第9話 筆跡鑑定
静まり返った空気の中、最初に動き出したのはザグレイさんだった。
「皆様、これをご覧いただけますか?」
懐から一通の手紙が引き抜かれる。
「なんだ、それは?」
アランが不審そうに目を細める。
ジョンの視線も、どこか訝しげだった。
「先ほど、彼女の……ユキ様の部屋で拾ったものです」
ザグレイさんは手紙を広げ、文面を読み上げた。
そこに記されていた言葉は、ひどく短いものだった。
『話がしたい。出てきてくれないか?』
たったそれだけ。
わずか十数文字の言葉が、ぽつりと書き残されていた。
「なによ、それ」
アリスが激高した。
「そんな手紙で、あの子が部屋の扉を開けたって言うの!? それで、それで……殺されちゃったって、そう言いたいワケ!?」
「そうとしか思えんな」
「あり得ない!」
アリスが再び声を荒げる。
しかし。
「いいえ。十分にあり得る行動です」
アディが、アリスを鎮めるように口を開いた。
「こんなことが起きるなんて、誰にも予測できなかった。もちろん、あの子も同じです。だから、その程度の手紙で扉を開けたとしても、なんら不思議はありません」
「なによ、それ……」
納得できない。
そう言いたげに、アリスは長机に突っ伏した。
「ああ、しかしこれは参ったな」
レインの憂いが、僕には理解できた。
あの藁人形が今回の一件を予告していたのだとすれば。
藁人形の数は、全部で七体あった。
つまり犯人は、自分を除いた屋敷内の人間すべてを消し去るつもりでいるのだ。文字通り、この世から。
「まずは、これから始めましょうか」
レインは胸元から一枚の白紙を取り出し、ザグレイさんに目配せした。少しして、ザグレイさんが文具を持って戻ってくる。
羽根ペンだった。
「これより筆跡鑑定を行いたいと思います。皆様、ご協力願えますね?」
あくまでも任意。
そんな空気を漂わせてはいるものの、ザグレイさんの険しい表情からは、断ることを許さない圧が滲み出ていた。
拒めば、この場で斬り捨てられる。
そんな気分にさせられるほどだった。
「まずは、私から」
ザグレイさんは左腕の袖をまくり、例の文面を書き記した。そして拾った手紙と自分の書いた紙を、全員に見えるよう机上へ並べる。
「全然違うな。まったくの別人だ」
「アランの言う通りじゃな。こりゃあ別人の字じゃ」
僕の目から見ても、それは明らかに別人の筆跡だった。つまり、少なくともこの手紙を書いたのはザグレイさんではない、ということになる。
「じゃ、次はワシが」
そうして僕たちは、順番に白紙と羽根ペンを回していった。
「……誰とも一致しませんね」
そんなことがあり得るのか。
誰の筆跡とも一致しない。
「想定内ではありましたがね」
レインが言うので、僕は疑問を投げかけた。
「想定内、ですか?」
「仮に僕が犯人の立場なら、筆跡鑑定が行われることくらいは考えるよ。たとえば、誰かに頼んで事前に手紙を書いておいてもらうとかね」
「では、今の鑑定はなんのために?」
やや不満げに、アディが口を尖らせる。
レインは苦笑を浮かべながら肩を竦めた。
「念のため」
その言葉に、誰も反論しなかった。
「私、外に行ってくる。助けを呼んでくる!」
勢いよくアリスが立ち上がる。
しかし。
「それはなりません!」
ザグレイさんが厳しい声で諫めた。
その意見には僕も賛成だ。
犯人は、間違いなくこの七人の中にいる。
ということは、今も何らかの証拠を隠し持っている可能性がある。ここで外出を許可するということは、犯人に証拠隠滅の機会を与えるということだ。
僕がそう説明すると、アリスは「そんな」と呟き、再び項垂れた。そんなアリスの背を、アディが優しく撫で続けている。
彼女には感謝しなければならない。
アディの献身的な介抱がなければ、アリスはもっと取り乱していただろうから。
「次は屋敷内の探索だね」
レインが言った。
「七人を、三人と四人に分けよう」
その提案を受け、僕たちは二つのチームを作った。その際、僕はさりげなくレインとザグレイさんが別々の組になるよう誘導した。
レインの言葉を借りるなら、念のためというやつだ。
屋敷内の探索は、およそ二時間にも及んだ。
だが成果はなかった。
犯行に使われたと思しき道具も、血のついた衣服も、不審な痕跡も見つからない。結果として、僕たちは少し遅めの昼食を摂り、その後で休息を取ることになった。
「さすがに、精神的にきついな」
あのアランですら疲弊している様子だった。
ザグレイさんの表情にも、微かに疲れの色が浮かんでいる。
個人差こそあれ、全員が消耗していた。
そんな中、昼食はすべてザグレイさんの手作りだった。
申し訳ないとは思う。
けれど、僕たちはそれに甘えるしかなかった。
僕たちの中で料理を作れる人物は二人。
そのうちの一人は完全に憔悴しており、もう一人は、そんな彼女を献身的に介抱している。
「私が付いていてあげます。今日はもう寝ましょう」
アディが言うと、アリスは掠れた声で「うん」と頷いた。アディにも、昼食を摂る気力などないのだろう。
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「ワシらも少し休まないか?」
ジョンの提案を断る者はいなかった。
当然だ。朝からあんなものを見せられて、平気でいられる人間なんて――。
そこまで考えて、僕はふと思い至る。
いや、いる。
いるのだ。
たった一人だけ。
その人物は、さも疲弊しているかのような表情を浮かべている。さも驚いたかのように反応し、さも悲しんでいるかのように振る舞っている。
そうやって、僕たちの中に紛れ込んでいる。
裏の顔を悟られないよう、施錠付きの頑丈な仮面をかぶり、周囲に溶け込むようにして。
この中に潜んでいる。
この中に隠れている。
ユキをナイフで刺し殺した、張本人が――。
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