第七話 道発見
三人で、最初の一歩を踏み出した。
道は、まだ見えなかった。
見えるのは、木と草と、また木だった。
リィナが指した方角へ、俺たちはゆっくり進む。
杖。
リィナの怪我をしていない脚。
俺たちの肩。
その順番で、少しずつ体を前へ運ぶ。
「右」
リィナが言った。
昨日まで意味の分からなかった音だ。
でも、今回は指した方向と一緒だった。
「いまの、右って意味だよな」
「おそらくな」
「おっさんも覚えた?」
「一度聞いた言葉を忘れるほど老いてない」
「昨日、忘れてたじゃん」
「昨日は状況が悪かった」
「言い訳」
俺たちは右へ曲がった。
正確には、リィナが示した右へ、三人がかりで向きを変えた。
これが思ったより難しい。
俺だけ先に向きを変えると、リィナの体がねじれる。
おっさんが遅れると、杖へ重さが集中する。
杖が滑れば、三人まとめて転ぶ。
「せーので曲がる?」
「誰が合図を出す」
「俺」
「なぜ」
「若いから」
「理由になってない」
「じゃあ、おっさん」
「俺が言っても、お前は先に動くだろ」
「偏見」
「さっき動いた」
「……じゃあリィナ」
俺はリィナを見る。
リィナは俺たちの会話を理解していない。
ただ、自分の名前が出たので顔を上げた。
「リィナ。曲がるとき、何か言って」
「日本語で頼むのか?」
「指で三、二、一ってやれば」
「数字が同じとは限らん」
「じゃあ、何でもいい。声を出したら動く」
俺は足元を指す。
曲がる方向を指す。
リィナが声を出したら、三人で向きを変える動きをしてみせる。
何度か繰り返すと、リィナは少し考えたあと、短い言葉を発した。
「いま?」
「たぶんな」
「行くよ」
三人で向きを変える。
今度は、さっきよりうまくいった。
リィナがもう一度、同じ言葉を言った。
「これ、合図?」
「そう決めたんだろう」
「覚えとこう」
「音は?」
「……何て言った?」
「もう忘れたのか」
「動く方に集中してたんだよ!」
リィナが、もう一度同じ言葉を言った。
今度は少しゆっくりだった。
「絶対、俺に呆れてる」
「言葉が通じなくても、態度は通じるからな」
「おっさんも同じだろ」
「俺は覚えた」
「じゃあ言ってみて」
おっさんが口を開く。
何も出てこない。
「覚えてねえじゃん!」
「発音を確認していた」
「言い訳ばっかだなあんた」
リィナが小さく息を吐いた。
その顔は、昨日より少しだけ分かりやすくなっていた。
怒っている。
たぶん。
森の中を進む。
朝の光は木々の上で止まり、地面まではあまり届かない。
足元には湿った葉が積もり、根があちこちから飛び出している。
リィナの杖が、地面を突く。
次に、怪我をしていない脚。
俺たちが合わせる。
一歩。
また一歩。
普通に歩くよりも遅い。
でも、昨日リィナを背負ったときとは違う。
重さを三人で分けている。
「おっさん、速い」
「お前が遅い」
「リィナに合わせてるんだよ」
「俺も合わせている」
「じゃあ何で肩引っ張られるの」
「お前が前へ出すぎるからだ」
「どっちだよ!」
リィナが足を止めた。
俺たちも止まる。
リィナは二人を交互に見た。
次に、自分の両肩を指す。
左右の手を、同じ高さにそろえる。
「肩の高さを合わせろって?」
「そう見える」
「おっさんが低くすればいい」
「お前が高いんだ」
「背が高いって言え」
「肩だけな」
「全体もだよ!」
俺は少し膝を曲げた。
リィナの腕が、さっきより安定する。
おっさんも姿勢を調整した。
「腰が痛い」
「まだ始まったばっかりだぞ」
「中腰は四十六歳に厳しい」
「さっき若者を便利に使った罰」
「役割分担だ」
「じゃあ、おっさんは腰痛担当」
「いらん担当を増やすな」
リィナが、また歩き始めた。
今度は肩の高さがそろっている。
少し楽になった。
俺たちは森の奥へ進んだ。
しばらくすると、甘い匂いがした。
昨日、嗅いだ匂いだった。
「止まって」
俺が言う。
おっさんも足を止める。
リィナが俺を見る。
「この匂い」
前方を指す。
大きな葉。
青い筋。
透明な液体。
昨日、喉が渇いて、危うく舐めそうになった植物だ。
「昨日のやつだな」
「だから舐めてないって」
「舌は出ていた」
「出てない!」
リィナの顔が変わった。
すぐに鼻と口を手で覆う。
杖の先で、その植物を指す。
首を強く横へ振った。
「やっぱり危ないんじゃん」
