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観測者

 昨日の終業後、フィアとは何も話さなかった。


 他の生徒の前で残ることを、二人とも選ばなかった。窓のシルエットがまだそこにいるかもしれない、という気がしたからだ。それを口に出さずに、鞄を持って別の方角に分かれた。


 今朝の授業中、ガドはいつも通りの席で、いつも通りの態度だった。隣の生徒たちもそうだった。昨日見たことを、誰も口に出さなかった。だが、ふと顔を上げた時、目が合う回数が、ほんの少しだけ減っていた気がする。


 胸の下の、昨日もう一段下に落ちた重さは、朝起きた時もそこにあった。動かないまま、午後の授業の終わりまで持ち越した。


 放課後のベルが鳴った。


 今日も、図書館へは行かない。訓練場へ行く。フィアが待っているはずだった。中央寄りの位置に、袖を肘まで上げたままで立っている。そう思っていた。


 並木道に出た。


 光の輪の境を一つ越えた。二つ目の灯の下で、足が止まった。


 エルナがいた。





 書架の奥でも、図書館の机の前でもない。今日は外だった。並木道の真ん中、二つ目の灯の下、銀髪が午後の光を拾って白い。手は空だった。本を持っていない。


 俺は近づいた。


 四メートル。二メートル。エルナは動かなかった。逆光で、目だけが灰色のままこちらを向いている。


「先に来た」


 エルナが言った。質問ではない。今日も確認だった。俺が訓練場へ向かう途中でここを通る、と知っていた声だった。


「うん」


 俺の声は、自分でも思ったより硬かった。


 エルナはそれ以上、雑談を挟まなかった。並木道の風が一度吹いた。葉が一枚だけ揺れて、止まった。


「昨日のこと、知ってる」


 短い。


 俺は応えなかった。応えようがなかった。「うん」と言えばフィアと俺の現象を肯定することになる。「違う」と言えば嘘になる。エルナは、応えないままの俺を、そのまま見ていた。瞼を伏せもせず、こちらに置いたままだった。


 知っていることを示した上で、別の問いを置いた。





「止める選択は、した?」


 前に聞いた「止めたら?」より静かで、逃げ場の置き所がどこにもない問い方だった。


 俺は黙った。


「した」と答えれば嘘になる。今日も訓練場へ向かう途中だ。今日も、止めるつもりはない。


「していない」と答えれば、昨日の公的化を、自分が選んで続けたと宣言することになる。窓のシルエットに対して、観られていることを承知で進む、と言うことになる。


 どちらも、今日の俺が一人で持てる答えではなかった。


 風がもう一度吹いた。葉がさっきと同じ場所で揺れて、止まった。その間の長さが、俺の沈黙の長さでもある。エルナは、俺の答えを待っているのではなかった。答えられない時間そのものに、灰色の目を置いていた。


 そして、自分の側を、初めて開いた。


「あの本は、家のものなの」


 家名は出なかった。「家のもの」と短く言うだけだった。


 声の温度が、低い場所から押し出されてきた。淡々としているのは前と同じだ。だが今日は、根の方から声が出ているのが判る言い方だった。


「私の家は、ずっと魔力痕を観てきた」


 そこで、灰色の目がわずかに動いた。俺の顔の真ん中から、肩の少し上のあたりへ、視線がほんの少しだけずれて、また戻ってきた。


「観る、というのは、止めるのとは違う」


 言い終えて、エルナは間を置いた。


 風はもう吹かなかった。葉も鳴らなかった。沈黙の輪郭だけが、二人の間にある。エルナは、その輪郭の中で、もう一度だけ口を開いた。


「私はあなたを止めるためにここにいるんじゃない。観るためにいる」


 それ以上は言わなかった。家名も、昨日の窓のことも、何をどこまで知っているのかも。


 言わないまま、エルナは立ち位置を半歩、訓練場の方角からずらした。


 道を空ける動きだった。





 エルナは去らなかった。立ち位置をずらしただけだ。俺が訓練場へ進むのも、進まないのも、ここに立って見届ける、という立ち方だった。


 俺は、エルナの横を通り抜けるか、引き返すか、立ち止まり続けるか、どれかを選ばなければいけなかった。


 引き返せない。フィアが訓練場で待っている。


 立ち止まり続けることは、フィアが今日選んだ立ち位置を上から塗り直すことになる。それは昨日の自分が決めて、置いてきたばかりだった。


 通り抜けるしかなかった。


 エルナの横を通る瞬間、目が合った。一瞬だけだ。光の輪の縁で、灰色の目に午後の光が一度だけ入った。エルナは何も言わなかった。


 俺の足は、訓練場の方へ動いていた。


 並木道の風が、もう一度吹いた。葉がさっきと同じ場所で揺れた。


 エルナの問いには答えていない。だが、訓練場へ向かうこの足が、答えの代わりになることだけは、たぶん同じように分かっていた。


 訓練場の扉が見える距離に入っていた。


 その向こうで、フィアが袖を肘まで上げたまま、待っているはずだった。


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