古書
俺は、廊下の隅で、足を、もう一度、動かした。
薄い赤の輪郭が、空気の中で、まだ動いているように見えた。輪郭の縁が、廊下の薄い光の中で、薄く揺れている。だが、肩の高さには、もう届かない。
フィアが、振り返らない。視線は、廊下の壁の方向のまま。フィアの右手が、ベスト型の制服の脇のあたりで、止まったまま。
俺は、フィアの背中を、見ない。視線を前に置いて、廊下の隅から、半歩、離れた。
廊下を抜ける。足音が、廊下の薄い光の中で、後ろへ流れる。
薄い赤の輪郭は、廊下の隅の空気の中で、まだ消えない。だが、肩の高さには、もう届かない。輪郭の縁は、最初に立ち上がった時よりも、細い。短い間で、もう一度、薄く動いた。
足は、図書館の方向へ動いた。
学園の通路を抜ける。午後の光は、夕方の角度へ、わずかに傾き始めていた。
通路の窓越しに、教師棟の廊下が、見える。
教師棟の廊下に、グレイの姿は、もうなかった。もう一人の姿も、なかった。
通路の壁の輪郭が、夕方の角度の光の中で、薄く動く。窓の外の中庭の木の影が、地面の上で、また別の角度に伸びていた。
俺の足は、図書館の方向へ動いた。
図書館の扉の前で、足が止まる。扉を、押す。
図書館の薄い光は、廊下の薄い光と、また別の角度。棚の輪郭が、薄い光の中で、立ち並んでいる。
書架の奥、古書棚の方向へ、足が動いた。
古書棚の奥は、棚の間の幅が、他の棚よりも狭い。
棚の前に、踏み台が一つ、置かれている。
踏み台の上に、エルナが、立っていた。
銀髪が、図書館の薄い光の中で、白く見える。
エルナの灰色の目は、別の本のページの方を向いている。俺の方を観てはいない。
ベスト型の制服ではない、A組の上着。袖は、手首まで下りたまま。
俺は、踏み台の隣の棚の前で、足が止まった。
エルナが、振り返らない。視線は、開いている本のページの方向のまま。
俺は、棚から、古書を一冊、取り出した。
表紙の革の手触りが、指先に薄く乗る。背の文字は、薄い金で、《固定詠唱外の魔力痕》。
俺は、古書を、棚の手前で、開いた。革の表紙が、指先に薄く重い。ページの紙は、新しい本よりも、厚い。
ページをめくる音が、古書棚の奥の薄い光の中で、低く響く。
紙の縁の色が、百年分の薄い茶色。
ページの中ほどに、印刷された文字の上に、別の文字が、手書きで、書き込まれている。
百年前の手書き。インクの色は、紙よりも、もう一段、薄い茶色。書き込みの行は、印刷の行とは、別の角度で、傾いている。
俺は、書き込みの行の上で、視線を、止めた。
花弁ハ其ノ証也
声には、出さない。内心でも、繰り返さない。
ただ、紙の上の文字を、目で、追う。インクの色は、紙の地の色よりも、もう一段、深い。だが、印刷のインクよりは、もう一段、薄い。
「花」と「弁」の間の余白が、印刷の文字の余白とは、違う角度で、開いている。「証」の字の最後の一画が、紙の繊維の方向に、わずかに、流れている。
紙の上の文字は、書いた者の手の動きを、まだ残しているように見えた。
廊下の壁の方で、A組の制服の生徒が、二人、低く重ねた、あの一語。
午後の試験場の空気の中で、観客の中の一人が、短く呟いた、あの一語。
紙の上の文字は、その一語のもとの形だったのかもしれない。
俺は、ページの上で、視線を、もう一度、止めた。
エルナは、踏み台の上で、別の本のページを、まだ読んでいる。俺の方を観てはいないように見えた。
俺は、古書のページを、半歩分、戻した。書き込みの行の上、もう一度。
紙の上の文字の傾きが、夕方の角度の光の中で、また別の影を作る。
書き込みの行の意味が、判るのか、判らないのか、俺の位置からは、まだ判らない。
俺は、古書を、棚の上に、戻さない。表紙を閉じて、棚の手前で、開いたまま、止める。
エルナが、踏み台の上から、本のページを、もう一度、めくった。
紙の音が、古書棚の奥の薄い光の中で、低く響く。
エルナの灰色の目が、開いた本のページの方向で、止まる。
俺の視線が、エルナの銀髪の方向へ、一度、動いた。
エルナは、こちらを観ない、ように見えた。
俺の視線は、エルナの方向で、止まる。
夕方の光が、図書館の薄い光の中で、また別の角度で、傾いていく。窓の外の空の色も、もう一段、低く沈んでいた。
銀髪の方向で、灰色の目が、まだ古書の方を向いていた。




