紙の上
通路の分岐で、足音が二種類に分かれる。F組寮の方向には、別々の階段が二つある。一つはF組生徒の主な動線、もう一つは反対側の階段。
フィアが、半歩先に、F組生徒の主な動線の階段の方へ向かった。
俺は、もう一つの、反対側の階段の方へ動いた。
距離が、握り拳二つ分から、廊下の幅の倍ほどに、広がる。
階段の手前で、足が止まった。
フィアの背中が、主な動線の階段の上の方へ消えていく。視線は前のまま、こちらに向かないように見えた。袖は、手首まで下りたまま。
反対側の階段を、上る。階段の各段の薄い明かりが、肩の角度を変える。手すりの金属の冷たさが、指の腹に、薄く乗った。手すりの色は、生徒の主な動線の階段のものより、もう一段、くすんでいる。
寮の階段の最上段で、足が止まった。寮の廊下の幅は、生徒が一人通れる程度。廊下の薄い明かりは、午後の昼下がりの角度のまま、壁の縦の線を、薄く見せる。
自室の扉の前で、足が止まる。鞄の重さが、肩の上で、薄く乗ったまま。
鍵を回す動作。鍵が回る音が、寮の廊下の薄い明かりの中で、目に立たない高さで、響いた。
扉が押された。
自室の薄い明かりが、廊下の薄い明かりと違う角度で、机の輪郭を見せる。
俺は扉を、半歩、内側へ動いた。扉が閉まる音。鍵を、内側から回した。
机の方を、見る。
机の中央の白い紙が、まだ置かれていた。
紙の四隅は、机の角と同じ向きで揃ったまま。誰かが置いたのは判る。だが、誰が、いつ、どうやって置いたのかは、まだ判らない。
俺は、鞄を肩から下ろした。鞄が床の上にまっすぐ立つ。鞄の口は、最後の一度、閉じたまま。書いた一行とノートは、鞄の中で、動かない。肩の上で、鞄の重さが、薄く、抜けた。
自室の薄い明かりが、机の中央の白い紙の上で、止まる。
机の手前で、足が止まる。机との距離は、半歩。
俺は、机に近づいた。
机の上の薄い明かりが、紙の上の輪郭を見せる。
紙は、白いまま。だが、紙の中央に、薄い線が、ある、ように見える。
線の輪郭は、紙の地の色よりも、もう一段、薄い。線の数は、一本ではない。並んでいる。等間隔の、薄い、縦の並び。
俺は、紙の上に、顔を、もう一段、近づけた。
紙の中央の薄い線が、文字の輪郭に変わる。
文字は、縦に並んでいる。文字の数は、六文字、いや、七文字あるように見えた。
最初の文字は「花」と読めた。続いて「弁」が並ぶ。
俺は、紙の上の文字の上で、視線を、ゆっくり、下ろした。
花弁ハ其ノ証也
七文字が縦に並んでいる。インクの色は、紙の地の色よりも、もう一段、薄い。書字の方向は、横ではなく、縦。
俺は、古書「《揺らぎの術》」の手書きメモを、思い出した。
古書のページの、書き込みの行は、印刷の行とは別の角度で、傾いていた。「花」と「弁」の間の余白の開き方も、同じように見えた。
同じ文に見える。
だが、紙は、古書の百年分の薄い茶色とは違い、白く、新しい。インクの色も違う。字の大きさも違う。目の中の記憶と、机の上の紙とを、並べて比べる方法はない。
俺は、机の前で、まだ動かない。
紙を、置いた者がいる。誰か、まだ判らない。
古書から、書き写されたのかもしれない。あるいは、書いた者が、古書の書き手と、同じ人かもしれない。
いずれも、判らない。
エルナの「家のものは、ずっと魔力痕を、観てきた」のあの一語が、内心の中で、薄く、止まる。
書いた一行とノートは、鞄の中で、まだ動かない。
紙の上の文字を、もう一度、見た。
「花」「弁」「ハ」「其」「ノ」「証」「也」と、目で追う。
紙の上の文字は、古書のページの書き込みと、同じ文だった。
机の上の薄い明かりが、紙の上で、わずかに角度を変えた。文字の輪郭の薄さは、変わらない。




