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記録

「来い」


 グレイはそれだけ言って、踵を返した。


 俺はフィアの腕を、別のF組の生徒の手に預けた。そいつは何も言わずに頷いた。フィアの袖は肘まで上がったままだった。腕はまだ俺の手に残った熱を持っている。


 ガドが何か言いかけたのを、俺は背中で受け取った。顔は見なかった。


 訓練場の扉が、教師棟側に向けて開いていた。グレイの背中はもう半分扉の外にあった。


 足が動いた。並木道側ではなく、教師棟側へ。


 外の空気が、さっきまで薄い赤の膜の中にあった空気と、違う温度をしていた。冷たい。冷たいことが、まだ生きている、という確認に近かった。


 グレイの歩幅は速くも遅くもなかった。


 俺はその歩幅を追った。





 教師棟の一室は、古い机が三つ並んでいるだけの部屋だった。本棚はなかった。扉のすぐ脇にランプが一つ。机の上に、記録盤の束が積まれていた。同じ大きさ、同じ厚さのものが、十冊以上あった。


 グレイが一番奥の椅子に座った。記録盤の束から、新しい一枚を抜いて、机の上に置いた。それから、手前の椅子を少しずらして、俺の方を見た。


 俺は座った。


 グレイはしばらく黙っていた。


 ようやく、口を開いた。


「お前が、お前の手元で起きたことを、ここに書け」


 声は、咎めではなかった。指導でもなかった。「見たものを残す」と決めた人間の声だった。


 書け、と言われたのは、俺の手元で起きたことだった。グレイが見たことではなかった。


 ペンが机の上にあった。新しいインクの匂いがした。


 俺はペンを取った。


 書き出した瞬間、これまで使ってきた言葉が、今日の出来事を入れる器にならないことに気づいた。「修正」、「コード」、「バグ」。どれも、書こうとした先で指から落ちていった。小さすぎるのか、最初から違うのか、そこまでは分からなかった。


 書く手が止まった。


 頭の中で、前に読んだ本のページが一度だけ開いた。あの時は遠かった一文が、今日は指先の近くにあった。


 その語を、ここで書くか、迷った。


 迷ってから、書かないことにした。グレイの前ではまだ書かない。書くなら、自分のノートに、自分の手で書く。今日の俺がそう決めた。


 代わりに、「現象」と書いた。曖昧に書いた。書ける範囲だけ書いた。


「フィアが撃った。空気に色が広がった。広がりは訓練場全体に届く。フィアが膝を折った。そこまでだった」


 書き終えて、ペンを置いた。


 グレイは、書き終えた頁をその場では読まなかった。黙って受け取って、束の上に積んだ。


「明日も来い」


 それだけ言った。


 俺は立ち上がって、頷いて、部屋を出た。





 並木道に出た時、灯はもう全部灯っていた。


 エルナの姿は、もう並木道になかった。さっきまで立っていた二つ目の灯の下も、空になっていた。地面に銀髪の名残のような影もなかった。


 俺は灯の下を一つずつ抜けていった。光と影の境を、何回か超えた。今日の俺には、その境を数える余裕がなかった。


 寮の門が見えた。門の前で、一度立ち止まった。


 胸の中で、フィアの腕の軽さがまだ残っていた。グレイの記録盤の束の重さも、別の場所に残っていた。


 門をくぐった。階段を上がった。自室の扉を開けた。


 机の上のノートが、昨日のままで開いていた。





 椅子を引いて座った。ランプに火を入れた。芯の先に赤が灯って、紙の白が浮かび上がった。


 ノートの今日のページは、まだ白かった。


 ペンを取った。


 書こうと思えば、書けることはたくさんあった。グレイの記録室のこと。フィアの軽くなった腕のこと。並木道にはもうエルナがいなかった。だが、最初に書きたい言葉は、それらではなかった。


 ペン先が、紙に触れた。


 書いた。


「揺らぎ」


 書いた瞬間に、これまでの「修正」「コード」「バグ」のページの意味が、後ろから書き換わる感覚があった。書いていない場所に、何かが出ていた。今日まで、それを器の小さい言葉で呼んでいた。


 俺はその語を、しばらく見ていた。


 その横に、ペンを動かした。


 書いた。


「消そうとせず、残す」


 ペンを置いた。


 二つの言葉が、白いページの上に並んで残った。


 胸の中で、二つのものが同時に動いた。片方は、グレイの机の上に積まれた頁の重さの側にある。もう片方は、フィアの腕の軽さの側にあった。別の場所から来た動きだった。だが、同じ夜の同じページの上で、初めて重なった。


 窓の外は夜だった。風の音は今夜も同じ方角から来ていた。銀色は、今夜も見えなかった。


 俺はランプを消さずに、ノートをそのまま開いておいた。


 明日、もう一度、書く言葉がある気がした。


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