第四話 火を分けても、まだ他人
低い唸り声が、もう一度聞こえた。
茂みの向こう。
さっきより近い。
「何がいる?」
俺が小声で聞く。
「見えん」
リィナが俺たちを振り返った。
唇へ指を当てる。
枝が揺れた。
黒い鼻先が、葉の間から現れる。
続いて、細長い顔。
狼に似ていた。
ただし、俺の知っている狼より一回り大きい。
背中の毛は黒く、腹の辺りは灰色。
額から後頭部にかけて、硬そうな突起が並んでいた。
口が開く。
牙が見えた。
「……犬?」
「飼い主を呼んでみろ」
「いないだろ」
「なら狼だ」
「判定が雑!」
狼は、沢の向こう側へ姿を現した。
一匹。
三メートルほど奥から、もう一匹。
「何匹いる?」
「見えているのは二匹」
「見えてないのは?」
「知らん」
「本当に役に立たねえ!」
「正確な情報だ」
狼の一匹が沢へ近づいた。
水を飲みに来たわけではなさそうだった。
狼は、俺たちではなくリィナを見ていた。
立てないやつから食うつもりらしい。
リィナが刃物を前へ突き出す。
何かを叫んだ。
狼は止まらない。
水の中へ前脚を入れた。
「おっさん」
「分かってる」
「どうする?」
「逃げる」
「リィナは?」
「歩けん」
「じゃあ逃げられないだろ!」
「だから困ってる」
俺は周りを見た。
棒。
石。
水。
木。
武器になりそうなものは、それくらいしかない。
「石投げる?」
「怒らせるだけかもしれん」
「棒で殴る?」
「近づく必要がある」
「じゃあ、おっさんが話し合って」
「営業先に獣は含まれてない」
「使えねえ!」
「お前も歌しか覚えてないだろ!」
狼が水を蹴った。
飛沫が上がる。
リィナが刃物を振る。
届かない。
狼は一度だけ後ろへ下がったが、すぐに低い姿勢へ戻った。
遊んでいるようにも見えた。
相手がどれだけ動けるのか、試している?
俺は足元の石を拾った。
「待て」
おっさんが俺の腕をつかむ。
「何だよ!」
「火だ」
「は?」
「火を嫌う動物は多い」
「火なんかないだろ」
「ある」
おっさんがポケットへ手を入れた。
取り出したのは、銀色のライターだった。
「持ってたの!?」
「営業には火が必要な場面があった」
「煙草吸う相手に貸すため?」
「それもある」
「健康に悪い営業してんな!」
「いまは命にいいかもしれん」
おっさんはライターをつけた。
小さな炎が出る。
沢の向こうにいる狼は、何の反応も示さなかった。
「小さくない?」
「見れば分かる」
「もっと大きくしろよ!」
「ライターに無茶を言うな!」
火をつけるものが必要だ。
俺は周囲を見た。
沢の近くは湿っている。
落ち葉も、枝も、触ると冷たい。
「燃えそうなもの!」
「乾いた葉と、細い枝!」
「どこ!」
「水辺から離れろ!」
俺は立ち上がった。
狼がこちらを見る。
「セラノ!」
リィナが俺の名前を呼んだ。
言葉は分からない。
でも、動くなと言われているのは分かった。
「大丈夫!」
大丈夫ではない。
それでも、俺は沢から離れた。
木の根元。
倒れた幹の下。
雨が降っても濡れにくそうな場所へ手を入れる。
乾いた葉があった。
その下には、細い枝もたまっている。
両腕で抱え、沢へ戻る。
うわ! 虫! キモい!
いやそんな場合じゃない!
