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夜の外

 訓練場から戻ってきて、机の前に座ったまま、手を動かしていなかった。


 ノートも本も開いていない。ペンはキャップを閉めたまま、机の端に転がっている。今日触ったものは、フィアの肘と、何も書かなかった指、それだけだった。


 放課後の花びらの残像が、まだ目の奥に残っている。一拍、二拍、三拍。空気に輪郭のまま沈んでいった見え方が、何度も戻ってくる。瞬きをしても、瞼の裏に同じ赤が浮く。


 書かなくても、出た。


 その事実を今夜どこに置くべきか、まだ決められない。フィアにはまだ全部は渡さない。エルナにもまだ渡さない。順序は自分の手の中にある、と思いたかった。


 夕食のベルが鳴った。


 食堂へ行く気にならなかった。鞄に押し込んだままのパンが、机の脇でまだ硬いまま残っている。代わりに窓を開けた。木枠が古くて、軋む。夜の空気が入ってくる。冷たい。頭の熱が少しだけ下がる。


 並木道に灯がついている。等間隔の光の輪が、地面に並んで落ちている。その一つの下に、誰かが立っていた。


 銀髪ではない。


 俺は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、自分のものとは思えないくらい大きく響いた。





 階段を下りる足音が、廊下に二段だけ大きく鳴った。それから消音した。


 外へ下りた。


 フィアが寮の入口の少し外、灯の下に立っていた。袖は今日のまま、肘まで上がっている。夜気の中で、白い腕だけが妙にはっきり見える。寒くないのか、と思ったが聞かなかった。聞いたら、別の話に逃がしてしまう気がした。


 訓練場の外でフィアと会うのは初めてだった。フィアが寮の前で誰かを待つような女ではない、と勝手に思っていた。今日までは。


「来た」


 フィアが言う。質問ではない。確認だ。俺が下りてくるのを、少し前から見ていた声だった。


「うん」


「歩く?」


 短い。理由は言わない。


「歩く」


 俺も理由を聞かなかった。


 フィアが向いた方へ、半歩遅れて並ぶ。歩幅は、放課後に縮まったあの距離とほとんど同じだった。意識して合わせたわけではない。身体が勝手にその幅を覚えていた。


 並木道を進む。行き先を決めない歩き方で、光の輪と影の境を交互にくぐった。輪の中に入ると、フィアの白い腕がいっそう浮き上がる。影に出ると、輪郭だけが横に並んでいる。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。砂利を踏む音が、二人分、半拍ずれたまま続いた。





 灯と灯のあいだ、暗い場所で、フィアが先に止まった。


 俺も、半拍だけ遅れて止まる。


「あの、さ」


 放課後の最後と同じ書き出しだった。だが声の置き場所が、訓練場の時より少し近い。


「今日のさ」


 俺は応えずに、続きを待った。並木道の枝の間で、葉が一度だけ擦れる音がした。


「あれ、あたしが出してるってことだよね」


 空気が一度、止まる。


 順序が一つずれた。答えが、自分の手から先に取られていた。喉が詰まる。


「……たぶん」


 声が出る。だが薄い。二文字しか返せなかった。自分の声なのに、輪郭が遠い。


 フィアの目が俺を見る。怒っているわけでも、急かしているわけでもない。今日見た花びらを、自分の中に置く位置を探している目だった。


「うん」


 フィアはそれだけ言った。


 そこで、もう一言続けかけたのが、形だけで判った。下唇がわずかに動く。息が一度入る。だが口が止まる。


「今日はもういい」


 咎めではなかった。今夜はそこまでにしておく、という選び方だ。


 俺は何も返せなかった。「待って」でも「違う」でもない。今夜の俺が言える言葉は、どれも一手遅れていた。


 二人の間に、もう一度沈黙が落ちる。


 放課後の沈黙より、輪郭のはっきりした沈黙だった。フィアの白い腕の縁が、灯の届かないこの場所でも、まだ薄く見えている。





 フィアが寮の方へ戻る向きに足を向けた。


 歩き出す前に、一度だけ自分の袖に目を落とす。肘までの位置に上がったままだ。指は下ろす形に動きかけたが、途中で止まった。そのまま下ろさずに、歩き始めた。


 光の輪を一つ、二つ抜けていく。


 俺は並木道の真ん中に立ったまま、追わなかった。追えば、たぶん「待って」と言ってしまう。今夜はそれを言えない。「今日はもういい」というフィアの選び方を、上から塗り直すことになる。


 フィアの背中が、灯一つ分だけ遠くなった。砂利を踏む足音が、行く方向にだけ残っていく。


 そこで、フィアが一度だけ振り返った。


 訓練場でもフィアは俺を見ることが増えた。だが今夜の振り返りは、それとは別のものだった。撃つ前の確認でも、命中の問いでもない。俺を見るためだけに、俺を見た。


 目が合う。一瞬だけだ。光の輪の縁で、灰色の目に灯の色が一度だけ入った。


 フィアは何も言わずに、また前を向いた。袖はそのままだった。


 胸の中に、夜の冷たさより重い感触が残った。フィアが置いていった半歩だった。


 寮の門が閉まる音が、遠くで一度した。


 俺は並木道の真ん中で、夜の空気の中にしばらく立っていた。足元の砂利は、もう自分の重みしか乗せていなかった。


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