溢れる
午後の授業の終わりが近づくにつれて、訓練場の方角の空気が動いている気がした。
窓の外の光の角度が、いつもより少し低い。風向きも違う。どこが違うのかは言えなかった。だが、行かないという選択は今日も浮かばなかった。
ベルが鳴った。
俺は廊下を急がずに歩いた。急ぐと、急ぐ理由を自分の中で言葉にしてしまう。それを今日は避けたかった。階段を下りる足音が、自分のものなのに少し遠い。並木道の砂利を踏む。光と影の境を越える。
訓練場の扉の前で、一度だけ手を止めた。木が今日も重い。だが、押し方は知っている。
扉を押した。
フィアはもう来ていた。
いつもより少し早い。袖は今日も肘まで上がったままだった。それは昨日と同じだ。違うのは、立ち位置だった。壁際ではなく、訓練場の中央寄りに立っている。撃つ位置に、もう半分入った場所だった。
目が合う。フィアの目は、昨日の夜の振り返りの目と、別ではなかった。
「来た」
フィアが言う。
「うん」
短い。距離を詰める。今日もいつもの位置で接続する、と二人とも口に出さない。だが、足の運びは互いに迷っていなかった。
◇
肘の内側に触れる。
温度。脈。今日もいつもと変わらない、はずだった。だが、何かが違う。
術式の空白の縁が、いつもよりはっきりしている。輪郭の線が太い。フィアの内側から、その縁に向かって、何かが押し寄せていた。
書く。
文字の形は、いつものまま組める。書ける手応えに変化はない。だが、書いた線の周りで、書いていないものの流れが、これまでより明らかに広い。線の周りに、線とは別の層があるのが指先で判る。
「うん」
フィアが小さく言った。確認だった。何の確認かは、お互い口にしない。だが、フィアの方も何かが違うと感じている。それだけが伝わってきた。
書き終える。指を離す前に、一度だけ動きが止まった。今日この一発を、本当に撃たせていいのか、という躊躇いだった。
だが、撃たないという選択もまた、フィアが今日選んだ立ち位置を上から塗り直すことになる。
指を離した。
「撃って」
フィアが構える。袖はそのまま。指先は丸めない。
◇
炎が走った。
中心に当たる。焦げ跡がまた一枚重なる。そこまでは想定通りだった。
問題は、その後だった。
撃った瞬間、的の前の空中に花びらが残った。濃さより先に、別のことが起きた。
横に流れた。
的の前にとどまるはずの花びらが、的の脇へ動いていく。空気の中を泳ぐ速さで、輪郭のまま広がっていく。消えない。
的の脇の壁の方まで、薄い赤の帯が伸びていた。その先端が、訓練場の隅、誰も使っていない的のあたりまで届いて、そこで初めて消え方が始まった。
ガドが自分の的から視線を外した。
「あれ、なんだ」
ガドの声が、五メートルほど離れた場所から届いた。視線がフィアの的の側へ動いている。
ガドの隣にいたF組の生徒が、二人、同じ方角を見た。
「いま、なんか、空気に……」
「赤いの、見えた?」
その二人の声は、こちらにも届く位置だった。
ガドはその答えを待たずに、もう一度自分の正面の的を見た。だがすぐに、また視線が脇に流れた。今日見えたものが、自分の見間違いではない、と確かめる目だった。
何かが落ちる音がした。
喉の奥が乾いた。呼吸が一度浅くなる。
俺の視線がガドの目へ向かう。それから別の生徒の口元へ。それから、フィアの目へ。
フィアもこちらを見ていた。咎めではない。だが、今、何かが起きた、という顔だった。袖はまだ、肘まで上がったままだ。
二人とも、すぐに次の動きを取れなかった。
◇
俺が顔を上げた。
訓練場は屋根のない場所だ。壁の上の方は、隣の教師棟の窓に面している。これまで、その窓の方を意識したことはほとんどなかった。今日は、自然に視線がそちらへ動いた。
二階の窓に、人影があった。
シルエットだけだ。逆光で、顔は判らない。男なのか女なのか、教師なのか職員なのかも判らない。背丈と肩の線が見えるだけだった。
その影は、動かなかった。
カーテンを閉めようとする動作も、立ち去る動作もない。ただ、こちらを見ている。あるいは、こちらの方角に立っているだけかもしれない。その差は、今日の俺には判らない。
視線を戻した。
フィアも俺の視線の動きを追って、窓の方を見た。一瞬だけだ。それから、目を伏せた。袖は、まだ肘まで上がったままだ。
ガドと、別の二人の生徒は、それぞれの的の前に戻りかけて、ためらっている。今日見たものを、どこに置くかまだ決められない。
胸の中で、昨日の夜より重いものが、もう一段下に落ちた。
見ていたのは、生徒だけではなかった。