「これ!」
「もっと細いものは?」
「注文多いな!」
「いきなり太い枝に火はつかん!」
俺は枯れ葉を地面へ置いた。
手で揉む。
細かくする。
おっさんがライターの火を近づけた。
葉の端が黒くなる。
煙が上がる。
消えた。
「消えた!」
「急かすな!」
「狼に言え!」
沢の向こうで、水が大きく跳ねた。
狼が、また一歩近づいている。
リィナが声を上げ、刃物で水面を叩いた。
二匹目も、沢へ足を入れる。
「早く!」
「分かってる!」
おっさんがもう一度、火をつける。
枯れ葉の塊を少し持ち上げた。
下から空気が入るようにする。
炎が葉へ移った。
小さい。
揺れている。
「枝!」
細い枝を数本置く。
火が弱くなる。
「一気に乗せるな!」
「じゃあどうすんだよ!」
「一本ずつだ!」
「最初から言え!」
枝を外す。
炎が戻る。
もう一度、今度はもっと細いものを乗せる。
ぱち、と音がした。
火が枝へ移る。
俺たちは細い枝を追加した。
少しずつ。
炎が大きくなる。
煙も増える。
リィナがこちらを見た。
目が、火へ向いている。
驚いているように見えた。
「リィナ、火!」
俺は火を指した。
次に狼を指す。
両手を広げ、追い払う動きをした。
「伝わる?」
「お前の踊りが奇妙だということは伝わる」
「踊ってねえ!」
リィナは俺たちを見た。
次に、腰の小さな袋へ手を伸ばす。
何かを取り出した。
乾いた草の束だった。
細く裂かれ、丸められている。
「持ってるじゃん!」
「火をつけるためのものか?」
リィナは草の束を、俺たちの方へ投げた。
俺が受け取る。
完全に乾いていた。
「これ使えって」
「見れば分かる!」
「本当に?」
「それをほぐせ!」
俺は草の束を火のそばへ置いた。
少しだけほぐす。
炎が一気に広がった。
「うわっ!」
「離せ!」
俺は手を放した。
乾いた草が勢いよく燃える。
火が大きくなる。
狼たちが動きを止め、耳を伏せた。
唸り声が低くなる。
「効いてる?」
「まだ分からん」
「じゃあ、見せる!」
俺は燃えている草の端へ、長めの枝を差し込んだ。
火が枝先へ移る。
即席の松明。
と言うには、かなり頼りない。
でも、ライターよりは大きい。
「それ持って近づくなよ」
「近づかない」
「投げるなよ」
「投げない」
「振り回すな」
「じゃあ何に使うんだよ!」
「見せるだけだ!」
俺は枝を両手で持ち上げた。
狼へ向ける。
「ほら! 火だぞ!」
当然、言葉は通じない。
それでも叫ぶ。
「熱いぞ! たぶん!」
「最後で弱くなるな!」
狼の一匹が身を引いた。
二匹目も、水から前脚を出す。
リィナが、その隙を逃さなかった。
刃物で水面を強く叩き、大声を出す。
俺も燃える枝を左右へ動かした。
おっさんは火へ枝を足しながら、低い声を出した。
「大きく見せろ!」
「どうやって!」
「腕を広げろ! 人数が多いと思わせろ!」
「三人しかいないだろ!」
「向こうは数を数えん!」
「本当かよ!」
「狼に聞け!」
俺は片手に燃える枝を持ち、もう片方の腕を広げた。
おっさんも立ち上がり、上着を左右へ広げる。
「おっさん、何それ」
「大きく見せてる」
「腹が目立ってる!」
「やかましい!」
リィナが俺たちを見る。
一瞬、何をしているのか分からないような顔をした。
それでもすぐに、刃物を持った腕を高く上げた。
三人で、大きく見せる。
狼の一匹が後ろへ下がった。
もう一匹も、それに続く。
茂みの奥で、別の影が動いた。
三匹目がいたらしい。
そいつも姿を見せずに離れていく。
唸り声が遠ざかった。
枝が揺れる。
しばらくして、何も聞こえなくなった。
