名前を教えてくれない軍師
昼下がりの執務室。
女王は、署名の必要な書類を片付けていた。
自分の名を書き終えたところで、ふと向かいに座る軍師を見る。
軍師はいつものように、難しい顔で報告書へ目を通していた。
「ねえ、軍師」
「なんでしょうか」
「あなた、名前はなんていうの?」
あまりにも唐突な質問に、軍師の手が一瞬止まった。
「名は……軍師とお呼びいただければ、それで十分でございます」
女王は自分の周りにいる人々に想いを巡らせた。
宰相は宰相。
料理長は料理長。
役職で呼べば大抵はそれで事足りる。
——それはそうなのだが。
「でも、それは役職でしょう?」
「ええ、私は軍師という記号で構いません」
「そんなのは嫌よ」
「何か問題がございますか?」
「あるわよ!」
女王は机に身を乗り出した。
「もっとちゃんと、あなたのことを名前で呼びたいの」
軍師の氷青色の瞳が、わずかに曇る。
女王はその変化に気づかなかったが、ふと、ある可能性を思いついた。
「——違うの?」
「違います」
「じゃあ、教えてくれてもいいじゃない」
「ですから、軍師で結構です」
「私はそれじゃ納得できないんだってば!」
女王が頬を膨らませる。
「だって……」
不意に、女王は言葉を詰まらせた。
「あなたは私にとって特別な存在なんだもの。
……ただの軍師じゃ、ないんだから」
無邪気に放たれたその言葉に、軍師は一瞬言葉を失った。
「陛下、それは——」
本当の名を告げてしまえば、過去へと続く扉が開くことになる。
かつての身分も、女王との因縁も——。
いつか、すべてを明かさなければならない日が来ることは、覚悟している。
だけどそれは、今ではない。
「じゃあ、軍師になる前はなんて呼ばれていたの?」
「……覚えておりませんな」
「嘘だわ。今、少し考えたでしょう?」
「気のせいでございましょう」
軍師は何食わぬ顔で、次の書類を女王の前に差し出した。
「さあ、女王。こちらにご署名を」
「もう! またそうやって誤魔化そうとする!」
「誤魔化してなどおりません。職務を優先しているだけです」
「絶対、いつか聞き出してみせるんだから!」
女王が宣言すると、軍師は少し切ない表情を浮かべた。
「……いずれ、お話しいたします」
それを聞いて、女王の表情がぱっと明るくなった。
「本当?」
「ええ。いずれ」
「明日?」
「いずれです」
「じゃあ、明後日?」
「女王」
「一週間後?」
「仕事をなさってください」
軍師は深いため息をつき、女王の前へ新しい書類の束を置いた。
「少なくとも、これをすべて片づけるまではお話しいたしません」
「本当ね!? 約束よ!」
書類に勢いよくペンを走らせ始めた女王を見ながら、軍師は小さく嘆息した。
本当の名前を明かす日は、いつか必ず来る。
そして、その時。
今のような関係は、終わりを告げるだろう。
少なくとも、今までのように女王と軍師のままではいられない。
それでも——。
それでも彼女は、自分を「特別な存在」だと言ってくれるのだろうか。




