書架
昼休みに入った。食堂へは行かなかった。
修正はまだ残っている。朝、廊下ですれ違ったフィアは、袖を肘まで上げたままだった。何も言わなかった。俺も言わなかった。
昨日の「前からたまにあった」は、まだ二人の間に置かれている。
触れ方が分からないまま、図書館へ向かった。
知りたいのは「術式の空白」だ。避けるように教わる場所なら、その理由がどこかに書かれているはずだった。
この建物を、目的を持って使うのは初めてに近い。入口で一度、足が止まる。棚の並びを確かめる。入門書、上級教本、古書、禁架書。
禁架書は鍵がかかっている。
古書の棚へ向かった。背表紙の金文字は擦れて読みづらい。古いだけで、死んだ棚ではない。誰かは使っている気配がある。
「空白」の一語だけを頭に残したまま、奥へ入った。
◇
奥の書架、そのさらに奥。窓の光が届かない場所。
そこにエルナがいた。
低い踏み台に腰を下ろし、本を読んでいる。銀髪が蝋燭の火を拾って、白く見える。
足を止めた。五メートル。気づかれていない、と思った瞬間、エルナが顔を上げた。
見られていた、と判る。
近づいた。二メートルまで来て、膝の上の本の題が読めた。
《固定詠唱外の魔力痕》
固定詠唱。授業で習った言葉だ。スキルの、固定された側。その外にある魔力痕。
エルナが口を開く。
「読みたいの?」
問いではあった。でも、俺がここに来た理由をもう知っている声だった。
「……読む」
短く答えた。否定する意味はなかった。
エルナはそれ以上聞かない。
聞かないまま、立ち上がる。
◇
エルナは自分の本を静かに閉じた。
ページを折らない。指を挟み、栞を差してから閉じる。本の扱いに迷いがない。
その本を元の棚に戻した。
俺が見ていた《固定詠唱外の魔力痕》ではない。
エルナは隣の棚へ移る。指が背表紙を三冊ぶん滑って止まる。そこから一冊を抜いた。薄い革装の本だ。金文字はほとんど消えている。
「ここに置く」
通路の途中の机に、本を置いた。俺との間に机を挟む位置だった。
それ以上は説明しない。そのまま去る。
横を通り過ぎる時、一度だけ目が合った。何も言わない。言わないこと自体が、意図に見えた。
銀髪が書架の奥に消える。
机に近づいた。置かれた本の題を見る。
《揺らぎの術——古代書の断片》
「揺らぎ」という語を、俺は初めて文字で見た。まだ意味はない。でも、見た瞬間に、花びらや空白とは別の層の言葉だと判った。
答えを渡された感じはしない。
入口だけが置かれた感じだった。
◇
本を手に取った。重い。薄いのに、重い。革が乾いている。
最初のページを開いた。古い綴りだ。三行だけ読んで、読めると判った。ここでは読まない。寮に持ち帰る。
貸出の記録を書こうとして、手が止まった。貸出カードがない。本来あるはずの差し込みの場所だけが、空だった。
誰も借りていないのか。学院の蔵書ではないのか。判らない。ただ、記録の外にある本だと感じた。
司書の前を通った。司書は顔を上げたが、何も言わなかった。本の題も確認しない。
図書館を出た。昼休みの終わりのベルが鳴っている。
鞄の中に、《揺らぎの術——古代書の断片》が入っている。
重さが肩に伝わってきた。
答えの重さではない。
まだ名前を持たない、別の前提の重さだった。