「……行った?」
「まだ動くな」
俺たちは、そのまま待った。
火の音。
沢の音。
風で葉が揺れる音。
狼の声は戻ってこない。
リィナが、ゆっくり刃物を下ろした。
俺も燃える枝を地面へ近づける。
「勝った?」
「追い払っただけだ」
「同じじゃない?」
「違う。また来るかもしれん」
「おっさん、勝った気分に水差すの好きだな」
「油断して食われるよりいい」
腕の力が抜けた。
燃える枝を火のそばへ置く。
途端に、脚が震えた。
走った疲れ。
水場まで歩いた疲れ。
狼を前にした怖さ。
全部が一度に戻ってくる。
俺はその場へ座り込んだ。
「疲れた」
「まだ早いぞ」
「何が」
「日が暮れる」
おっさんが空を見上げた。
木々の間から見える光は、少し赤くなっている。
「もう?」
「時間の感覚が分からん」
「さっき起きたばっかりじゃなかった?」
「空から見れば、そうでもないらしい」
リィナは火ではなく、おっさんの指先を見ていた。
火が消え、また出る。
そのたびに目が動く。
おっさんがライターを持ち上げる。
リィナの目がそちらへ動く。
「珍しいみたい」
「火を知らないわけではないだろ」
「さっき、火をつける草を持ってたし」
「火を簡単に出す道具が珍しいんだろう」
おっさんはライターを一度つけた。
炎が出る。
消す。
もう一度つける。
リィナが少し身を乗り出した。
「貸すの?」
「まだ貸さない」
「さっきスマホは渡したのに?」
「スマホは使い方が分からなければ板だ。これは使い方を間違えると火事になる」
「森で火事になったら終わるな」
「俺たちも、向こうもな」
リィナが手を差し出した。
ライターを求めているように見える。
おっさんは首を横に振った。
火を指す。
次に、地面を指す。
周りを囲むような仕草をする。
「何を伝えてるの?」
「火を広げない方法を教えてくれ、と」
「伝わる?」
「期待している」
「営業が急に運任せになった」
リィナは少し考えた。
それから、刃物を使って火の周りの草を刈り始めた。
怪我をした脚を動かさず、手の届く範囲だけ。
「伝わった」
「火の周りを片づけろ、くらいは共通らしいな」
「リィナ、火の扱い分かるんだ」
「現地人だからな」
「その言い方、俺たちが観光客みたい」
「遭難客だ」
「嫌な客だな」
俺は立ち上がった。
リィナだけにやらせるわけにはいかない。
火の周囲にある枯れ葉や草を手でどける。
おっさんも、少し離れた場所から石を集め始めた。
「おっさん、膝は?」
「動けるうちに動く」
「無理すんなよ」
「さっきまで走らせておいて、いまさらか」
「生き延びたから心配する余裕ができた」
三人で火の周りを片づけた。
言葉は通じない。
でも、何をすればいいのかは分かる。
リィナが地面を指す。
俺が枯れ葉をどける。
おっさんが石を置く。
火の周りに、小さな輪ができた。
火を確保すると、次に腹が鳴った。
俺の腹だった。
静かな沢に、情けない音が響く。
リィナが俺を見る。
「違う」
「何が違う」
「俺じゃない」
「いま鳴っただろ」
「異世界の鳥」
「めずらしい鳴き声だな」
今度は、おっさんの腹が鳴った。
「鳥」
「おっさんもかよ!」
「群れだな」
「そんな鳥いねーよ!」
リィナが俺たちを交互に見る。
少しして。
リィナの腹も、小さく鳴った。
三人とも黙る。
俺はリィナを指した。
「鳥」
リィナには意味が分からない。
それでも、俺たちの顔を見て、自分の腹へ手を当てた。
恥ずかしそうに目をそらす。
「腹は共通語だな」
リィナは腰の袋を探った。
俺たちは黙って見た。
小さな包みが出てくる。
