第七話 名前は信用の入口
彼女が見せた足首は、赤く腫れていた。
血は止まっている。
傷も、見た限りでは深くない。
けれど、まともに歩ける状態ではなさそうだった。
傷は見せてくれた。
だからといって、触っていいとは限らない。
彼女の手には、まだ刃物がある。
俺たちと彼女の距離も、まだ少し遠い。
傷を見ていたアイドが、低い声で言った。
「布、いるな」
「俺のシャツか?」
「それしかないだろ」
「お前のは?」
「俺のはまだ社会性が残ってる」
「俺のにも残ってるわ」
「腹のあたりに?」
「刺さるなあ、ニセ令和」
「事実は刺さるんだよ、クソ昭和」
アイドはため息をついて、自分のシャツの裾をつまんだ。
「高かったんだけどな、これ」
「いくら?」
「セールで二千円」
「安いな」
「定価なら三千九百八十円だ」
「急に強くなるな」
「服の価値は定価で語れ」
「人生で初めて聞いたルールだよ」
アイドは、シャツの裾を少し裂いた。
布が破れる音が、夜の森の中でやけに大きく聞こえた。
彼女の肩が、びくりと震える。
刃物を握る手に、また力が入った。
アイドはすぐに布を地面に置いた。
そして、両手を上げる。
「取っていい。そっちで取っていい」
「通じないって」
「だから顔だ」
「顔で全部押し切ろうとすんな」
彼女はしばらく布を見ていた。
こちらを見る。
布を見る。
またこちらを見る。
それから、刃物を持ったまま、空いている方の手を伸ばした。
布を取る。
俺たちは動かなかった。
動いたら刺される気がしたからだ。
彼女は布を見たあと、自分の足に当てようとして、少し顔をしかめた。
巻きにくいらしい。
そりゃそうだ。
片手には刃物。
片足は痛い。
布はただのシャツの切れ端。
不便の三段重ねである。
「手伝った方がいいよな」
「だな」
「でも近づいたら刺されるよな」
「だな」
「どうすんだよ」
「交渉だな」
「営業か」
「営業だ」
アイドは、自分の胸に手を当てた。
「アイド」
次に、俺を指さす。
「セラノ」
「勝手に紹介すんな」
「名前は信用の入口だ」
「かっこよさげに言うな」
それから、彼女を指ささず、彼女の近くの地面を軽く指さした。
直接指を向けないようにしているらしい。
おっさん、そういうところは細かい。
彼女は、アイドを見た。
俺を見た。
そして、自分の胸に、そっと手を当てた。
「……リィナ」
小さな声だった。
言葉は分からない。
でも、それが名前らしいことだけは分かった。
「リィナ?」
俺が繰り返すと、彼女は少しだけ目を細めた。
怒ったのかと思った。
けど、違うらしい。
発音が違う、という顔だった。
「リーナ?」
彼女は首を横に振る。
「リィ……ナ?」
今度は、ほんの少しだけ反応がやわらいだ。
「お、近いか?」
「たぶん」
「たぶんで人の名前を持つな」
「お前が言うな、ニセ令和」
「俺の名前をたぶんで持ったやつが言うな!」
彼女――リィナ、たぶんリィナは、俺たちの言い合いを見ていた。
意味は分からないはずだ。
でも、何かは伝わったのかもしれない。
ほんの少しだけ、刃物の切っ先が下がった。
アイドはもう一度、自分の足を指さし、布を巻く仕草をした。
それから、リィナの足元に置かれた布を指さし、自分の胸に手を当てる。
手伝う。
そう伝えたいのだと思う。
リィナは迷っていた。
目はまだ警戒している。
でも、さっきほどではない。
やがて、彼女は刃物を完全には置かないまま、少しだけ体の向きを変えた。
足をこちらに向ける。
「……いいってことか?」
「そう見える」
「信じていい?」
「刺されたら俺も謝る」
「謝って済む位置にいろよ!」
俺とアイドは、ゆっくり近づいた。
リィナの手は刃物の近くにある。
俺の心臓は、かなりうるさい。
アイドが布を持ち、俺がリィナの足元に置いてあった枝を一本取った。
添え木になるかどうかは分からない。
でも、何もないよりはましだ。
「これ、固定ってことでいいのか?」
「たぶんな」
「さっきからたぶん医療じゃねえか」
「現場はいつだってたぶんで動く」
「怖いことを言うな」
アイドが、できるだけ傷に触れないように布を巻いた。
俺は枝を添える。
リィナが一瞬、痛そうに息を詰めた。
「ごめん」
通じないと分かっていても、言葉が出た。
リィナはこちらを見た。
意味は分かっていないかもしれない。
けれど、刺されはしなかった。
それだけで十分だった。
布で固定し終えると、アイドはすぐに手を離し、少し後ろへ下がった。
俺も慌てて下がる。
リィナは自分の足を見下ろした。
指先で布に触れる。
少し動かす。
顔をしかめる。
でも、悪くはなさそうだった。
「これで歩けるか?」
「すぐは無理だろ」
「だよな」
「まあ、今夜は動かない方がいい」
「森の夜を移動する勇気もないしな」
「勇気じゃない。無謀だ」
「急に大人ぶるな」
「四十六歳だぞ」
「年齢を便利に使うな」
リィナは刃物を手元に戻した。
でも、今度は刃先をこちらに向けなかった。
地面に置いた。
手は届く。
でも、向けてはいない。
たぶん、それも進歩だった。
そのとき。
遠くで、何かが鳴いた。
さっきより低い。
さっきより近い。
鳥ではない。
たぶん、虫でもない。
俺は思わず焚き火の向こうを見た。
黒い森。
火の光が届かない場所。
そこに、何かがいるかもしれない。
何もいないかもしれない。
どちらにしても、怖い。
「……今の、何?」
「知らん」
「ラノベ知識は?」
「夜の森で知らない声がしたら、だいたい嫌なやつだ」
「信用できねえのに説得力だけあるのやめろ」
リィナはすぐに、地面の刃物を拾い上げた。
言葉は通じない。
でも、今の声が良くないものだということは、彼女にも分かっているらしい。
刃物を握る手に、また力が入っている。
俺たちは、しばらく何も言わなかった。
おっさんが火に枝を足した。
ぱち、と火が鳴る。
水の音。
虫の音。
遠くの何かの気配。
三人で、焚き火のそばに座っていた。
リィナは仲間ではない。
友達でもない。
もちろん、ヒロインでもない。
俺たちも、彼女にとっては怪しい男二人だ。
それでも。
今夜だけは、同じ火のそばにいる。
敵ではない。
たぶん。




