試す
午後の授業は、声だけが遠かった。
教師の口が動いていて、黒板に字が増えていく。ノートに写す手は動いている。だが、写した字を読み返しても、何も入っていない。インクの並びだけが残って、意味の方が抜けていた。
「あなたは、直してきたの?」
エルナの声の、そこだけが耳の奥で止まっている。止まったまま、授業一つ分が流れた。
「直してきた」とも、「直してはいない」とも、言えなかった。どちらも半分しか正しくない、という感触だけがある。だがその半分が何なのか、まだ形を持たない。
形にするには、試すしかなかった。言葉で組み立てる前に、一度だけ身体で分けて確かめる必要がある。
放課後のベルが鳴った。
椅子の脚が床に擦れる音より先に、俺は立っていた。今日は図書館には行かない。訓練場に行く。並木道の花びらを、今日はよけずに踏んだ。
◇
訓練場の扉を押した。木が重い。中の空気はまだ少し冷たくて、汗の匂いより先に石の匂いがした。的の前の焦げ跡が、昨日までの重なりのまま残っている。
壁際に、フィアがいた。袖は昨日と同じ位置まで上がっている。こちらに気づいた目が、一瞬だけ揺れて、すぐ落ち着いた。
何も言わずに近づいた。距離が、いつもの距離になる。
いつもの位置に入る。肘の内側に指が触れる。皮膚の温度。脈。今日もいつもと変わらない。術式の空白の縁も、これまでと同じ形で見える。
触れたまま、書かなかった。
書こうとしている字の、最初の一画の手前で、指が止まっている。フィアがそれに気づいた。接続はしているのに、俺の指が動いていない。
「……どうしたの」
小さい声だった。咎めではなかった。
俺は一度、息を置く。
「今日は、書かずに撃ってほしい」
フィアの目が俺を見る。問うというより、昨日までの俺を見てきた目だ。「なんで」とは聞かない。だが、理由が要らないわけでもない、その距離だった。
「一回だけ?」
「一回だけ。判らなくていい。当たらなくていい」
フィアは少しだけ間を置いた。袖は肘まで上がったままだ。視線が俺の指先に一度落ちて、また顔に戻ってきた。
「……いいよ」
構えた。袖を下ろさない。指先を丸めない。昨日までと同じ構えだった。違うのは、俺の側が空白に何も書かずにいることだけだ。
触れたまま、何もしない。それが今日の実験だった。
◇
「撃って」
フィアが呼吸を一度整える。息を吸う音が、壁に反射して返ってきた。
炎が走った。
走ったが、的に当たらなかった。中心から左に大きく外れる。的の脇の石壁に、焦げ跡が一つ増えた。煤の匂いが遅れて鼻に届く。最初の頃の、方向が決まらない炎に近い軌跡だった。
ここまでは、予想の範囲だった。
だが、続きが違った。
炎の通った軌跡の空中に、花びらが残っている。赤に近い色。これまでで一番濃い。輪郭が、空気の中にそのまま切り抜かれたように残っていた。
一拍。
二拍。
三拍。
そこまで長く空中にいた花びらは、これまでなかった。
フィアが息を止めた。俺も止めた。胸の前で、二人分の呼吸が同じ位置で止まっていた。
花びらは、ゆっくり消えた。消えるというより、空気に染み込んでいく見え方だった。輪郭のまま、まわりの空気と混ざっていく。最後の一片が消えた場所に、薄い赤だけがしばらく残った。
フィアが先に口を開く。
「当たらなかった」
短い。
そこで一度、間が空いた。蝋燭の芯が爆ぜるような音もない、ただの空気の止まりだった。
「……でも、何かはいた」
それだけ続けた。
俺は頷けなかった。頷くには、今見たことが大きすぎる。
花びらは、書かなくても出た。むしろ、書いている時より濃く出た。
これまで同時にやっていたから、一つの動きに見えていただけだ。分けて試せば、分かれる。
俺は自分の指先を見る。触れているだけだ。何も書いていない。それでも、何かは通った。通った感覚が、まだ指の先に微かに残っている。
◇
フィアが、袖を下ろさないまま俺を見ていた。
「あの、さ」
声が、昨日までより少しだけ近い距離から来る。半歩分だけ、空気が短くなっていた。
「書かなくても、出るんだ」
質問ではなかった。観察の確認だった。今日の結果を、フィアの方が先に言葉にした。
俺は一つだけ頷く。
「そうみたいだ」
それ以上、今日は言わなかった。
言えば、続きを全部話すことになる。エルナにも渡さなかったものを、フィアへ一気に渡すことになる。その順序は、まだ選べていない。
フィアは袖をそのままに、一歩離れた。次の一発を撃つ構えではない。今日見たものを、自分の中で置き直そうとしている動きだった。袖を下ろしかけて、途中で止めて、また肘の位置に戻した。その一往復が、今日の沈黙の形だった。
頭の中で、エルナの問いが形を変えている。
「あなたは、直してきたの?」
答えの半分は見えた気がした。直すだけではなかった。書かなくても起きる側が、確かにある。
だが、まだ誰にも全部は渡さない。
今日はただ、フィアの隣で、花びらが消えた空気を見ている。