布を開く。
中には、乾燥した木の実のようなものが入っていた。
「食べ物?」
「そう見える」
リィナは一つ口へ入れた。
噛む。
飲み込む。
リィナは木の実を二つ手に取った。
一つを俺へ。
一つをおっさんへ差し出す。
「くれるって」
「見れば分かる」
俺は受け取ろうと手を伸ばした。
その直前で止める。
「何だ」
「これ、本当に食べられる?」
「本人が食べた」
「体が同じとは限らないって言ったのおっさんだろ」
「覚えていたか」
「都合の悪いことだけ忘れると思うな」
俺は木の実を見る。
茶色い。
少し平たい。
匂いは、ナッツに近い。
リィナが首を傾げる。
「少しだけ食べる」
「慎重になったな」
「成長した」
「数時間で?」
「……三日合わざれば、だっけ?」
「一日も経ってない」
端を少しだけかじる。
硬い。
苦い。
でも、食べ物の味がする。
「どうだ?」
おっさんが聞く。
「食える」
「安全か?」
「分からないならおっさんも食えよ」
「お前が倒れないか見てから」
「また実験台にする気だな!」
リィナは俺たちのやり取りを見た。
それから、自分の木の実をもう一つ食べる。
大丈夫だと言いたいのかもしれない。
「リィナが食べてる」
「分かった」
おっさんも木の実を口へ入れた。
「苦くて美味い」
「おっさんくさいな」
木の実は、一人二つずつだった。
腹が満たされる量ではない。
でも、何もないよりはましだった。
「ほかに食べ物ないかな」
俺は沢を見る。
水の中を、小さな影が動いた。
「魚」
「捕れるのか」
「分からない」
「歌で呼び寄せろ」
「寄ってくるわけない」
俺は沢へ近づいた。
水は浅い。
膝より下くらい。
透明なので、底まで見える。
小さな魚が、岩陰へ入っていく。
「手で捕れるかな」
「無理だろー」
「やってみないと分からない」
「若者らしい無謀さだ」
「おっさんは見てろ」
靴を脱ぐ。
靴下も脱ぐ。
水へ足を入れる。
「冷たっ!」
「大声を出すと逃げるぞ」
「そうなの?」
「当たり前だ」
俺は動きを止めた。
魚を探す。
岩の影。
水草の間。
一匹、見つける。
両手で囲うように近づく。
魚が動く。
俺も動く。
魚は一瞬で消えた。
「速い!」
「魚だからな」
もう一匹。
今度はゆっくり近づく。
手を水の中へ入れる。
魚がこちらへ来るのを待つ。
近い。
両手を閉じる。
水だけが残った。
「惜しい」
「見えてないのに言うな!」
「励ましている」
「嘘つけ!」
俺は何度か挑戦した。
一度も捕れない。
足だけが冷えていく。
「無理!」
「早いな」
「おっさんがやれよ」
「俺は膝を痛めている」
「都合のいい時だけ痛む膝だな!」
岸へ戻ろうとしたとき、リィナが声を出した。
「セラノ」
振り返る。
リィナが手招きしている。
俺は沢から上がった。
リィナは近くに生えていた、細長い葉を指した。
葉を何枚か切り、手の中で揉む。
次に、それを沢へ入れる仕草をした。
「何してる?」
「分からんが」
おっさんも見ている。
リィナは葉を揉み、水へ落とす仕草をした。
リィナから葉を受け取り、沢に浸ける。
少しすると、魚が岩陰から出てきた。
泳ぎが遅い。
水面近くへ上がってくる。
「何これ」
「葉の成分が効いているのかもしれん」
「毒?」
「魚にはな」
俺はもう一度沢へ入り、魚へゆっくり手を伸ばした。
今度は、手の中に感触があった。
捕まえた!
まず一匹、岸へ投げた。
もう一匹。
動きが鈍くなった魚だけを選んだ。
俺は三匹捕ると、沢から岸に上がろうとした。
リィナが先ほどの草を振っている。
返したらいいのか?
