第八話 夜の森はうるさい
遠くで、また何かが鳴いた。
さっきより低い。
さっきより近い。
それだけで、焚き火のそばの空気が変わった。
俺は息を止めた。
アイドも口を閉じた。
リィナは、刃物を握り直した。
火が、ぱち、と鳴る。
水の音がする。
虫みたいな音もする。
けれど、その奥に、別の音が混じっていた。
草を踏む音。
枝をこする音。
何かが、こちらを避けずに近づいてくる音。
「……おっさん」
「おう」
「今の、聞こえた?」
「聞こえたねえ」
「聞こえなかったことにしない?」
「したいねえ」
「じゃあしよう」
「できたらな」
「できねえのかよ」
アイドは焚き火を見た。
次に、黒い森を見た。
いつもの軽い顔ではない。
その顔を見て、俺はさらに嫌になった。
おっさんが嫌そうな顔をする状況は、だいたい本当に嫌な状況だ。
リィナが、短く何かを言った。
「――!」
言葉は分からない。
でも、声の鋭さは分かった。
だめだ。
動くな。
もしくは、離れるな。
そのどれかだと思う。
リィナは焚き火を指さした。
次に、火の届かない黒い森を指さす。
そして、強く首を横に振った。
「……火のそばにいろってことか?」
「たぶんな」
「夜の森、火が安全圏?」
「ラノベ知識だと、だいたいそう」
「今だけ信用する」
「普段も信用しろ」
「普段は信用できること言ってないだろ」
「刺さるなあ、ニセ令和」
また、草が鳴った。
今度は、はっきり聞こえた。
何かがいる。
見えない。
けど、いる。
火の光が届かない、少し向こう。
黒い木々の間。
闇の中で、何かがこちらを見ている。
そんな気がした。
「火、弱くなってないか?」
「なってるな」
「まずくない?」
「まずいな」
「なんでそんな落ち着いてんだよ」
「焦って火が強くなるなら焦る」
「正論で冷静ぶるな」
焚き火は、さっきより小さくなっていた。
魚を焼いて、湯を沸かして、そのあとも何とか火を保っていた。
けれど、燃やせる枝は少ない。
俺たちの周りには、落ちた枝がいくらかある。
ただし、火のすぐそばにはもう少ない。
少し離れれば拾える。
少し離れれば。
その「少し」が、今はものすごく遠い。
「枝、いるよな」
「いる」
「取りに行く?」
「行きたくない」
「俺も行きたくない」
「じゃあ誰が行く」
「枝が来い」
「森にサービスを求めるな、二回目」
リィナが、俺たちを見た。
たぶん、会話の意味は分かっていない。
でも、俺たちがぐだぐだしていることは伝わったらしい。
彼女は足を動かそうとして、すぐに顔をしかめた。
布で固定した足は、やっぱり痛むらしい。
それでも、彼女は手を伸ばし、焚き火の近くに落ちていた細い枝を一本つかんだ。
火に近づける。
先端に火が移る。
それを、こちらに向けた。
「……火のついた枝?」
「だな」
リィナは火のついた枝を高く上げる仕草をした。
次に、森の方を指す。
それから、投げるような動きをして、すぐに首を横に振った。
「投げるなってことか?」
「たぶん」
「高く掲げる?」
「たぶん」
「たぶん多いな!」
「確定情報が少ないんだよ!」
リィナが苛立ったように、もう一度火の枝を高く掲げる仕草をした。
それから、俺を指さす。
次にアイドを指さす。
そして、火を指さす。
「俺たちが火を持つ?」
「そういうことだろ」
「火を怖がるやつってことか?」
「火を怖がらないタイプだったら?」
「泣く」
「作戦に泣きを入れるな」
アイドが火のそばにあった枝を取った。
先端を火に近づける。
じりじりと焦げたあと、小さな火が移った。
「持ったぞ」
「消すなよ」
「お前こそ消すなよ、ニセ令和」
「俺まだ持ってねえよ」
「じゃあ持て」
「命令すんなクソ昭和」
俺も、近くの枝を拾った。
枝と言っても、立派な武器になるようなものではない。
細い。
軽い。
頼りない。
でも、先端に火がつくと、少しだけ強くなった気がした。
気がしただけかもしれない。
火のついた枝を持った瞬間、熱が手に伝わってきた。
怖い。
熱い。
煙い。
重くはないのに、やたら手が震える。
