証明の場
寮の窓の外で、朝の光が、また別の角度で傾いている。
机の中央の白い紙は、夜のうちに動いていなかった。紙の四隅の角度も、いつもと同じように見えた。
俺は、机に、まだ近づかない。
鞄を、肩にかけた。書いた一行とノートが、鞄の中で、肩の上の高さで、止まる。
自室の扉を、押した。
寮の階段を下りる。学園の通路を抜けて、教師棟の方向へ。
朝の光は、廊下の壁に低い位置から当たっている。窓の外の中庭の木の影が、地面の上で、別の角度に伸びていた。生徒の姿は、まだ少ない。
教師棟の入り口の手前で、足が止まった。
フィアが、入り口の手前に、立っていた。ベスト型の制服、袖は、手首まで下りたまま。視線は、入り口の扉の方向のまま、俺の方を観てはいない。
F組担任の姿は、入り口にない。
俺の足が、フィアの一歩横の位置で、止まった。距離は、握り拳二つ分。
教師棟の扉が、内側から、開いた。F組担任が、扉の向こうから、頷いた。
「中へ」と、F組担任が、短く、付け加えた。
フィアが、先に歩いた。俺が、フィアの一歩後ろから、続いた。
会議室の机の上に、記録盤が、まだ開いたまま、置かれている。脇には、ペンが置かれている。
机の向こうに、もう一人が、立っていた。昨夜と同じ位置に、同じ外套、同じ髪の色。
俺と、フィアが、机の手前で、足が止まった。
もう一人の視線が、机の上の記録盤の方から、こちらの方へ、一度、動いた。
「始めてくれ」
声は、昨夜と同じ高さ、同じ低さで、会議室の空気の中で、響く。
俺は、応答しない。視線は、フィアの方向へ、一度、動いた。
フィアが、振り返らない。視線は、前のまま、机の方向。
俺の指先が、フィアのベスト型の制服の上、肘の少し上に、触れた。布越しの体温が、指先に薄く乗る。
書かない。修正の文字を、頭の中でも、紙の上でも、置かない。
フィアの呼吸が、一度、深くなった気がした。
フィアが、詠唱した。
「フレア」
声は、低く、短く、会議室の空気の中で、響く。
赤が、フィアの右手の前で、立つ。輪郭の細い、棒のような赤。
だが、軌道は、机の方向ではない。手の前で、止まる。
何かが、フィアの腕から俺の指先へ、それとも俺の指先からフィアの腕へ、判らない。
赤の棒が、消える。
空気の中に、薄い赤の輪郭は、立ち上がらない。
代わりに、空気の中で、色のない、形のない、薄い揺れが、残った。輪郭は、ない。色も、ない。だが、空気の密度が、その場所だけ、わずかに違うように見えた。
俺の指先が、フィアの肘の少し上から、離れない。布越しの体温が、まだ薄く、指先に残っている。
フィアの呼吸が、一拍、長く、止まったように聞こえた。
もう一人の視線が、机の上の記録盤の方へ、動いた。手は、ペンを取らない。
F組担任の視線も、机の方向。袖は、上着の手首まで下りたまま。
会議室の空気の中で、薄い揺れが、まだ消えない。だが、形は、判らない。色もない。輪郭もない。ただ、空気の中の何かが、止まらずに、薄く、続いている。
俺は、指先を、フィアの肘の少し上から、ゆっくり、離した。
布越しの体温が、指先から、薄く、消える。
もう一人の視線が、机の上の記録盤の方から、こちらの方へ、もう一度、動いた。
声は、低く、短く、会議室の空気の中で、響く。
「もう一度」
俺は、応答しない。視線は、机の上の記録盤の方向のまま。
フィアが、振り返らない。袖は、手首まで下りたまま。
会議室の空気の中で、薄い揺れが、まだ消えない。形は、まだ判らない。最初の位置から、わずかに右へ寄ったように見えた。
俺の指先が、フィアのベスト型の制服の上、肘の少し上に、もう一度、触れた。布越しの体温が、もう一度、薄く乗る。
書かない。修正の文字を、頭の中でも、紙の上でも、置かない。
フィアの呼吸が、もう一度、深くなった気がした。
フィアが、詠唱を、まだ、始めない。
机の上の記録盤の方で、もう一人の視線が、止まったまま。F組担任の視線も、机の方向で、止まったまま。
書いた一行とノートは、鞄の中で、肩の上の高さで、まだ動かない。
会議室の薄い光が、机の上の記録盤の縁で、薄く反射する。革の縁の色が、朝の光の角度で、昨夜よりも、もう一段、深く見えた。
フィアの呼吸の音が、会議室の空気の中で、まだ続いていた。




