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来客

 朝の空気が冷えていた。いつもより少し早く、寮を出た。


 前に書いた修正は、五日前後で消えていた。その境をそろそろ越える。だから今日の最初の感覚で、まだ残っているかを確かめたかった。


 棟の前に出た。


 誰かが立っていた。


 銀髪。朝の光を拾って白く見える。A組の制服。こちらを向いている。


 エルナだ。


 向こうは動かない。待っていた、というより、確認しに来た立ち方だった。


 足を止めなかった。自分から近づいた。石畳の音が三歩ぶん響いて、二メートル半の位置で止まる。


「何の用だ」


 自分でも思ったより、声は低かった。





 エルナはすぐには答えなかった。


 灰色の目が俺を見ている。並木道の陰で見た時より、ずっと近い。見られている感覚が、今度ははっきりある。


 風が一度、制服の裾を鳴らした。


「F組の火は、術式の空白を使っている」


 エルナが言った。


 返さなかった。返した瞬間に、何かを認めることになる。


「普通は、避ける場所。避けるように教わる」


 エルナが続ける。


「あんたは、そこに書いてる。違いは見れば判る」


 ターミナルの内側で、何かが動いた。


 空白は俺が一人で見ているものだった。他人が口にする単語ではなかった。


「誰から教わった?」


 俺が先に聞いた。


 エルナが、初めて目を少しだけ動かした。


「なぜ知っているか、は聞かない方がいい」


 拒絶ではなかった。ここまでは言う、ここから先は言わない。そういう引き方だった。


 俺の口から、用意していなかった問いが出る。


「……見えるのか?」


 エルナは答えなかった。


 答えない方を、選んだ。


 それが余計に、答えみたいだった。





 エルナが一歩下がった。


 背を向けるかと思ったところで、足が止まる。


「止めたら?」


 振り返らずに言った。


 命令ではない。威圧でもない。今日の天気を言うみたいな声だった。だから、冗談でもはぐらかしでもないと判る。


 俺は動かなかった。


 止めろと言われて、初めて輪郭が出るものがある。


 エルナはもう何も言わない。A組の方角へ歩き出した。銀髪が朝の光で一度だけ揺れて、遠ざかっていく。


 追わなかった。止めもしなかった。


 石畳の上に、言葉だけが残る。


 止めたら。


 短いのに、消えない。





 右手を見た。


 昨日、フィアの肘の内側に触れた指だ。皮膚の温度はもう残っていない。でも、記憶の方はまだある。


 ターミナルを開いた。修正の文字列は今朝も残っている。空白の位置も、昨日と同じだ。


 ノートを取り出して、立ったまま書いた。


「朝。エルナ」


「——F組の火は、術式の空白を使っている、と言った」


「——止めたら? と言った」


 そこでペンが止まった。


 もう一行、書いた。


「見えるのか」


 自分の問いだけを書いた。答えはない。


 それでも、今日はその一行を残しておくべきだと思った。


 ノートを閉じる。


 訓練場へ向かった。


 止めろと言われた日の方が、確かめに行く理由は強くなる。


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