「近づくな、という意味だろうな」
「飲まなくてよかった」
「俺のおかげだ」
「俺も一応止まっただろ」
「止められたからな」
リィナは、青い筋の植物を大きく迂回する方向を指した。
俺たちも従う。
風が吹くたびに、甘い匂いが流れてくる。
腹が減っているせいか、昨日よりうまそうな匂いに感じた。
「これ、食べ物の匂いに似せてんのかな」
「虫か動物を寄せるのかもしれん」
「寄せたあと、どうするんだろ」
「試してみるか?」
「嫌だ」
「正しい判断だ」
植物から距離を取る。
リィナは何度も後ろを振り返った。
かなり危険なものらしい。
「昨日、あれの近くに結構いたんだけど」
「よく無事だったな」
「触ってないから」
「触ろうとしていた」
「確認しようとしただけ」
「異世界の植物を自分の皮膚で確認するな」
「もうしないよ」
「本当か?」
「たぶん」
俺は少し笑った。
昨日なら、ただ危ない植物だった。
今日は、リィナが危険だと教えてくれた。
おっさんが止めて。
リィナが避け方を示して。
俺が実際に体を動かす。
一人だったら、知らないまま近づいていたかもしれない。
三人でも、知らないものは多い。
ただ。
知らないことを、知らないまま踏む可能性は少し減っている。
森を進む。
杖の音。
葉を踏む音。
三人の呼吸。
しばらくすると、リィナの腕へ力が入るようになった。
俺の肩をつかむ指が強い。
怪我をした脚が、何度か地面へ触れている。
「休もう」
俺が言った。
「まだ早い」
おっさんが答える。
「リィナ、きつそう」
おっさんがリィナを見る。
顔。
腕。
脚。
「確かにな」
「じゃあ休む」
「お前が決めるのか」
「気づいた人が言えばいいだろ」
近くにあった太い木の根元へ、リィナを座らせる。
杖を横へ置く。
リィナは何かを言った。
首を横へ振る。
「まだ歩けるって?」
「そうかもしれん」
「でも休む」
俺は地面を指した。
次に、リィナの脚を指す。
座る仕草。
「少しだけ」
意味は伝わらない。
それでもリィナは、しばらく俺を見たあと、諦めたように息を吐いた。
「怒ってる?」
「自分で決めたかったんだろう」
「無理して倒れたら困る」
「正しい」
「じゃあ何で俺が悪いみたいになるんだよ」
「言い方だ」
「どう言えばよかった?」
「選ばせる」
「どうやって」
おっさんは地面を指した。
指を一本立てる。
次に、歩く仕草。
「少し休むか、歩き続けるか。二つ見せる」
「言葉が通じないのに?」
「それでも、自分で決められる形にはできる」
「先に言えよ」
「自分で気づく機会を与えた」
「性格悪いな」
「教育だ」
リィナは、俺たちの話を見ていた。
おっさんが今の二択を、もう一度仕草で見せる。
座る。
歩く。
どちらか。
リィナは少し考えたあと、地面を指した。
次に、指を一本立てた。
「一回だけ休む?」
「時間かもしれん」
「一分?」
「この世界に分があるか?」
「じゃあ、少し」
俺はリィナへうなずいた。
リィナも小さくうなずく。
「最初からこうすればよかった」
「お前は決めるのが早い」
「おっさんは遅い」
「考えている」
「考えてる間に、リィナ倒れるぞ」
「だから、お前が気づいて止めた」
おっさんは木の根元へ座った。
右脚を伸ばす。
「今日中に着くと思う?」
「リィナはそう言った」
「本当にそういう意味だったかな」
「分からん」
「三回くらい聞いたよな」
「同じ仕草が、同じ意味とは限らん」
「じゃあ、夕方まで歩いて着かなかったら?」
「また寝床を探す」
「火は?」
「ライターがある」
「食べ物は?」
「ない」
「水は?」
「ない」
「ないもの多すぎない?」
「だから人のいる場所へ向かっている」
喉は、もう少し渇いていた。
朝、水は飲んだ。
でも、持ち運ぶ容器がない。
リィナが何かを思い出したように、腰の袋を探る。
出てきたのは、丸めた大きな葉だった。
朝は気づかなかった。
何枚かを重ね、細い紐で縛ってある。
「何それ」
リィナは紐をほどいた。
葉を広げる。
中央が少しくぼむように折られている。
両端を重ね、また紐で縛る。
小さな器のような形になった。
「水入れ?」
「そうみたいだな」
「最初からあるじゃん!」
リィナが俺をにらむ。
「怒られた」
「本人も、いま作ったんだろ」
「でも水場を離れたあとじゃん」
「必要なときに作れると思っていたんじゃないか」
