来客
朝の空気が冷えていた。いつもより少し早く、寮を出た。
前に書いた修正は、五日前後で消えていた。その境をそろそろ越える。だから今日の最初の感覚で、まだ残っているかを確かめたかった。
棟の前に出た。
誰かが立っていた。
銀髪。朝の光を拾って白く見える。A組の制服。こちらを向いている。
エルナだ。
向こうは動かない。待っていた、というより、確認しに来た立ち方だった。
足を止めなかった。自分から近づいた。石畳の音が三歩ぶん響いて、二メートル半の位置で止まる。
「何の用だ」
自分でも思ったより、声は低かった。
◇
エルナはすぐには答えなかった。
灰色の目が俺を見ている。並木道の陰で見た時より、ずっと近い。見られている感覚が、今度ははっきりある。
風が一度、制服の裾を鳴らした。
「F組の火は、術式の空白を使っている」
エルナが言った。
返さなかった。返した瞬間に、何かを認めることになる。
「普通は、避ける場所。避けるように教わる」
エルナが続ける。
「あんたは、そこに書いてる。違いは見れば判る」
ターミナルの内側で、何かが動いた。
空白は俺が一人で見ているものだった。他人が口にする単語ではなかった。
「誰から教わった?」
俺が先に聞いた。
エルナが、初めて目を少しだけ動かした。
「なぜ知っているか、は聞かない方がいい」
拒絶ではなかった。ここまでは言う、ここから先は言わない。そういう引き方だった。
俺の口から、用意していなかった問いが出る。
「……見えるのか?」
エルナは答えなかった。
答えない方を、選んだ。
それが余計に、答えみたいだった。
◇
エルナが一歩下がった。
背を向けるかと思ったところで、足が止まる。
「止めたら?」
振り返らずに言った。
命令ではない。威圧でもない。今日の天気を言うみたいな声だった。だから、冗談でもはぐらかしでもないと判る。
俺は動かなかった。
止めろと言われて、初めて輪郭が出るものがある。
エルナはもう何も言わない。A組の方角へ歩き出した。銀髪が朝の光で一度だけ揺れて、遠ざかっていく。
追わなかった。止めもしなかった。
石畳の上に、言葉だけが残る。
止めたら。
短いのに、消えない。
◇
右手を見た。
昨日、フィアの肘の内側に触れた指だ。皮膚の温度はもう残っていない。でも、記憶の方はまだある。
ターミナルを開いた。修正の文字列は今朝も残っている。空白の位置も、昨日と同じだ。
ノートを取り出して、立ったまま書いた。
「朝。エルナ」
「——F組の火は、術式の空白を使っている、と言った」
「——止めたら? と言った」
そこでペンが止まった。
もう一行、書いた。
「見えるのか」
自分の問いだけを書いた。答えはない。
それでも、今日はその一行を残しておくべきだと思った。
ノートを閉じる。
訓練場へ向かった。
止めろと言われた日の方が、確かめに行く理由は強くなる。




