観測者
昨日の終業後、フィアとは何も話さなかった。
他の生徒の前で残ることを、二人とも選ばなかった。窓のシルエットがまだそこにいるかもしれない、という気がしたからだ。それを口に出さずに、鞄を持って別の方角に分かれた。
今朝の授業中、ガドはいつも通りの席で、いつも通りの態度だった。隣の生徒たちもそうだった。昨日見たことを、誰も口に出さなかった。だが、ふと顔を上げた時、目が合う回数が、ほんの少しだけ減っていた気がする。
胸の下の、昨日もう一段下に落ちた重さは、朝起きた時もそこにあった。動かないまま、午後の授業の終わりまで持ち越した。
放課後のベルが鳴った。
今日も、図書館へは行かない。訓練場へ行く。フィアが待っているはずだった。中央寄りの位置に、袖を肘まで上げたままで立っている。そう思っていた。
並木道に出た。
光の輪の境を一つ越えた。二つ目の灯の下で、足が止まった。
エルナがいた。
◇
書架の奥でも、図書館の机の前でもない。今日は外だった。並木道の真ん中、二つ目の灯の下、銀髪が午後の光を拾って白い。手は空だった。本を持っていない。
俺は近づいた。
四メートル。二メートル。エルナは動かなかった。逆光で、目だけが灰色のままこちらを向いている。
「先に来た」
エルナが言った。質問ではない。今日も確認だった。俺が訓練場へ向かう途中でここを通る、と知っていた声だった。
「うん」
俺の声は、自分でも思ったより硬かった。
エルナはそれ以上、雑談を挟まなかった。並木道の風が一度吹いた。葉が一枚だけ揺れて、止まった。
「昨日のこと、知ってる」
短い。
俺は応えなかった。応えようがなかった。「うん」と言えばフィアと俺の現象を肯定することになる。「違う」と言えば嘘になる。エルナは、応えないままの俺を、そのまま見ていた。瞼を伏せもせず、こちらに置いたままだった。
知っていることを示した上で、別の問いを置いた。
◇
「止める選択は、した?」
前に聞いた「止めたら?」より静かで、逃げ場の置き所がどこにもない問い方だった。
俺は黙った。
「した」と答えれば嘘になる。今日も訓練場へ向かう途中だ。今日も、止めるつもりはない。
「していない」と答えれば、昨日の公的化を、自分が選んで続けたと宣言することになる。窓のシルエットに対して、観られていることを承知で進む、と言うことになる。
どちらも、今日の俺が一人で持てる答えではなかった。
風がもう一度吹いた。葉がさっきと同じ場所で揺れて、止まった。その間の長さが、俺の沈黙の長さでもある。エルナは、俺の答えを待っているのではなかった。答えられない時間そのものに、灰色の目を置いていた。
そして、自分の側を、初めて開いた。
「あの本は、家のものなの」
家名は出なかった。「家のもの」と短く言うだけだった。
声の温度が、低い場所から押し出されてきた。淡々としているのは前と同じだ。だが今日は、根の方から声が出ているのが判る言い方だった。
「私の家は、ずっと魔力痕を観てきた」
そこで、灰色の目がわずかに動いた。俺の顔の真ん中から、肩の少し上のあたりへ、視線がほんの少しだけずれて、また戻ってきた。
「観る、というのは、止めるのとは違う」
言い終えて、エルナは間を置いた。
風はもう吹かなかった。葉も鳴らなかった。沈黙の輪郭だけが、二人の間にある。エルナは、その輪郭の中で、もう一度だけ口を開いた。
「私はあなたを止めるためにここにいるんじゃない。観るためにいる」
それ以上は言わなかった。家名も、昨日の窓のことも、何をどこまで知っているのかも。
言わないまま、エルナは立ち位置を半歩、訓練場の方角からずらした。
道を空ける動きだった。
◇
エルナは去らなかった。立ち位置をずらしただけだ。俺が訓練場へ進むのも、進まないのも、ここに立って見届ける、という立ち方だった。
俺は、エルナの横を通り抜けるか、引き返すか、立ち止まり続けるか、どれかを選ばなければいけなかった。
引き返せない。フィアが訓練場で待っている。
立ち止まり続けることは、フィアが今日選んだ立ち位置を上から塗り直すことになる。それは昨日の自分が決めて、置いてきたばかりだった。
通り抜けるしかなかった。
エルナの横を通る瞬間、目が合った。一瞬だけだ。光の輪の縁で、灰色の目に午後の光が一度だけ入った。エルナは何も言わなかった。
俺の足は、訓練場の方へ動いていた。
並木道の風が、もう一度吹いた。葉がさっきと同じ場所で揺れた。
エルナの問いには答えていない。だが、訓練場へ向かうこの足が、答えの代わりになることだけは、たぶん同じように分かっていた。
訓練場の扉が見える距離に入っていた。
その向こうで、フィアが袖を肘まで上げたまま、待っているはずだった。




