跡
棚の空白の位置で、視線が、止まったまま。
エルナは、まだ振り返らない。視線は、棚の中ほどの方向。肩のラインは、いつもの位置のまま。
空白の幅を、もう一度、測る。本一冊分よりも、わずかに、広い。広さの差は、紙の厚さで、二、三枚分。
空白の隣の本の背は、こちらに、わずかに、傾いている。倒れ込みの動きを、途中で、止めた角度。傾きの角度は、棚板の縁の線とは、平行ではない。背の革の縁が、空白の方向へ、薄く、開いている。背の革の色は、隣の本の背の色よりも、もう一段、薄い。背の上の縁の文字は、薄い金色で、書架の薄い明かりの中で、もう一段、くすんで見える。
棚板の埃が、空白の位置で、別の角度に見える。本があった位置の下は、埃が、薄い。空白の縁の外、隣の本の足元の埃は、もう一段、厚い。
空白の上の棚板の縁には、薄い影が、一本、落ちている。影の濃さは、他の本の上に落ちている影より、もう一段、深い。空白の位置だけ、受けるもののない影が、そのまま棚板の奥へ落ちていた。
空白の左右の縁の角度も、他の位置とは違う。本の背と本の背が並ぶときにできる柔らかい境目ではなく、片側だけが急に途切れたような、硬い切れ目になっている。そこだけ、棚の並びの呼吸が、一度、抜けたように見えた。
最近、誰かが、抜いた、ように見える。
誰か、まだ判らない。
俺は、半歩、棚の前の踏み台の方向へ、足を動かした。
足音は、棚の間の薄い光の中で、低く、響かない。
踏み台の木の縁の角は、いつもの位置で、止まっている。踏み台の脚と床の接する位置に、薄い影が、四つ、ある。影の角度は、踏み台の脚の傾きと、同じ向き。
踏み台の上面の埃は、棚板の埃よりも、もう一段、薄い。
上面の木目の線は、手前から奥へ、まっすぐ、続いている。線の途中に、指先で払ったような切れ目は、ない。踏み台の上で、本を抱えたまま向きを変えたなら残るはずの擦れも、見えない。
踏み台の上には、誰もいない。
踏み台の前の床に、視線が、下りる。
書架の間の床の薄い明かりが、別の角度で、靴底の方向を、見せる。書架の間の床の埃は、棚の間の埃よりも、もう一段、薄い。
踏み台の前の床、その薄い埃の中に、別の物の輪郭が、あった。
物の輪郭は、靴底の形をしていた。
踏み台の前の床の薄い埃が、靴底の形のところだけ、もう一段、薄い。その周りの埃の厚さとの差で、形が、浮かんでいる。
輪郭の外側には、踏み台の脚の影とも、棚板の影とも違う、丸い縁がある。床にあるはずのない柔らかい曲線が、そこだけ、薄い埃の差で見えていた。
俺は、半歩、輪郭から離れた位置で、足を、止めた。
踏み台の前の埃に、靴底の跡が、あった。
俺の足の方向と、跡の方向は、別の角度。
跡の深さは、薄い。床の埃の厚さの中で、靴底が、軽く、乗ったくらいの深さ。床の木目までは、達していない。
跡の爪先は、棚の空白の方向。踵は、書架の入り口の方向。
跡の長さは、俺の靴底よりも、もう一段、短い。靴底の幅も、俺の靴底よりも、もう一段、狭い。長さと幅の比は、俺の靴底の比とも、わずかに、違う。幅の方が、少しだけ、細長い。
跡の縁は、前の方が、少しだけ深い。爪先で踏み込んだ形ではなく、前へ体を寄せたときに、重さが、そちらへ流れたような深さだった。踵の方は、輪郭が浅いまま、床の埃の上に残っている。
靴底の溝の模様が、薄い埃の中で、わずかに、判る。
横の二本線。
跡は、踏み台の前で、二つ。一つは、爪先が棚の方向。もう一つは、その後ろ、踵の位置で、わずかに、ずれている。
二つの跡の間の幅は、一歩ぶんよりも、もう一段、狭い。踏み台の前で止まり、そこで棚へ体を寄せたときの詰まり方に近い。歩いて通り過ぎた足の幅ではなかった。
一人、一度、踏み台の前に立った、ように思えた。棚の方を、向いていた。
その人は、いま、ここには、いない。
エルナの足元の床も、視線の角度の中に、入った。
エルナの足元の埃は、エルナの靴底の下にしか、ない。踏み台の前には、エルナの足の運びの跡は、ない。
エルナの立っている位置から、踏み台の前までの床は、薄い埃が、そのまま続いている。途中で崩れた線も、擦れた幅も、足の重さで沈んだ丸みも、そこにはない。エルナがこの位置から踏み台の前へ出たなら、残るはずの崩れ方が、ひとつも見えなかった。
エルナの靴底の溝の模様は、視線の角度の中で、判る範囲で、跡の模様とは、違う。
俺の靴底の溝は、縦の三本線。
エルナの靴底の溝は、斜めの細い線。
跡の溝は、横の二本線。
エルナの靴底の溝の角度と、跡の溝の角度の差は、視線の角度の中で、はっきり、判る差。
俺の靴底の縁は、後ろが広い。エルナの靴底の縁は、前後の幅が、ほぼ同じ。跡の縁は、そのどちらとも違って、前の方へ細く寄っている。溝だけでなく、外側の形も、重ならない。
エルナは、まだ振り返らない。
靴の跡は、俺のものでも、エルナのものでも、なかった。