手に残った葉をリィナに渡す。
「水に葉も残さない」
「この場所を使い慣れているのかもしれんな」
リィナは魚を指した。
次に火を指す。
「焼けって」
「それは分かる」
「おっさん、魚さばける?」
「お前は?」
「できない」
「俺も本格的にはない」
「元営業、魚さばけないの?」
「職業が違う!」
リィナが刃物を取り出した。
魚の腹を手早く開く。
内臓を取り出す。
沢から少し離れた場所へ運び、土を掘って埋める。
俺とおっさんは黙って見た。
「次、やってみる」
「チャレンジャーだな」
リィナはさすがに刃物は貸してくれなかった。
仕方なく家の鍵を魚の腹へ差し込む。滑る。生臭い。腹から出てきたものは、あまり見ていたくない。
どうにか内臓をかき出して見せると、リィナがうなずいた。
成功らしい。二度とやりたくないけど。
リィナは魚を受け取ると、すでに用意していた枝に魚を刺した。
リィナが魚を火へ近づける。
少し離し、時々向きを変える。
火の強さも見ている。
「おっさん」
「何だ」
「枝、足して」
「命令か」
「魚焦げる」
「そういうことなら仕方ない」
おっさんは細い枝を火へ入れた。
俺は魚の向きを変える。
リィナが俺の手を軽く叩いた。
「何?」
リィナは魚を指す。
俺の持っている枝を少し上へ動かした。
火から遠ざける。
「おこられた」
「師匠のやることをちゃんと見とけ」
「いま分かったんだよ!」
魚の焼ける匂いがした。
腹が、また鳴る。
今度は誰も鳥だとは言わなかった。
三人で火を囲む。
言葉は通じない。
名前しか分からない。
それでも。
俺一人なら、魚を追い回して足を冷やしただけ。
おっさんは火をつけられても、食うものがない。
リィナは怪我をして、狼に囲まれていた。
三人なら、魚が焼ける。
やがて、リィナが魚を火から離した。
一本を俺へ渡す。
もう一本をおっさんへ。
最後の一本を自分で持つ。
「いただきます」
俺は手を合わせた。
「急に日本文化を持ち込むな」
「食べ物には感謝するだろ」
「……それはそうだな」
おっさんも小さく手を合わせる。
リィナが俺たちを見る。
首を傾げる。
俺は魚を指し、手を合わせる。
「いただきます」
リィナは少し考えたあと、同じように手を合わせた。
「覚えた」
「意味は分かってないぞ」
「形から入るのも大事」
「営業みたいなことを言うな」
魚へ口をつける。
「熱っ!」
「当たり前だ」
「先に言え!」
「火で焼いたんだぞ」
ふうふうと息を吹きかける。
もう一度かじる。
塩はない。
少し泥臭い。
小骨も多い。
それでも、うまかった。
腹が減っていると、焼いただけの魚でも驚くほどうまい。
「うまい」
「そうだな」
おっさんも魚を食べている。
リィナも、小さく口へ運んだ。
少しだけ表情が緩む。
「リィナも、うまいって顔してる」
「人間なら、うまいものを食えば似た顔になる」
「同じ人間かな」
「少なくとも魚は食える」
「判断基準そこ?」
「大事だぞ。食卓を囲める相手かどうかは」
おっさんは、魚を食べながらリィナを見た。
リィナは気づき、少しだけ眉を寄せる。
「見すぎ」
「観察してる」
「営業の?」
「人間の」
「怖いな」
「お前は見なさすぎだ」
「見てるよ」
「怪我をした女の子。魚が捕れる。刃物を使える。森に詳しい。それ以外は?」
「名前はリィナ」
「それは聞いた」
「警戒心が強い」
「俺たちが怪しいからな」
「痛くても我慢する」
「そうだな」
「あと」
俺は少し考えた。
リィナは魚を小さく分けて食べている。
