空白
机の中央の白い紙を、もう一度、見た。
紙は、置いたまま。机の四隅と、紙の四隅は、同じ向きで揃ったまま。
俺は、紙を、机に残すことに決めた。鞄の中に入れることも、別の場所へ移すことも、しない。誰かが置いたのなら、置いた誰かが、もう一度、この机を見に来るかもしれない。紙の位置を変えれば、その「もう一度」の輪郭も変わる。
俺は、鞄を、肩にかけた。鞄の口は、閉じたまま。書いた一行とノートは、鞄の中で、動かない。鞄の重さが、肩の上で、もう一度、薄く乗る。
自室の扉の前で、足が止まる。
鍵を、内側から、回した。
俺は、自室を、出た。
寮の廊下の薄い明かりが、靴底の角度を変える。足音が、寮の廊下の薄い光の中で、低く響く。廊下の壁の縦の線は、行きと同じ位置のまま。
寮の階段を下りる。手すりの金属の冷たさが、指の腹に、行きと同じ位置で乗った。
学園の通路に出た。
通路の薄い明かりが、肩の高さで、靴底の角度を変える。
足は、図書館の方向へ動いた。
通路の人の流れは、午後の昼下がりの薄さのまま。すれ違う影は、二つか三つ。視線は、こちらに向かない。
図書館の入り口の扉が、薄く、開いている。
扉の重さが、いつもの教室棟の扉とは、別の重さで、開いた。中の空気の温度が、通路の空気の温度と、わずかに違う。紙と木の薄い匂いが、肩の高さに、薄く乗る。
書架の方向へ、足が動いた。
書架の奥、古書棚の方向。
棚の間の幅が、他の棚よりも、もう一段、狭い。棚板の縦の線が、足の運びの両側で、近い位置に並ぶ。
古書棚の奥。
棚の前の踏み台が、いつもの位置にあった。踏み台の上には、誰もいない。踏み台の木の色は、棚の木の色より、もう一段、薄い。
俺は、もう一段、奥へ、足を進めた。
棚の奥の壁の方に、背中の輪郭が、あった。
俺の背中の高さよりも、もう一段、低い。
肩は、こちらに向いていない。視線は、棚の方向。
誰か、まだ判らない。
俺は、半歩、もう一段、奥へ動いた。
背中の輪郭が、もう少し、はっきり、見える。
銀髪が、棚の薄い光の中で、白く見えた。
A組の上着、ベスト型ではない。袖は、手首まで下りたまま。肩のラインが、いつもの位置で、止まっている。
銀髪だった。
エルナは、振り返らない。
灰色の目が、横から、薄く、見える。視線は、棚の中ほどの方向。
俺は、半歩、離れた位置で、足を止めた。
エルナの視線の先、棚の中ほどに、本の背の縁が並んでいる。
古書「《揺らぎの術》」の背は、棚の中ほどよりも、もう一段、奥。
エルナの灰色の目が、棚の中ほどの方向で、止まっている。
俺の視線も、棚の方向で、止まる。
エルナは、まだ振り返らない。
俺は、半歩、棚の方へ動いた。
棚の中ほどから、もう一段奥へ、視線を動かす。
棚の中の本の背の縁が、いつもの並びで、並んでいる。革の背、布の背、紙の背。色は、棚の中の薄い光の中で、それぞれの濃さで止まっている。
《揺らぎの術》は、棚に、なかった。
棚の空白の位置に、本の他の背がない。隣の本の背との間に、薄い隙間。隙間の幅は、本一冊分よりも、わずかに広い。棚板の埃が、空白の位置で、隣の本の背の影と、別の角度で、薄く見えた。
エルナはまだ振り返らない。視線は、棚の中ほどの方向のまま。
俺の視線も、棚の空白の位置で、止まる。
棚の空白の位置の隣の本の背は、こちらに、わずかに、傾いている。傾きの角度は、いつもの並びの角度ではない。倒れ込みの動きを、途中で、止めたままの角度に見えた。
《揺らぎの術》が、ここに、なかった。
棚の空白の位置の上、棚板の縁の薄い影が、行きの古書棚の影と、別の角度で見えた。誰かが、本を、抜いた。誰か、まだ判らない。




