観たもの
円の中央の北側で、俺は動かない。フィアも動かない。
指先を離した位置のまま、肘を半歩下げただけだった。二人の位置は、ほとんど変わらない。
花弁の輪郭は、まだ空気の中にある。赤い線の上で、染み込まずに残っている。
中央評価者は何も呼ばない。両側のペンも、止まらない。
観客席の方から、声が動き始めた。一発の声ではない。複数の声の縁が、波の高さを変えながら、立ち上がる。声と声の間の規則性が、ゆるんでいた。
音の重なりが、ざわめきと呼べる質へ変わった気がした。
俺は鞄を肩にかけたまま、何も言わない。フィアも何も言わない。
◇
観客のざわめきが、円の中央の北側の方へ、薄く向いた。
低い席で、座っていた人が立つ。立っていた人が、座らない。隣の席の人と、肩を寄せ合う動きが、視野の隅で起きる。
高い席でも、同じ動きが、半拍遅れて起きた、ように見えた。
F組の整列の方向では、視線が定まらない。声は出ない。肩が小さく、不規則に動く。動かないはずの位置から、半歩、誰かの靴底がずれた。
A組の整列の方向では、先ほどわずかに動いた肩が、また動かなくなる。視線は前のまま、こちらに向かない。
観客席の中で、誰かの指が空気を指した気がした。指の先には、まだ花弁の輪郭がある。
俺は花弁の方を見ない。フィアも見ない。視線は前のまま、標的の方を向いたままだった、ように見えた。
◇
評価席の中で、椅子の音がもう一つ起きた。立ち上がった外部評価者の隣で、もう一人の外部評価者が、椅子の角度を変える。
二人の頭の高さが、向き合う方向で揃う。
声は、こちらまで届かない。ただ、頭の動きと、手の角度と、用紙の位置が、揃わない動きを始めた。
評価席の中で、議論の縁が立ち始めているように見えた。
教師席の方では、二人の教師が、用紙を手に持ち直す。椅子の向きが、もう一人の教師の方へ、わずかに角度を変えた。会議の縁の動作が、視野の隅で揃う。
グレイの独立記録席では、記録盤を持つ手が、まだ動いている。ペンの動きは、止まらない。
A組七番目の位置で、エルナの灰色の目の高さが、半歩、前に出た、気がした。立っていた位置から、わずかに、こちらの方へ。だが、それ以上は動かなかった。
◇
評価席の中で、椅子の音が、また一つ起きた。
立ち上がった外部評価者が、評価席の縁を一歩、出た。
一人で。円の中央の北側へ向けて、足を踏み出した。
中央評価者の手の動きが、止まる。両側のペンも、止まった。グレイの独立記録席の記録盤の手も、止まる。観客のざわめきが、その動きを目で追って、薄く落ちた。
外部評価者の足音が、円の中央の北側へ近づいてくる。歩幅は普通よりも短い。足の運びも、評価席の中で歩く時とは違って見えた。
俺はフィアを見ない。フィアも俺を見ない。視線は前のまま、外部評価者の方を、まだ向いていない。
外部評価者が、円の中央の北側、俺たちから三歩の位置で止まった。
俺の指先は、まだフィアの肘に触れていた位置の感覚を、わずかに残している。
花弁の輪郭は、まだ消えない。
◇
外部評価者の声が、短く落ちた。
「もう一度、見せてもらえるか」
声は、円の中央の北側にだけ、届いた。観客席までは、声は届かない、ようだった。
俺はフィアを見ない。フィアも俺を見ない。
中央評価者は何も呼ばない。両側のペンも止まったまま。グレイの記録盤の手も、まだ動かなかった気がした。
エルナの目の高さは、座っていた時の高さには戻らない。
俺の指先の感覚は、もう、フィアの肘の上にはない。だが、布の繊維の縁が薄くずれた感触だけが、まだ残っている。
花弁の輪郭は、まだ消えない。
午後の試験場の空気の中で、外部評価者の言葉だけが、まだ落ちたばかりの位置に、残っていた。




