余白
目が覚めた時、ノートは昨夜と同じ位置で開いていた。ペン先の向きもそのままだ。書こうとして書かなかった空白が、そこに残っている。
ランプは消えていた。自分で消した記憶はない。芯の先に炭の匂いだけが残っている。窓の外はもう明るく、木の枝の影が机の上に斜めに落ちていた。
机の端に本があった。閉じてある。表紙の金文字は擦れていて、指でなぞると乾いた革の冷たさが返ってくる。薄いのに、手に重い。昨夜と同じ重さだった。
ノートの白紙を見た。書き足すべき行は浮かばない。浮かぶのは、昨夜読んだ一行だけだった。
書いていないものは、術者自身から出ている。
この一行が正しいなら、これまで書いてきた修正は、書き込みではない。触れた場所から押し出していただけだ。押し出していたのは、俺のものではない。フィアの中にあったものだ。
ノートを閉じた。表紙の上に手のひらを置く。冷たい。手の甲の側まで冷えていた。指の関節が少し強張っていて、握って開くと、乾いた音が鳴った。
登校のベルは、まだ鳴らない。
◇
並木道を一人で歩いた。花びらが地面にまだ残っている。昨日までよりも色が褪せている。踏まないように歩幅を変える。左、右、半歩ずらす。均等な歩調が崩れる。
前にフィアはいない。後ろにもいない。F組の棟までの道で、思考だけが勝手に動いた。
書き足していたつもりだった。直していたつもりだった。でも本の言う通りなら、直してはいない。開けていた。
何を。
フィアの中にあったものを。九歳の頃から、と本人が言ったものを。
鞄の中で、本の角が脇腹に当たっている。重さが同じ場所に当たり続ける。指先が一度、冷たくなった。歩幅の乱れが、自分の影に出ている。朝の光が短くて、影もまだ伸びきっていない。
花びらをよけて歩き続けた。よけている、その動作そのものが、昨日までとは違う重さを持っていた。
◇
放課後。訓練場。
フィアは壁際に立っていた。袖は肘の上まで上がったままだ。昨日と同じ位置。昨日と同じ距離。的の前の焦げ跡も昨日と同じ場所に重なっている。
何も言わない。
俺も言わなかった。
いつもの位置に入る。肘の内側に指が触れる。皮膚の温度が近い。脈が伝わってくる。俺の脈か、フィアの脈か、今日もどちらなのか判らない。術式の空白の縁が、今日もはっきり見えた。
いつもの文字列を書こうとした。
指が、わずかに止まった。
書こうとしている字と、実際に起きている事が、重ならない。書いている字に意味があると信じていた。だが実際は、書いた場所から、彼女の中の何かが通ってくるだけなのかもしれなかった。
それでも、修正は通る。そのことはもう判っている。
俺は書いた。昨日と同じ文字列で、同じ位置で、同じ深さで。書き終える時、いつもより指の運びがほんの少し遅かった。自分の呼吸が浅くなっているのが判る。
「撃って」
フィアが離れた。袖は上がったままだ。息を吸う音が、壁に反射して返ってきた。
炎が走る。中心に当たった。焦げ跡がまた一枚重なる。花びらが濃く出る。赤に近い色が、昨日より輪郭を持っている。残像も、前より長く残った気がした。
フィアが言った。
「今日も、濃い」
俺は頷いた。
「……濃い」
喉の奥で一度、声が止まった。言いたい言葉ではなかった。だが今日、口に出せる言葉はそれしかない。
フィアの目が俺を見る。何も問わない。何かが変わったことには、気づいているのかもしれなかった。気づいたうえで、待っているのかもしれなかった。沈黙が昨日と同じ形で、でも昨日よりほんの少し、俺の方に傾いている。
手をフィアの肘から離す。離す瞬間、指先に小さな迷いが残った。
◇
寮に戻った。机の上のノートは、昨夜のまま開いている。
椅子を引いて座った。ランプに火を入れる。芯の先に赤が灯って、紙の白が、朝とは違う色で浮かび上がった。
ペンを取った。
書けるはずの行はある。修正は書き込みではない。フィアから引き出している。花びらは彼女の中のもの。どれも、この数日で積み上がった仮説を整えるための行だ。
ペン先が紙に落ちない。
書けば、仮説は言葉になる。言葉になれば、フィアに伝える番が来る。まだ、その順ではない。その感覚だけがある。
ペンを置いた。昨夜と同じ場所に置いた。キャップを閉める指が、昨夜より少しだけ遅かった。
ノートの白紙に視線だけを置く。書かれていない場所。本が「魔力痕は書いていない場所に出る」と書いていた、その場所だ。
白紙は、ただの空白ではなかった。そこに何かが出ている時だけ、見える余白だった。
机の上に手を置く。今日フィアの肘に触れた、その手だ。指先の迷いが、まだ残っている。
この迷いもまた、書いていないものの一つだ、と思った。
窓の外は暮れていく。風の音は昨夜と同じ方角から来ている。銀色は、今日も見えなかった。




