薄れる
放課後。F組訓練場。
フィアが壁に寄りかかっている。来た。だが腕を組んでいる。袖は昨日のまま下りている。手首が見えない。指も見えない。二日前まで開いていた手のひらが、腕の中に隠れている。
三メートルまで近づいた。フィアの視線が一瞬こちらに来て、すぐに外れた。腕を組み直す仕草。壁に体重を預けたまま動かない。
手を伸ばした。
フィアが一歩退いた。
壁から背中が離れた。腕を自分の胸の前で抱えた。袖を掴んでいる。指が白い。
「......今日はいい」
声が小さかった。昨日の「うるさい」とは違う。硬くない。だが体が退いている。言葉より先に体が動いていた。
手が宙に残った。伸ばしたまま、触れるものがなくなった。指先が冷えていく。さっきまでフィアの体温があった場所だ。昨日までは。
◇
フィアが前を向いた。腕を解いて構える。手首は出さないまま。
「フレア!」
的に当たった。だが左にずれている。昨日の朝よりずれが大きい。二日前に書いた修正はまだ残っているはずだ。方向も着弾点も書いたはずだ。だが火の飛び方を見る限り、書いた修正が薄れている。
二発目を撃たなかった。フィアが的の焦げ跡を見ている。中心から外れた黒い跡を。自分の火が、少しずつまっすぐ飛ばなくなっていることを確かめている。
「......戻ってく」
フィアの声が低かった。何が戻るのか。壁に穴を開けていた頃のことだ。三年間、誰にも当たらなかった火に。修正が消えたら、そうなる。
フィアはそれを知っている。知っていて、手を出さなかった。
◇
フィアが訓練場を出ようとした。
「ガドに触れたのは、お前の中にあるものが他の奴にもあるか確かめたかっただけだ」
フィアが足を止めた。出口の手前。振り返らなかった。
「......それ、今言うことなの」
声が震えていた。怒りではない。怒りならもっと硬い。これは違う。何かが喉に詰まっているような、押し出すのに力が要る声だ。
「修正が薄れてる。このままだと——」
「知ってる」
フィアが遮った。短い。低い。知っている。暴発に戻ることを。まっすぐ飛ばなくなることを。それでも手を出さない。
フィアが歩き出した。訓練場の出口に並木の光が差している。袖の下ろされた腕が揺れている。背中が小さくなる。追いかけなかった。追いかける理由を、言葉にできなかった。
◇
部屋でノートを開いた。
「修正が薄れている。二日前に書いた修正、本来なら残り三日。だが昨日よりずれが大きい。修正そのものが消えかけているのか、それとも撃つ瞬間に何かがずらしているのか。まだわからない」
ペンが止まった。
フィアは知っていて手を出さなかった。暴発に戻ることより、俺に触れられることの方が嫌だった。
違う。嫌だったのではない。フィアの声は震えていた。嫌なら震えない。拒絶なら硬い声になる。あの震えは、別の何かだ。
ノートの上でペンが動かない。「確かめたかった」と言った。フィアは「それ今言うこと」と答えた。確かめたかっただけだ。それ以外の理由はない。ガドの腕に触れた一瞬、フィアの手のひらの温度は浮かばなかった。
本当か。
ペンを置いた。ノートを閉じた。閉じたノートの上に、右手だけが残っている。昨日ガドに触れて、一昨日フィアの指が絡んだ手だ。今日は誰にも触れなかった。




