」
軍師はしばらく考えて、答えた。
「新しい人生に」
女王は一瞬、目を丸くした。
それから柔らかい笑みを浮かべた。
「いいじゃない」
そしてすぐに、いつもの調子に戻った。
「じゃあ次、もう一軒いきましょう!」
「まだあるのですか?」
「当然でしょ、今度は靴よ!」
王都の仕立て屋に、得意げな女王の声が響いた。