俺は息を吐いた。
「……これ、落としたら終わる?」
「終わりはしない。たぶん」
「たぶんで命を支えるな」
「落とすな、ニセ令和」
「分かってるよ」
「震えてるぞ」
「震えてねえよ」
「火が震えてる」
「火のせいにすんな!」
そのとき。
闇の中で、何かが光った。
目だ。
二つ。
いや、四つ。
いや、もっとある。
火の光を反射しているのか、黒い森の中に小さな光がいくつも浮かんでいた。
「……おっさん」
「見えてる」
「何あれ」
「知らん」
「ラノベ知識」
「夜の森で目だけ光ってるやつは、だいたい嫌なやつだ」
「何の役にも立たねえのに説得力だけある!」
草の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
グリーンハゲではない。
たぶん、違う。
あいつらはもっとギャアギャアしていた。
今いるやつは、もっと低い。
もっと静か。
もっと、腹の底に響く感じがする。
四足歩行の何かだった。
犬、ではない。
狼、かもしれない。
でも俺は狼をちゃんと見たことがない。
だから、こうとしか言えない。
黒い犬みたいな、見たくないやつ。
そいつが、火の届かないぎりぎりの場所で、こちらを見ていた。
一匹ではない。
たぶん、三匹。
いや、もっといるかもしれない。
数えたくない。
「おい」
「何」
「これ、枝を取りに行くどころじゃなくない?」
「そうだな」
「火、増やせないじゃん」
「今ある火を、でかく見せるしかないな」
「どうやって」
「元気よく」
「精神論やめろ」
「昭和だからな」
「クソ昭和!」
リィナが、また短く叫んだ。
「――!」
彼女は火の枝を高く掲げる仕草をした。
もっと高く。
もっと大きく。
たぶん、火を見せろと言っている。
「上げろってさ」
「分かってる!」
俺は火のついた枝を持ち上げた。
熱い。
煙が顔にかかる。
目が痛い。
でも、下げるわけにはいかない。
黒い犬みたいな何かが、一歩近づいた。
焚き火の光に、体の輪郭が浮かぶ。
背が低い。
けど、横に長い。
口がでかい。
歯が見える。
見たくなかった。
「うわ、口」
「見るな」
「見えるだろ!」
「見ると怖いだろ」
「見なくても怖いわ!」
アイドも火の枝を掲げた。
おっさんの手も震えていた。
それを見て、少しだけ安心した。
この人も怖いんだな、と思ったからだ。
怖くない人間についていくより、怖がっているのに動く人間の方が、たぶん信用できる。
腹は立つけど。
「ニセ令和」
「何だよ」
「声出せ」
「は?」
「獣は大きい音を嫌がる。たぶん」
「またたぶん!」
「俺も出す。お前も出せ。リィナは足があれだ」
「何を叫ぶんだよ」
「何でもいい」
「何でもいいが一番困るんだよ!」
黒い犬みたいな何かが、また一歩近づいた。
その瞬間、アイドが腹から声を出した。
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
「うるさっ!?」
「お前も!」
「急に体育会系になるな!」
「いいから出せ!」
「くっそ!」
俺も叫んだ。
「来んなああああああああああ!!」
森に、自分の声が響いた。
情けない。
でも、声は出た。
「こっちはなあ! 水飲んで魚食って! やっと寝られるかと思ったんだよ!!」
「文句が具体的だな!」
「邪魔すんな! 犬っぽい何か!!」
「犬っぽい何かは悪口として弱いぞ!」
「名前知らねえんだよ!!」
アイドも叫ぶ。
「帰れええええええ!! こっちは火持ってるぞおおおお!!」
「脅し文句が弱い!」
「じゃあお前が考えろ!」
「燃やすぞゴラァ!!」
「強いな!」
「勢いだよ!」
リィナが、俺たちを見ていた。
目を丸くしている。
そりゃそうだろう。
知らない男二人が、火のついた枝を掲げて、夜の森で叫んでいる。
俺が現地人でも引く。
でも、黒い犬みたいな何かは、少し動きを止めた。
火が嫌なのか。
声が嫌なのか。
単に俺たちが気持ち悪いのか。
理由は分からない。
ただ、止まった。
「効いてる?」
「たぶん」
「たぶんが初めて希望に聞こえた」