「水ないけど」
「次の水場を知っている可能性もある」
リィナは葉の器を腰へ下げた。
空だった。
「空なの?」
「次に水を見つけたら使うんだろ」
「希望だけ持ち歩く器だな」
少し休むと、リィナが杖を手に取った。
休憩は終わりらしい。
「もういいの?」
リィナはうなずく。
俺たちはもう一度、両側へ立った。
肩。
杖。
脚。
三人で歩き出す。
さっきより、少し動きが合っていた。
合図も覚えた。
たぶん。
リィナが声を出す。
三人で向きを変える。
「いまの、さっきの合図だよな」
「そうだ」
「おっさん、言ってみて」
「お前が言え」
「発音確認してる?」
「そうだ」
「覚えてないんだろ」
「お前もだろ」
「俺は聞けば分かる」
「それを覚えたとは言わん」
リィナが、またため息をついた。
「言葉が通じる前に、呆れられてるな」
「良い関係だ」
「どこが」
「感情は伝わっている」
「悪い感情だけな」
森の中は、似た景色が続いていた。
木。
草。
湿った土。
時々、見たことのない花。
同じところを回っているような気がする。
「本当に進んでる?」
「リィナが案内している」
「迷ってないかな」
「本人の顔を見ろ」
リィナは迷いなく前を指している。
周囲の木や地面も確認している。
何か目印があるらしい。
俺には、全部同じに見えた。
「分かる人には分かるんだな」
「この世界で生きてきた人間だからな」
「俺たちも、そのうち分かる?」
「生きていればな」
「またそれ」
「大事だぞ」
足元に、細い溝があった。
雨水が流れた跡。
そこを越えるとき、リィナの杖が滑った。
「うわっ」
体が俺の方へ傾く。
俺は肩を入れ、体重を受けた。
おっさんも反対側から支える。
三人とも転ばずに済んだ。
「大丈夫?」
リィナは息を止めている。
怪我をした脚が、少し地面へついたらしい。
俺はその場で止まった。
「休む?」
リィナは首を横へ振る。
「でも」
おっさんが俺の肩を軽く叩く。
「今度は選ばせろ」
俺は地面を指す。
歩く仕草。
二つの選択肢を見せる。
リィナは傷ついた脚へ触れた。
少し待つ。
それから、地面を指した。
「休むって」
「そうだな」
近くの倒木へ座らせる。
リィナは傷に巻いた布を確認した。
血はにじんでいない。
ただ、痛みは強いらしい。
「無理してるな」
「お前もな」
「俺は平気」
「肩が下がってるぞ」
「リィナを支えてるから」
「休憩を言い出したのは、リィナが疲れたからだけか?」
俺は黙った。
腕が重い。
肩も痛い。
喉も渇いている。
まだ歩ける。
でも、さっきより明らかに疲れていた。
「俺も、ちょっと疲れた」
「それでいい」
「何が」
「疲れた人間が、疲れたと言う。それだけだ」
「言ったら楽になる?」
「休める」
「おっさん、俺に言わせたかっただけ?」
「自分で認めないと、また意地を張る」
「昨日から、そればっかりだな」
「お前が張るからだ」
俺は倒木へ座った。
リィナの隣。
少し距離を空けて。
「おっさんは?」
「俺も休む」
「最初からそう言えよ」
「俺は見張りだ」
「座ってるじゃん」
「座って見張る」
森の音を聞く。
鳥。
虫。
葉。
遠くで、水のような音がした気がする。
「おっさん」
「何だ」
「水の音しない?」
おっさんも黙る。
耳を澄ませる。
「風じゃないか」
「でも、一定に聞こえる」
リィナが俺たちを見た。
俺は耳へ手を当てる。
音のする方向を指す。
「水?」
リィナは聞いた。
少しして、うなずいた。
リィナは進行方向とは少し外れた場所を指す。
次に、葉の器を指した。
「寄ってくれるって」
「ありがたいな」
「俺の耳、役に立った?」
「たまたまかもしれん」
「素直に褒めろよ!」
「よく気づいた」
「急に普通に言うな。怖い」
「面倒くさい若者だな」
休憩を終え、水の音がする方へ進んだ。
少し行くと、岩の間から細い水が流れていた。
沢と呼ぶほどではない。
地面から染み出した水が、小さな溝を作っている。
リィナが先に手を伸ばした。
匂いをかぐ。
指先を少し舐める。
周りを見る。
それから、俺たちへうなずいた。
「飲めるって」
「本人が安全確認したな」
「昨日は俺が実験台だったのに」
「信頼が進んだ証拠だ」
「俺の安全が軽かっただけじゃない?」
「それもある」
水を飲む。
冷たい。
葉の器にも水を入れる。
