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試す

 午後の授業は、声だけが遠かった。


 教師の口が動いていて、黒板に字が増えていく。ノートに写す手は動いている。だが、写した字を読み返しても、何も入っていない。インクの並びだけが残って、意味の方が抜けていた。


「あなたは、直してきたの?」


 エルナの声の、そこだけが耳の奥で止まっている。止まったまま、授業一つ分が流れた。


 「直してきた」とも、「直してはいない」とも、言えなかった。どちらも半分しか正しくない、という感触だけがある。だがその半分が何なのか、まだ形を持たない。


 形にするには、試すしかなかった。言葉で組み立てる前に、一度だけ身体で分けて確かめる必要がある。


 放課後のベルが鳴った。


 椅子の脚が床に擦れる音より先に、俺は立っていた。今日は図書館には行かない。訓練場に行く。並木道の花びらを、今日はよけずに踏んだ。





 訓練場の扉を押した。木が重い。中の空気はまだ少し冷たくて、汗の匂いより先に石の匂いがした。的の前の焦げ跡が、昨日までの重なりのまま残っている。


 壁際に、フィアがいた。袖は昨日と同じ位置まで上がっている。こちらに気づいた目が、一瞬だけ揺れて、すぐ落ち着いた。


 何も言わずに近づいた。距離が、いつもの距離になる。


 いつもの位置に入る。肘の内側に指が触れる。皮膚の温度。脈。今日もいつもと変わらない。術式の空白の縁も、これまでと同じ形で見える。


 触れたまま、書かなかった。


 書こうとしている字の、最初の一画の手前で、指が止まっている。フィアがそれに気づいた。接続はしているのに、俺の指が動いていない。


「……どうしたの」


 小さい声だった。咎めではなかった。


 俺は一度、息を置く。


「今日は、書かずに撃ってほしい」


 フィアの目が俺を見る。問うというより、昨日までの俺を見てきた目だ。「なんで」とは聞かない。だが、理由が要らないわけでもない、その距離だった。


「一回だけ?」


「一回だけ。判らなくていい。当たらなくていい」


 フィアは少しだけ間を置いた。袖は肘まで上がったままだ。視線が俺の指先に一度落ちて、また顔に戻ってきた。


「……いいよ」


 構えた。袖を下ろさない。指先を丸めない。昨日までと同じ構えだった。違うのは、俺の側が空白に何も書かずにいることだけだ。


 触れたまま、何もしない。それが今日の実験だった。





「撃って」


 フィアが呼吸を一度整える。息を吸う音が、壁に反射して返ってきた。


 炎が走った。


 走ったが、的に当たらなかった。中心から左に大きく外れる。的の脇の石壁に、焦げ跡が一つ増えた。煤の匂いが遅れて鼻に届く。最初の頃の、方向が決まらない炎に近い軌跡だった。


 ここまでは、予想の範囲だった。


 だが、続きが違った。


 炎の通った軌跡の空中に、花びらが残っている。赤に近い色。これまでで一番濃い。輪郭が、空気の中にそのまま切り抜かれたように残っていた。


 一拍。


 二拍。


 三拍。


 そこまで長く空中にいた花びらは、これまでなかった。


 フィアが息を止めた。俺も止めた。胸の前で、二人分の呼吸が同じ位置で止まっていた。


 花びらは、ゆっくり消えた。消えるというより、空気に染み込んでいく見え方だった。輪郭のまま、まわりの空気と混ざっていく。最後の一片が消えた場所に、薄い赤だけがしばらく残った。


 フィアが先に口を開く。


「当たらなかった」


 短い。


 そこで一度、間が空いた。蝋燭の芯が爆ぜるような音もない、ただの空気の止まりだった。


「……でも、何かはいた」


 それだけ続けた。


 俺は頷けなかった。頷くには、今見たことが大きすぎる。


 花びらは、書かなくても出た。むしろ、書いている時より濃く出た。


 これまで同時にやっていたから、一つの動きに見えていただけだ。分けて試せば、分かれる。


 俺は自分の指先を見る。触れているだけだ。何も書いていない。それでも、何かは通った。通った感覚が、まだ指の先に微かに残っている。





 フィアが、袖を下ろさないまま俺を見ていた。


「あの、さ」


 声が、昨日までより少しだけ近い距離から来る。半歩分だけ、空気が短くなっていた。


「書かなくても、出るんだ」


 質問ではなかった。観察の確認だった。今日の結果を、フィアの方が先に言葉にした。


 俺は一つだけ頷く。


「そうみたいだ」


 それ以上、今日は言わなかった。


 言えば、続きを全部話すことになる。エルナにも渡さなかったものを、フィアへ一気に渡すことになる。その順序は、まだ選べていない。


 フィアは袖をそのままに、一歩離れた。次の一発を撃つ構えではない。今日見たものを、自分の中で置き直そうとしている動きだった。袖を下ろしかけて、途中で止めて、また肘の位置に戻した。その一往復が、今日の沈黙の形だった。


 頭の中で、エルナの問いが形を変えている。


 「あなたは、直してきたの?」


 答えの半分は見えた気がした。直すだけではなかった。書かなくても起きる側が、確かにある。


 だが、まだ誰にも全部は渡さない。


 今日はただ、フィアの隣で、花びらが消えた空気を見ている。


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