「だろ?」
「調子に乗んな」
リィナが火の近くにあった枝を一本取った。
痛む足をかばいながら、上半身だけで動く。
枝を焚き火に押し込む。
火が少し大きくなった。
ぱちぱちと音が増える。
火の光が広がる。
黒い犬みたいな何かが、一歩下がった。
「下がった」
「下がったな」
「いける?」
「いけると思いたい」
「思いたいだけかよ」
「現実は願望から始まる」
「営業の標語みたいなこと言うな」
俺たちは火の枝を掲げたまま、焚き火のそばに立っていた。
アイド。
俺。
リィナ。
三人で、火を囲んでいる。
言葉は通じない。
作戦も雑。
武器は火のついた枝と、リィナの刃物だけ。
でも、少なくとも今は、同じ方向を見ていた。
黒い森の中。
光る目が、まだこちらを見ている。
勝ったわけではない。
追い払ったわけでもない。
ただ、火のそばにいる。
それだけが、今の俺たちにできる全部だった。
火が弱くなる。
枝を足す。
目が少し近づく。
火のついた枝を高く掲げる。
俺とアイドが声を出す。
すると、光る目はまた少し遠ざかった。
それを、何度も繰り返した。
熱い。
煙い。
怖い。
眠い。
人間は、一度にこんなにいろいろ耐えられるようにはできていないと思う。
なのに異世界は、雑に全部乗せてくる。
「腕が死ぬ」
「下ろすなよ、ニセ令和」
「分かってるよ、クソ昭和」
「分かってるなら震えるな」
「震えたくて震えてんじゃねえよ!」
アイドの手も震えていた。
まあ、当然だ。
四十六歳の元営業が、夜の森で火のついた枝を持ち、正体不明の獣とにらめっこしている。
震えない方がおかしい。
焚き火が弱くなると、リィナがすぐに気づいた。
怪我をした足を動かせないまま、近くの枝を引き寄せて火へ押し込む。
火が大きくなる。
光る目が下がる。
俺たちより、よほど役に立っていた。
「現地人つよい」
「現地人を便利ワードにするな」
「でも実際つよいだろ」
「それはそう」
時間が、やたら遅く流れた。
火が弱くなる。
枝を足す。
目が近づく。
火を掲げる。
声を出す。
また火が弱くなる。
終わりが見えない。
「寝るなよ」
「寝てねえよ」
「目が死んでるぞ」
「生きてるだけで褒めろ」
「えらいぞ、ニセ令和」
「急に褒めるな。気持ち悪い」
アイドが、俺の肩を軽く叩いた。
火の枝は下げないまま。
目も森から離さないまま。
「落とすな」
「分かってる」
「落としたら拾えばいい」
「どっちだよ」
「でも、落とすな」
「分かってるって」
たぶん、それは励ましだった。
雑で。
分かりにくくて。
腹の立つ言い方だったけど。
俺は枝を握り直した。
三人で夜を耐えた。
火を守った。
声を出した。
近づいてくる目を、何度も押し返した。
勝っている気はしなかった。
ただ、負けていないだけ。
いや、負けかけ続けているだけかもしれない。
それでも、まだ誰も噛まれていない。
それが今のところの成果だった。
どれくらい、そうしていただろう。
リィナが、ふいに空を見上げた。
それから森の奥へ顔を向け、耳を澄ませる。
俺とアイドも黙った。
水の音。
火の音。
虫みたいな音。
そして。
遠ざかっていく、草を踏む音。
光る目が、ひとつ。
またひとつと消えていった。
「……引いてる?」
「引いてるな」
「本当に?」
「今度はたぶんじゃない」
森の向こうが、わずかに白んでいた。
黒かった空が、変な灰色へ変わっていく。
木の輪郭が見える。
沢の水も、夜より少しだけ普通の水に見えた。
朝だった。
黒い犬みたいな何かは、もう見えない。
完全に去ったのか。
見えない場所へ移っただけなのか。
それは分からない。
でも、少なくとも今は、目が光っていなかった。
「……朝?」
「朝だな」
「生きてる?」
「生きてるな」
「俺、生きてた」
「おめでとう」
「軽いな」
「でも本当だろ」
俺はその場にへたり込んだ。
朝が来た。
ただ、それだけだった。
何かを倒したわけでもない。
勝ったわけでもない。
でも、三人とも生きている。
今は、それだけで十分すぎるくらいだった。




