火だけ
三日ぶりだった。
F組訓練場に入った瞬間、壁に人影があった。腕を組んで、壁に背をついて立っている。金髪が肩の上で風に揺れている。的に向いていない。俺のほうも見ていない。ただそこにいた。
フィアだった。
足が止まった。三日間、空だった場所に人がいる。壁の冷たい石に背中をつけて、袖を下ろした腕を胸の前で抱えている。昨日まで誰もいなかった場所だ。
距離を保ったまま、荷物を床に置く。来るとは思っていなかった。何かを言うべきかと考えた。言葉が出てこなかった。
◇
フィアが動いたのは、俺が的を二発撃ったあとだった。
腕をほどいて、フィアが的の前に立った。いつもより少し遠い位置だ。壁との距離を取っている。右手を上げる。構える。
「フレア!」
外れた。的の右端を掠めた火が、壁に当たった。石の表面に黒い焦げ跡が広がる。煙が薄く立ち上った。
フィアはすぐにもう一度構える。撃つ。また壁だった。左端よりさらに外れた場所に着弾している。三発目も壁。焦げ跡が横に並んでいく。四発目も壁だった。的の周囲を囲むように焦げ跡が散っている。一発も当たらない。
五発目を構えたところで、フィアは手を下ろした。的を見ている。黒い的の中心は無傷のまま残っている。先週まで、あの中心を焼き抜いていた火が、今は的に触れることすらできない。
フィアが列に戻る。壁に背中をつけた。腕を組んだ。袖を引き下ろす仕草。
壁に焦げ跡がある。昨日の穴と、今日の四つ。俺はノートを開きかけて、止まった。
◇
気づいたら歩いていた。
フィアのそばまで来て、右手を差し出した。手のひらを上に向けて。三週間前、フィアが手首を差し出した時と同じ形だ。あの時はフィアの方から出してきた。今は俺が出している。
「修正を書き直す。もう一度やらせてくれ」
フィアは差し出した手を見た。手のひらから指先へ視線が落ちる。俺の目は見なかった。
沈黙が長かった。訓練場に風が吹き込んで、的の焦げた匂いが薄れていく。
「何を直すの」
静かな声だった。怒鳴っていない。責めてもいない。ただ、答えを取りにきていた。
「お前の火を」
「火の軌道? 着弾精度?」
俺は黙った。
「あんたのノート、火のことしか書いてないんでしょ」
手がまだ宙に出たままだった。降ろせなかった。
フィアが俺を見上げている。責め立てるような目ではない。泣いてもいない。ただ静かに見ている。その静けさのほうが、大声より痛かった。
「火だけでしょ」
短かった。それだけだった。
胸の奥で何かが詰まった。花びらの枚数、着弾精度の数字、「フィア不在」と書いた字。名前は何度も書いた。着弾の位置も、手首を隠した日も、来なかった日も書いた。顔だけがなかった。
グレイが訊いた。壁に穴が開いたとき、最初に何を考えたか。96時間と答えかけて、止まった。
あの時も今も、言葉が出てこない。差し出した手は、何かを返せる形をしていなかった。
フィアは目を逸らした。壁のほうを見ている。焦げ跡が四つ並んでいる。的の周りを囲むように。一つも中心に触れていない。
指先でズボンの脇に触れた。手を下ろした。ゆっくりと。フィアの手のひらではなく、自分の太ももの布に触れた。
◇
フィアは出ていかなかった。
壁に寄りかかったまま、腕を組んだ。さっきと同じ姿勢だった。俺はその場に立ったまま、どうしていいかわからなかった。的の焦げた匂いがまだ漂っている。風が止んでいる。
しばらく経って、フィアが口を開いた。
「明日も来る」
声は平らだった。宣言でも、怒りでもない。壁を見たまま、ただそう言った。
「あんたが何を見てるかは知ってる。でも明日も来る」
俺は何も返せなかった。口が開いて、閉じた。フィアの言葉の意味がわからなかった。知っていても来る。その理由を、まだ持っていなかった。
フィアが壁から背中を離した。腕を解いて、訓練場の出口に向かった。足音が石の床を叩いている。袖の下ろされた腕が揺れている。背中が小さくなる。
一人の訓練場に立っている。的がある。壁の焦げ跡が五つ。差し出した手は何にも触れなかった。指先がまだ少し浮いている気がして、ゆっくり脇に押し当てた。




