暴発
並木道の風がもう一度吹いた。葉がさっきと同じ場所で揺れた。
俺の足は訓練場の方へ動いていた。エルナの問いには答えていない。だが、訓練場へ向かうこの足が、答えの代わりになる。
訓練場の扉が見える距離に入っていた。エルナの視線は、たぶんまだ俺の背中にある。並木道に立ったままだろう。振り返りはしなかった。
扉を押した。木が今日も重い。中の空気がいつもより薄い気がした。気のせいかもしれなかった。
フィアは中央寄りに立っていた。昨日と同じ位置だった。袖は今日も肘まで上がっている。
目が違った。
昨日までの目ではなかった。何かを引き受けたまま、待っている目だった。咎める目でもない。怯える目でもない。ただ、もう引かないと決めたあとの目だった。
近づいた。
「来た」
フィアが言う。
「うん」
それだけだった。エルナのことは言わなかった。フィアも何も訊かない。だが、何かが一つ増えたことだけは、フィアの方も受け取っていた。それが目で判った。
◇
肘の内側に触れる。
温度。脈。今日もいつもと変わらない、はずだった。
だが、指先の触れた先で、空白の縁が、いつもより内側まで広がっている。昨日「線の周りに別の層がある」と思った、その層が、今日は層ではなかった。線の側がむしろ細い。その外側が、広すぎた。
書く。
文字の形は組める。だが、書いているそばから、書いていない方の流れが、書く線を上から覆っていく。書く線が川なら、今日は、その外側の水の方が広い。書いた線の輪郭が、書いた直後にぼやけていく。
「今日のさ」
フィアが小さく言った。並木道で言いかけたのと、ほとんど同じ書き出しだ。だが続きは口に出さなかった。続きは身体の方で出すと、決めているような言い方だった。
「うん」
俺はそれだけ返した。
書き終える。指を離した。撃たないという選択は、フィアが今日選んだものを上から塗り直すことになる。
「撃って」
フィアが構えた。袖はそのまま。指先は丸めない。胸の前で、息を一度、深く吸った。
その息が、いつもよりずっと深かった。
◇
炎が走った。
中心に当たった。ここまでは、これまでと同じだった。
問題はその後だった。
撃った瞬間、的の前の空気が赤くなった。輪郭ではなく、面で広がっていた。
横に流れた。
昨日より速かった。的の脇まで届くのが一拍。壁まで届くのが二拍。だが、そこで止まらなかった。壁に当たって跳ね返り、隣の的の方へ流れた。
訓練場には的が六つ並んでいる。誰も使っていない端の的の前まで、薄い赤が届いた。
そこでも止まらなかった。
赤は低い位置で壁を一周した。
それから、上がり始めた。
腿の高さから上がってきて、腰を超えた。胸に来て、肩を越えた。そのまま天井まで届いて、止まった。
「うわっ」
ガドの声がした。
ガドだけではなかった。今日の放課後、F組の訓練場には十人近い生徒が居残っていた。全員が一斉にこちらを見る。声は出なかった。動きだけが揃っていた。
天井の高さで、訓練場全体が薄い赤の膜の中に入っていた。
俺の呼吸が止まった。胸の前で、息の入る場所を見失った。
そして、フィアが膝を折った。
倒れたのではなかった。膝に重みが落ちた、という折れ方だった。袖を肘まで上げたままの腕が、俺の手の中で、急に軽くなる。力が抜けたのではなかった。引き出していたものが一度に外へ流れ出して、もう出ない、という軽さだった。
その軽さが、俺の手の中で、何かの底を打った。
その瞬間と、訓練場の扉が音を立てたのが、同時だった。
◇
扉が開いた。
並木道の方ではなかった。教師棟側の入口からだった。
グレイが立っていた。
手に記録盤があった。
訓練場全体に張った薄い赤の膜は、グレイが現れた瞬間に、急に薄くなり始めていた。空気に染み込む消え方ではなかった。天井から、ゆっくり下へ落ちてくる消え方だった。
赤が下に落ちきる前に、俺はフィアを支えていた。フィアの腕は、まだ俺の手の中で軽かった。袖は肘まで上がったまま。
ガドと他の生徒は、声を発さなかった。誰も動かなかった。グレイの記録盤と、フィアの折れた膝と、足元に降りていく赤の境を、順番に見ていた。
グレイの目が、ゆっくり動いた。
最初に、訓練場全体に残った赤の方を見た。それから、膝を折ったフィアを見た。そして、最後に、俺の右手で止まる。フィアの肘の内側に触れたままの、俺の右手だった。
グレイの視線は、そこで動かなくなった。
確認したまま、しばらく何も言わなかった。
ようやく口を開いた。
「来い」
フィアではなく、俺に、だった。




