第六話 刃物の距離
森の夜は、思っていたより黒かった。
暗い、ではない。
黒い。
木も、草も、地面も、空も、全部まとめて黒い。
焚き火の周りだけが、かろうじて世界として残っている。
それ以外は、もう何がいるのか分からない。
水の音がする。
虫みたいな音もする。
たまに、遠くで何かが鳴く。
何か、だ。
鳥かもしれない。
獣かもしれない。
グリーンハゲかもしれない。
知りたくない。
俺は目をこすりながら、体を起こした。
おっさん――アイドマコトは、焚き火のそばに座っていた。
手には拾った枝。
火が弱くなりすぎないように、時々つついている。
その向こう側に、彼女がいた。
ヒロインではない女の人。
泥だらけ。
髪はぐしゃぐしゃ。
片足をかばっている。
そして、刃物はまだ手の届くところに置いている。
信用はされていない。
ただ、さっきよりは近い。
同じ火に当たっている。
同じ水を飲んだ。
同じ魚を食べた。
それだけで仲間になれるほど、この世界は甘くないらしい。
まあ、現実でもたぶん無理だ。
「足、まだ痛そうだな」
「だな」
彼女は膝を抱えるようにして座っていた。
痛むのは右足らしい。
足首なのか、すねなのか、傷なのか、打ったのか。
分からない。
分からないことだらけだ。
アイドは、自分の足を指さした。
それから、彼女の足を指さす。
そして、少し大げさに顔をしかめた。
「痛い。足。見る。大丈夫」
「単語が雑」
「通じるかどうかは、単語より顔だ」
「その理論で仕事してたの怖すぎるだろ」
「営業は顔と腰と謝罪でできている」
「絶対に違う」
彼女は、アイドの動きをじっと見ていた。
警戒している。
ものすごく警戒している。
アイドが一歩近づこうとした瞬間、彼女の手が刃物に伸びた。
早かった。
さっきまで怪我人っぽく座っていたのに、刃物だけは迷わず持つ。
切っ先が、焚き火の光を拾って鈍く光った。
「はいストップ」
「止まったよ」
「刺される寸前だったぞ」
「寸前で止まれたから偉い」
「自分を褒めるな」
アイドは両手を上げた。
敵意はない、という形。
たぶん。
彼女は刃物をこちらに向けたまま、じっと睨んでいる。
その目を見て、俺は少しだけ納得した。
そりゃそうだ。
知らない森で。
怪我をして。
知らない男二人が近づいてくる。
怖いに決まっている。
「……無理に近づかない方がいいな」
「だな」
「でも放っとくのもまずい」
「そこなんだよなあ」
アイドは頭をかいた。
さっきまでの軽口とは違って、少しだけ困った顔をしている。
営業スマイルではない。
普通に、どうしたものか分からない顔だ。
「医者じゃないしな、俺たち」
「俺も保健体育で止まってる」
「俺も営業先で頭下げる応急処置しか知らん」
「それ心の怪我にも効かなそう」
「効かないから何回も謝るんだ」
「悲しい話を混ぜるな」
彼女が、俺たちを見ている。
言葉は通じない。
でも、たぶん分かっている。
こっちが何かをしたがっていること。
けれど、近づきすぎると危ないこと。
少なくとも、刃物を握る手はまだ緩んでいない。
「じゃあ、絵だな」
「絵?」
「地面に描く。足。痛い。見る。包む。こう、順番に」
「お前、絵うまいの?」
「普通」
「普通って言うやつの普通は信用できない」
「うるせえな。じゃあクソ昭和が描けよ」
「俺は営業資料なら描ける」
「人体を営業資料にするな」
俺は近くの細い枝を拾った。
焚き火の光が届く地面に、まず丸を描く。
頭。
線を引く。
体。
左右に棒。
足。
人間。
の、つもりだった。
「……呪いの人形?」
「人間だよ」
「ずいぶん苦しんでるな」
「黙れ。文明がないと絵も難しいんだよ」
「文明のせいにするな」
彼女が、地面の絵を見た。
そして、ほんの少しだけ眉を寄せた。
やめろ。
そんな顔をするな。
こっちだってうまいとは思っていない。
俺は人間らしきものの足を指さした。
次に、彼女の足を指さす。
それから、自分の手で布を巻くような動きをした。
「足。痛い。包む。分かる?」
「日本語で押すな」
「顔だろ。単語より顔なんだろ」
「俺の理論を雑に使うな」
彼女はしばらく黙っていた。
火が、ぱち、と音を立てる。
水の音がする。
遠くで、また何かが鳴いた。
彼女は刃物から手を離さなかった。
でも。
ゆっくりと、自分の足を指さした。
それから、少しだけ服の裾をめくる。
傷が見えた。
足首の少し上。
大きくはない。
けれど、赤く腫れている。
血は止まっているように見えるが、歩ける状態ではなさそうだった。
「……うわ」
「声を出すな、ニセ令和」
「出るだろ、これは」
「出るけど飲め」
「無茶言うな」
彼女は俺たちを睨んでいた。
怖い。
でも、足を見せた。
それは、たぶん、ほんの少しだけ前に進んだということだ。




