第7話 ヤニカスの男
ちり、と首筋を過る冷たい気配。
振り返ることなく、ほとんど反射的にその場から飛び退く。技術も何もあったものじゃない、必死で不格好な横っ飛びだった。折れた腕を庇うように受け身を取り、転がりながら体勢を立て直す。そうして元いた場所へと視線を送れば、そこには巨大な得物を振り下ろす、やはり巨大な魔物の姿があった。
「ッ…………話が違うだろ」
深い闇の奥から現れたのは、戦鬼と呼ばれる高位の魔物であった。
三メートル近い筋骨隆々の巨躯に、赤黒い肌。黒くややねじ曲がった、額に聳える特徴的な二本の角。大人の胴ほどもありそうな巨腕。『コミカルではない赤鬼』といえば、その大凡のイメージは伝わるだろう。冒険者ギルドが定めるところによれば、その危険度はBランク。経験豊富なベテランパーティーでようやく戦える、といった強さである。当然、俺のような駆け出し以下の冒険者には太刀打ち出来ない相手だ。何よりも、こんなところで遭遇するはずのない魔物だった。もちろんギルドの教本でしか見たことがない。
今居るここは『古代遺跡シャレム』、その周辺の森である。
如何にもラストダンジョン的な神々しい名を冠してはいるが、実際には低難度のダンジョンとされている。生息している魔物の危険度は低く、魔物の群れに囲まれるような自体を避けさえすれば、駆け出しでも十分に探索が行えるダンジョンである。当然ながら、道中やその周囲も似たようなものだ。
それだけならば、如何にも人気がありそうに聞こえることだろう。
しかし実際には死ぬほど不人気な場所だった。理由はいくつかあるが、その最たるものは立地だ。交通の便が悪く、物資を調達出来るような街は更に遠い。当然直通の馬車などは存在しない為、向かうだけで一苦労である。
おまけに実入りも悪いと来ている。これは遺跡系のダンジョン全般に言えることだが、金になるモノが少ないのだ。価値のあるモノとそうでないモノの差が大きすぎる、というほうが正しいか。当たれば大きいのは確かだが、当たる確率が低すぎる。目利きも難しい為、初心者には向かない。故に訪れる冒険者はほとんど居なかった。
つまり俺達が休んでいたこの森も、それほど危険な場所ではない筈だったのだ。
そもそもオーガは夜行性ではない。遭遇する可能性など万にひとつもない筈だった。誰がどう考えても、先程の『ゲーミングぷぅちゃん』が原因であろう。明かりの有無を問うたのは他でもない俺なので、ある意味自業自得なのかもしれないが。
(ヤバいヤバいヤバい! どうする…………どうするッ!?)
何度でも言うが、戦って勝てる相手ではない。
本来ならば遭遇自体を避けるべき相手であり、こうして相まみえた時点で詰みである。立ち向かうなど以ての外、脱兎のごとく逃げたところですぐに追いつかれてしまう。俺とオーガの力量差は大人と赤子ほどもある。あるいはもっとか。どうする、などと考えたところで意味はない。答えは『どうしようもない』なのだから。
ちらりと、ぷぅちゃんの方を見る。
情けない話ではあるが、この窮地を脱するには最終破壊兵器たる彼女の力に頼る他ない。
しかしぷぅちゃんは丸太の上にちょこんと鎮座し、まるで動く気配がなかった。
「…………ぷぅさん?」
「むり。まりょくがきれたので」
だそうだ。
つまり目の前のオーガは、俺がどうにかしなければならないらしい。現実は非情である。
「だいじょうぶ。にゃーはあんがいよわくない。がんば」
眠そうな瞳にどこか期待の色を込め、怪しい言葉を宣うぷぅちゃん。
「…………は? いやいや、何を根拠にそんなこと————」
瞬間、会話を遮るように再度振るわれる凶器。
一体何処で調達したものなのか、大人の背丈程もある鉈が頭上から降ってきた。
「うおおッ!? あっぶねぇ!」
ゴロゴロと、まるでイモムシのように地面を転がり回避する。頭上を覆っていたいくつもの小枝はへし折られ、大小様々なそれらが降り注ぐ。焚き火は無惨に吹き飛ばされ、火花を散らして舞い上がる。鉈は地面にその半身を埋め、鋭い亀裂を作っている。だがそれでもまだ、俺はどうにか命を繋いでいた。
(…………あれ?)
そこでふと、違和感を感じた。
(…………なんでまだ生きてんだ?)
圧倒的格上の魔物に襲われ、気が動転していたからか。あるいは考えを巡らせる程の余裕もなかったからか。そんな当たり前のことにすら、今の今まで気づかなかった。そう、どう考えたっておかしい。あり得ないのだ。ゴブリン単体といい勝負をする程度の俺が、オーガの攻撃を二度も回避するなど。
今の一撃もそう。
本来であれば、攻撃の軌跡すら見えない筈で。それほどの力量差が、俺とオーガの間にはある。だが今、俺は確かに見てから避けた。初撃などより不可解だ。ぷぅちゃんの言葉こそあれど、あれは背後からの攻撃だった。
首筋に気配を感じた?
馬鹿を言うな。平和ボケした現代人の俺に、攻撃の気配など分かるはずがない。
では一体、何故?
よくよく考えてみれば、折れた左腕にも痛みがない。
少し前までは動かす度、刺すような鋭い痛みを訴えかけてきていたというのに。
自分の身に起きている、不可思議な出来事。
その正体もわからぬまま、敵を視界に捉える。オーガは未だ、武器を振り下ろしたままの状態で固まっていた。まるで世界が、景色が、魔物がゆっくりと動いているかのように。
(何だ、何が起こってる!?)
