ビスカの空と、生存の重み
広場での待ち合わせを経て、
翌日の午後、マークとエルフの冒険者は
大通りに面した「冒険者用雑貨店」を訪れた。
雲一つない晴天だが、ビスカの空気は重く蒸し暑い。
店内に並ぶ煌びやかな剣や重厚な鎧を見ても、
マークのポケットにあるわずかな小遣いでは、
まともな武器など到底買えない。
どれを選べばいいのかも分からず、
ただ棚を眺めて立ち尽くしていた。
「迷っているの?」
背後から掛けられた声にマークが振り返ると、
彼女が穏やかな眼差しで立っていた。
マークは苦笑して答える。
「……姉ちゃん、値段が高すぎて、
今の僕には買えるものがないや」
彼女はマークの視線の先にある、一番安価なナイフを指さした。
「それ、皮を剥ぐのにも役立たないわ。
刃がすぐこぼれるし、研ぐのも時間の無駄よ」
彼女はマークの手を引き、武器コーナーから遠く離れた、
埃をかぶった薬品棚の方へ連れて行った。
「ねえ、冒険者が冒険で死ぬ理由を知ってる?」
「えっと……魔物に襲われるから、じゃないの?」
「うん。でも、それはあくまで死亡原因の一つに過ぎないわ」
彼女は棚から小瓶をいくつかと、乾燥したハーブの束を手に取った。
「戦うことだけが冒険じゃない。
汚れた水での食中毒、
野営中の小さな虫刺されからの感染症、
草木によるかぶれ、アレルギー反応……。
マーク、あなたは戦う前に、
こうした些細な『日常』で命を落とす可能性が高い」
彼女は真剣な眼差しで、それぞれの薬の使い方を教え始めた。
「これは浄化剤。
どんな水も飲めるようにする。
これとこれは虫よけ用のハーブ。
寝る前に寝具の周りに撒きなさい。
そしてこれが一番大事、傷口を消毒する薬よ」
マークは説明を聞きながら、必死にメモを取る手が震えた。
自分が夢見ていた冒険は、戦うことだけではなかったのだ。
この入念な準備こそが
冒険者の『日常』なのだと突きつけられる。
備品の数々はマークの予算を大きく超えていたが
彼女は足りない分を迷わず支払った。
袋を受け取ったマークが礼を言うと、彼女はフフフと笑った。
「私たちは一緒に冒険をする仲間なのよ。
全額経費で落とすこともできたけれど
初めて自分で備品を買い揃えるって特別なことでしょう?
形から入ることも大切だし
何より……自分で選んだ道具には愛着が芽生える」
買い物を終えて外に出ると
彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
露店の前でふと足を止め
数銅貨で売られている安物の木彫りの猫を見つめる。
長い時を生きる彼女にとって
冒険は繰り返される日常かもしれない。
それでもその瞳には、子供のような純粋な好奇心が宿っていた。
「ねえ、これ。可愛くない?」
さっきまで死と隣り合わせの知識を説いていた女性が
今度は子供のように木彫りの猫を手に取って首をかしげている。
そのアンバランスな姿に、マークは思わず苦笑した。
「……姉ちゃんは、そういう飾りが好きなの?」
「うん、好きよ。可愛いもの。
長く生きてると、こういう小さくて可愛いものにこそ
魂が宿っているような気がするの」
彼女は照れくさそうに木彫りの猫を棚に戻すと
すっと表情を落ち着かせた。
「準備はいい? 明日の朝、門の前で会いましょう」
「うん、よろしく頼みます」
彼女は顎に指を添え、小首をかしげた。
「姉ちゃんでもいいけれど、お互い自己紹介しない?」
マークはハッと気づく。
「そういや、名前を知らなかったな。
訊くタイミングを逃すと、あとで訊きづらくて・・・」
「ふふ、そういう時ってあるわね。
改めて、私はミリッサ・ティーナ。
友人たちからは『みっちょ』って呼ばれてるわ」
「僕はマーク。家名は無いから、ただのマークだ」
「これからよろしく、マーク」
「うん、よろしく、みっちょ」
日が少し傾き始めた空を背に
二人は自然と手を出し、固く握手を交わした。
一人残されたマークは、備品の入った袋を強く抱きしめた。
中にあるのは、泥臭い生存のための道具だけだ。
「死」という言葉は、まだどこか他人事な遠い世界の出来事に思える。
死にそうになったことも
誰かの死を目撃したこともないマークにとって
それはまだ実感を伴わない概念だった。
それでも、幼い頃から感じていた漠然とした不安が
具体的な『準備』へと変わっていた。
ビスカの空は昨日よりも少しだけ青く
どこまでも遠く澄んでいるような気がした。




