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問い

 昼休みのベルが鳴った。


 食堂には入らなかった。入口の脂の匂いだけを横切って、そのまま廊下を抜ける。パンを一つだけ鞄に押し込んで、足は図書館へ向かっていた。


 昨夜の「まだその順ではない」という感覚は、朝になっても動かなかった。動かないまま、別の場所だけが詰まっている。呼吸が、昨日より半歩浅い。


 フィアには言えない。今はまだ言う順番ではない。


 だが、一人で抱えたままでも先に進めない。


 なら、別の場所で一つだけ確かめるしかなかった。


 エルナなら、何かを知っている。少なくとも、本を置いて去るだけの位置ではなくなっている。


 図書館の入口で、足が一度止まった。


 何を聞くのか。まだ、問いの形にまで整っていない。それでも入らなければ、また一晩持ち越すことになる。


 扉の木枠に手をかけた。指の先が、冷たい木目の凹凸を拾った。


 中へ入った。





 古書の棚へ向かう。窓の光が届かない奥。蝋燭の明かりだけが壁にかかっている。


 そこにエルナがいた。


 同じ踏み台。同じ位置。今度は別の本を読んでいる。銀髪が火を拾って白い。先日と、ほとんど同じ景色だった。


 違うのは、今日は俺が自分から来たことだけだ。


 足音を一つ鳴らした。板張りの床が乾いた音を返す。


 エルナが顔を上げる。気配で判ったのか、足音で判ったのかは分からない。顔を上げるまでの間が、前より短かった。灰色の目が、火の向こうからこちらを見る。


「……また来た」


 声は低い。驚きはない。予想の範囲だった、という響きだ。


 近づく。四メートル。二メートル。前にエルナが本を置いた机の前で止まった。


 今日は机に何も置かれていない。木目だけが、暗がりの中で浮いて見える。


「あの日の本を」


 俺は言った。


「あんたが読んでいた方」


 エルナは本を閉じない。膝の上の開いたページに視線を落としたまま、聞き返した。


「《固定詠唱外の魔力痕》」


 題名を繰り返す声に迷いがない。覚えていた、というより、今もそこに置いたままの言い方だった。





「読みたい」


 俺は言った。


 そこでエルナは、ようやく本を閉じた。指を挟み、栞を差して、丁寧に閉じる。前と同じ動作だ。その丁寧さが、そのまま答えの慎重さに見えた。


 閉じた本を、膝の上に横たえる。表紙の擦れた金文字が蝋燭の火に一度だけ光った。


「貸せない」


 短い。


 一歩、踏み出しかけた。机の縁に手がかかる。詰めようとした、その前に。


 エルナが問いを置いた。


「あなたは、直してきたの?」


 空気が一度、止まる。


 指が、昨日の訓練場でそうだったように、わずかに遅れた。机の縁をつかんだまま、開こうとした手が開ききらない。その遅れをエルナは見ている。灰色の目が、俺の指にだけ落ちていた。


 「直してきた」と答えれば、昨日の自分を裏切る。書き込みではなかった、引き出していただけだった、と自分で見始めた理解に戻ることになる。


 「直してはいない」と答えれば、その先を全部話すことになる。フィアより先に、エルナへ渡すことになる。


 どちらも、今日の俺が選べる答えではなかった。


 黙った。


 蝋燭の芯が一度だけ小さく音を立てた。その音がやけに近く聞こえた。


 エルナはそれを見ていた。口を開くのを待っているのではない。開けない状態そのものを、確かめるように見ていた。観測に近い視線だった。


「……答えられない」


 やっと、それだけ言った。喉の奥で声が一度かすれた。


 エルナは小さく頷いた。満足とも失望とも違う。ただ、予想の通りだった、という頷きだった。


「そう」


 それだけ返す。


 それ以上、助ける言葉も、先回りする言葉も置かない。


 先に問いを持ち込んだのは俺の方だった。なのに今は、エルナの問いの中に立たされている。





 エルナが立ち上がる。踏み台の木がわずかに軋んだ。


 閉じた本を腕に抱え直し、机の横を通り過ぎる。すれ違う時、一度だけ目が合った。先日と同じ瞬間だ。だが今日は、ほんのわずかに長かった。


「まだ、読まない方がいい」


 去り際に、それだけ落とした。


 何が、と思った。


 本なのか、答えなのか、俺自身を指しているのか。


 聞き返そうとして、口は開いた。だが、声が出る前に、銀髪が書架の奥へ消える。蝋燭の火から離れて、すぐ見えなくなった。


 板張りの床に足音が一度鳴って、もう聞こえなくなった。


 机の前に立ったままだった。


 問いを持って来た。だが問いは別の問いに置き換えられて、その新しい問いにも答えられなかった。


 手の中には、触ってもいない本の重さだけが、空白の形で残っている。


 残ったのは、「答えられない」という答えを、エルナに見られたことだけだ。


 エルナだけが、俺の続きを知っている。知っていて、まだそこに俺を入れていない。


 その感触が、蝋燭の火の縁みたいに、胸の奥に残った。


 昼休み終わりのベルが、遠い廊下で鳴り始めていた。


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