戸惑うように振り返れば、当たり前のように事の成り行きを見守るぷぅちゃん。そういえば、彼女は先ほど何と言っていただろうか。彼女には、今俺の身に起こっている異変に心当たりがあるのだろうか。疑問ばかりが脳裏に浮かぶが、しかし。
「何が何やらさっぱりだが…………でも、今は」
腰にぶら下げた剣を片手で引き抜く。
当然、俺に買える武器など程度が知れている。そこらの武器屋で投げ売りされている、ガラクタ寸前のなまくらだ。だが不思議と、イケるような気がした。普通に考えて倒せる相手じゃあない。根拠なんて何も無い。あるとすれば、つい先程出会ったばかりであるぷぅちゃんの言葉だけ。彼女が俺に何を見ているのかなど分からない。それでもきっと、彼女がそう言うのなら。
逡巡したのは何秒くらいだろうか。
どうせまともに相対出来る相手ではないのだ。失敗したところでただの予定調和。そう考えれば幾分気が楽になる。そうして腹を括り、足に力を込めて駆け出す。ヤニで体力が落ちているはずの身体は、驚くほどに軽かった。そうして疾走の勢いをそのままに、未だ妙にゆっくりとした動作で武器を引き抜く、そんなオーガの首筋へと剣を走らせる。技術もへったくれもない、ただ力任せなオッサンの一撃。
「うおおおおおッ!」
切れ味も、技術も、膂力も。
何もかもが足りないはずの一撃。そんなやぶれかぶれの一閃は、しかしあっさりとオーガの首に食い込んだ。手に伝わるのは肉を切り裂く独特な感覚。包丁で肉を切るのとはワケが違う。すぱりと切り飛ばせればよかったのだろうが、さすがにそこまで上手くはいかない。みちり、という嫌な音が耳に飛び込んできたと思った次の瞬間、オーガの首は宙を舞った。意外なほどにあっさりと。
「マジか……?」
べしゃりと音を立てながら、その場に崩折れるオーガの胴体。役目を終えたかのように、中程からへし折れる刃。ひとりでに震える自分の手。それらを交互に見つめたあと、ゆっくりとぷぅちゃんの方を振り返る。
「ないふぁい」
「…………」
「ね。にゃーはけっこうできるこ」
彼女は先ほどまでと変わらず、丸太の上にちょこんと腰掛けながら、足をぷらぷらと揺らしてそう言った。どうやら彼女にはこの画が見えていたらしい。当事者の俺ですら理解できない、信じられない、この戦果を。
「…………説明、お願いしていい?」
「?」
「いやかわいいけど、『?』ではなく」
小首を傾げるぷぅちゃんは大層かわいらしかったが、今はそれどころではない。もしこうなることをぷぅちゃんが予期していたのなら、彼女には何かが視えている筈なのだ。俺の知らない、俺の何かが。
ぷぅちゃんは僅かに考えるそぶりを見せた後、俺の問いかけにこう答えた。
「にゃーのちから。やにのかご」
「や、『闇の加護』……?」
いわゆる『チート能力』的な何かだろうか。
成程確かに、この世界に生きる者はそれぞれ、多かれ少なかれ特殊な能力を宿していると聞いている。もちろんそうした能力を持たない者もいるが、冒険者になろうなどと言う者は大抵が能力を持っているらしい。現代風に言うなら『スキル』とでも言ったところか。そして仔細は不明だが、どうやら俺にも隠された力があったらしい。おまけにそれは『闇の加護』などという、中学生が大喜びしそうな代物だそうだ。学生時代ならいざしらず、三十半ばのオッサンには少々恥ずかしい。
だがそう言われて『はいそうですか』とすぐに納得出来る筈もない。ここに至るまでの二か月間、そんな能力の存在は微塵も感じていない。もしそんな力が俺に宿っていたのなら、こうして行商の真似事などしていない。いないが、しかしたった今実際に体感したばかり。先程の不思議な現象、その理由がそうだといわれれば、ひとまずは信じる他無い。
掌を見つめ、再びぷぅちゃんを見つめる。
「それでその……どういう力なんだい? その『闇の加護』ってのは」
「ちがう。やみじゃなくて、やに」
「…………うん?」
「やにのかご。やにをいれるとつよくなる」
そう言うと、足元に転がっていた『めぷぅす』を指さすぷぅちゃん。
「…………え、闇じゃなくてヤニ? 『ヤニの加護』ってこと?」
「そう」
成程、思い返せばおかしな出来事はいくつもあった。
穴に落ちた後、最後の煙草に火を付けた時。
そして先程、『めぷぅす』を吸った時。いずれも骨折の痛みが、嘘のように消えていた。
そしてこちらの世界に来てからというもの、煙草をケチって生活してきた。戦闘時に吸うなど言語同断、俺が煙草を吸うのはいつも決まって宿の自室だった。故に気づかなかったのだ。自身に起きている変化に。ぷぅちゃんの話をまとめると、つまりはそういうことらしい。
「え、ダッサ…………っていうか人としてどうなのよ、その能力」
一字違いでエラい変り様であった。
正直『闇の加護』でも大分恥ずかしいが、『ヤニの加護』はそれ以上だった。そんな僅かに肩を落とす俺を見て、ぷぅちゃんは表情ひとつ変えずにこう告げた。
「おにあい」
「…………まぁそうね」
ぐうの音も出なかった。




