記録
「来い」
グレイはそれだけ言って、踵を返した。
俺はフィアの腕を、別のF組の生徒の手に預けた。そいつは何も言わずに頷いた。フィアの袖は肘まで上がったままだった。腕はまだ俺の手に残った熱を持っている。
ガドが何か言いかけたのを、俺は背中で受け取った。顔は見なかった。
訓練場の扉が、教師棟側に向けて開いていた。グレイの背中はもう半分扉の外にあった。
足が動いた。並木道側ではなく、教師棟側へ。
外の空気が、さっきまで薄い赤の膜の中にあった空気と、違う温度をしていた。冷たい。冷たいことが、まだ生きている、という確認に近かった。
グレイの歩幅は速くも遅くもなかった。
俺はその歩幅を追った。
◇
教師棟の一室は、古い机が三つ並んでいるだけの部屋だった。本棚はなかった。扉のすぐ脇にランプが一つ。机の上に、記録盤の束が積まれていた。同じ大きさ、同じ厚さのものが、十冊以上あった。
グレイが一番奥の椅子に座った。記録盤の束から、新しい一枚を抜いて、机の上に置いた。それから、手前の椅子を少しずらして、俺の方を見た。
俺は座った。
グレイはしばらく黙っていた。
ようやく、口を開いた。
「お前が、お前の手元で起きたことを、ここに書け」
声は、咎めではなかった。指導でもなかった。「見たものを残す」と決めた人間の声だった。
書け、と言われたのは、俺の手元で起きたことだった。グレイが見たことではなかった。
ペンが机の上にあった。新しいインクの匂いがした。
俺はペンを取った。
書き出した瞬間、これまで使ってきた言葉が、今日の出来事を入れる器にならないことに気づいた。「修正」、「コード」、「バグ」。どれも、書こうとした先で指から落ちていった。小さすぎるのか、最初から違うのか、そこまでは分からなかった。
書く手が止まった。
頭の中で、前に読んだ本のページが一度だけ開いた。あの時は遠かった一文が、今日は指先の近くにあった。
その語を、ここで書くか、迷った。
迷ってから、書かないことにした。グレイの前ではまだ書かない。書くなら、自分のノートに、自分の手で書く。今日の俺がそう決めた。
代わりに、「現象」と書いた。曖昧に書いた。書ける範囲だけ書いた。
「フィアが撃った。空気に色が広がった。広がりは訓練場全体に届く。フィアが膝を折った。そこまでだった」
書き終えて、ペンを置いた。
グレイは、書き終えた頁をその場では読まなかった。黙って受け取って、束の上に積んだ。
「明日も来い」
それだけ言った。
俺は立ち上がって、頷いて、部屋を出た。
◇
並木道に出た時、灯はもう全部灯っていた。
エルナの姿は、もう並木道になかった。さっきまで立っていた二つ目の灯の下も、空になっていた。地面に銀髪の名残のような影もなかった。
俺は灯の下を一つずつ抜けていった。光と影の境を、何回か超えた。今日の俺には、その境を数える余裕がなかった。
寮の門が見えた。門の前で、一度立ち止まった。
胸の中で、フィアの腕の軽さがまだ残っていた。グレイの記録盤の束の重さも、別の場所に残っていた。
門をくぐった。階段を上がった。自室の扉を開けた。
机の上のノートが、昨日のままで開いていた。
◇
椅子を引いて座った。ランプに火を入れた。芯の先に赤が灯って、紙の白が浮かび上がった。
ノートの今日のページは、まだ白かった。
ペンを取った。
書こうと思えば、書けることはたくさんあった。グレイの記録室のこと。フィアの軽くなった腕のこと。並木道にはもうエルナがいなかった。だが、最初に書きたい言葉は、それらではなかった。
ペン先が、紙に触れた。
書いた。
「揺らぎ」
書いた瞬間に、これまでの「修正」「コード」「バグ」のページの意味が、後ろから書き換わる感覚があった。書いていない場所に、何かが出ていた。今日まで、それを器の小さい言葉で呼んでいた。
俺はその語を、しばらく見ていた。
その横に、ペンを動かした。
書いた。
「消そうとせず、残す」
ペンを置いた。
二つの言葉が、白いページの上に並んで残った。
胸の中で、二つのものが同時に動いた。片方は、グレイの机の上に積まれた頁の重さの側にある。もう片方は、フィアの腕の軽さの側にあった。別の場所から来た動きだった。だが、同じ夜の同じページの上で、初めて重なった。
窓の外は夜だった。風の音は今夜も同じ方角から来ていた。銀色は、今夜も見えなかった。
俺はランプを消さずに、ノートをそのまま開いておいた。
明日、もう一度、書く言葉がある気がした。