小さいので、三人分を長く持つには足りない。
それでも、何もないよりはましだった。
「これ、誰が持つ?」
リィナが自分の腰へつけた。
「案内役が持つって」
「お前に持たせるとこぼすからだろ」
「まだ何もしてないだろ」
「昨日、沢で魚を追って滑りかけた」
「見てたの?」
「見れば分かる」
再び歩く。
少しずつ、地面の様子が変わってきた。
草が減っている。
土が硬い。
木の間隔も、さっきまでより広い。
「何か違わない?」
「何が」
「地面」
おっさんが足元を見る。
靴の先で土をこする。
「踏み固められているな」
「人が通った?」
「獣かもしれん」
「すぐ希望を削るなよ」
「跡を見ろ」
地面に、くぼみがあった。
丸くない。
二つ並んでいる。
「蹄?」
「四本脚の跡だろうな」
「人じゃないじゃん」
「荷物を運ぶ動物かもしれん」
「急に希望戻すな」
「両方考えているだけだ」
さらに進む。
同じ幅の土が、前方へ続いている。
左右には草がある。
中央だけ、ほとんど生えていない。
「これ」
俺は足を止めた。
リィナも止まる。
おっさんが前へ出る。
少し先を見る。
土の帯は、木々の間を曲がりながら、ずっと奥まで続いていた。
「道?」
「道らしきものだな」
「また、らしき?」
「道だとしても、誰のための道かは分からん」
「リィナ」
俺は道を指した。
次に、地面へ描いた四角を思い出すように、両手で形を作る。
人がいる場所。
建物。
リィナは俺の仕草を見る。
道を見る。
それから、はっきりとうなずいた。
「道だ」
「そうらしいな」
「人がいる場所へ続いてる」
「そうらしい」
「もっと喜べよ!」
「安全が確認できていない」
「でも、森を抜ける可能性は上がっただろ」
「それはそうだ」
「よし!」
声が大きくなった。
鳥が一斉に飛び立つ。
「うるさい」
「ごめん」
リィナが道へ一歩出る。
杖で地面を確かめる。
左右を見る。
昨日までより、明らかに警戒していた。
「リィナ、怖がってない?」
「道には、使う者がいる」
「人がいるならいいだろ」
「いい人間とは限らん」
「おっさんまで」
「森の獣より、人間の方が話が通じる可能性はある」
「言葉、通じないけど」
「それでも、獣よりは交渉できる」
「おっさんの出番?」
「ようやくだ」
「まだ何もしてないのに得意げだな」
「交渉は、会う前から始まっている」
「どういうこと」
「こちらがどう見えるかだ」
おっさんは自分たちを見た。
土だらけの服。
疲れた顔。
武器なし。
怪我をした女の子を両側から支える男二人。
「怪しい?」
「かなりな」
「助けてるように見えない?」
「連れ去っているようにも見える」
「最悪じゃん!」
「だから、リィナを前に出す」
「怪我人なのに?」
「俺たちよりは、この世界の人間に見える」
リィナは、おっさんの話が分からない。
それでも、自分が指されたので顔を向ける。
おっさんは道を指す。
リィナを指す。
次に、自分たちは少し後ろへ下がる仕草。
リィナは考える。
それから、首を横へ振った。
「嫌だって」
「一人で前に出るのは危険だと考えたか」
「俺たちを信用してない?」
「逆だ」
「何が」
「俺たちを後ろへ残して、自分だけ誰かと接触するのを嫌がった」
「一緒に行くってこと?」
「そう見える」
俺は少し嬉しくなった。
「信用された?」
「必要な戦力だと思われただけかもしれん」
「そこは喜ばせろよ」
「結果は同じだ」
「なら信用でいいだろ」
俺たちは道の上へ出た。
森の中の細い道。
人が作ったものか。
獣が作ったものか。
まだ完全には分からない。
でも、リィナは知っている。
人がいる場所へ続いている。
三人で道の先を見る。
木々の間から、少しだけ明るい場所が見える。
「行こう」
俺が言う。
「またお前が決めるのか」
「リィナが案内して、おっさんが疑って、俺が進む」
「俺だけ役割が後ろ向きだな」
「交渉担当なんだろ」
「そうだ」
「人がいたら、ちゃんと何とかしてよ」
「言葉が通じなくてもか」
「元営業なんだろ」
「便利に使うな」
「ここまで俺を若さで使っただろ」
「なら、おあいこだ」
リィナが道の先を指す。
杖が土を突く。
俺たちは歩き始めた。
森の中で。
ようやく、道を見つけた。
その道が、俺たちを助けるのか。
別の問題へ連れていくのか。
それは、まだ分からなかった。