自分の分を急いで食べない。
火の向こう。
森の方へ、時々視線を向けている。
「俺たちより、周りを見てる」
おっさんもリィナを見る。
「そうだな」
「まだ何か来ると思ってる?」
「この森では、火を焚いても安全とは限らん」
「じゃあ、食べ終わったら移動する?」
おっさんは空を見上げた。
赤みが強くなっている。
森の影も濃くなってきた。
「夜に動く方が危険かもしれん」
「じゃあ、ここで寝る?」
「水はある。火もある」
「狼も来る」
「それは問題だ」
「リィナはどうするんだろ」
俺たちはリィナを見た。
リィナも、こちらを見た。
「夜」
俺は空を指した。
目を閉じ、両手を頬の横へ置く。
寝る仕草。
次に地面を指す。
「ここで寝る?」
少し考えたあと、首を横に振った。
「駄目って」
「やっぱりな」
リィナは森の奥を指した。
次に、自分の胸を指す。
指で歩く動きをする。
「移動したい?」
「そう見える」
「でも脚は?」
リィナは立ち上がろうとした。
岩へ手をつく。
怪我をしていない脚へ力を入れる。
腰が上がる。
傷ついた脚が地面へ触れた。
顔が歪む。
すぐに座り込んだ。
「無理だろ」
俺は立ち上がった。
リィナが剣へ手を伸ばす。
すぐに止まった。
俺を見る。
「何もしない」
俺は両手を見せた。
自分の肩を指す。
リィナを指す。
背負う動きをしてみせる。
「俺が運ぶ」
「待て」
おっさんが言った。
「何だよ」
「どこへ行くか分からない」
「リィナが案内するだろ」
「言葉が通じない。どれだけ遠いかも分からん」
「でも、ここは駄目なんだろ」
「本人がそう判断したからな」
「なら行くしかない」
「お前の体力がもつのか」
「おっさんよりは」
「比較対象を下げるな」
「じゃあ、おっさんが背負う?」
「膝が痛い」
「ほら」
俺はリィナの前へしゃがんだ。
背中を向ける。
「乗って」
当然、言葉は伝わらない。
リィナは動かなかった。
「嫌がってる?」
「いきなり背中を向けられても意味が分からんだろ」
「じゃあ説明して」
「営業は万能じゃない」
「万能説推してるクセに?」
おっさんはリィナを指し、次に俺の背中を指した。
両手で持ち上げる動きをする。
リィナの顔が険しくなった。
俺はリィナを振り返った。
「歩けないなら、俺が運ぶ」
リィナには分からない。
それでも言う。
「俺だって、いつまでも背負えるとは思ってない。重かったら下ろすし、無理なら途中で休む」
「本人の前で重い前提の話をするな」
「まだ分かんないだろ」
「重くても軽いフリをしろ」
「なんで」
「デリカシーの問題だ」
リィナは俺とおっさんを見た。
俺の背中を見る。
自分の脚を見る。
しばらく動かなかった。
やがて。
剣を鞘へ戻す。
片手を、俺の肩へ置いた。
「乗る?」
リィナが、ゆっくり体を預けてくる。
俺は腕を後ろへ回した。
膝の裏を支える。
立ち上がる。
「重っ!」
肩を叩かれた。
「痛い!」
「女性に重いとか言うな」
「おっさんは背負ってないから言えるんだよ!」
「軽い。羽のようだ、と言え」
「今にも腰が折れそう!」
もう一度、肩を叩かれた。
意味は通じていないはずなのに、悪口だけは伝わっている気がする。
「セラノ」
リィナが俺の名前を言った。
「何?」
耳元で、短い言葉を口にする。
意味は分からない。
でも。
声が、さっきより少し柔らかかった。
俺はリィナを背負い直した。
細い腕が、俺の肩をつかむ。
剣が腰へ当たり、少し怖い。
名前を知った。
傷の手当てをした。
一緒に狼を追い払った。
火を囲んだ。
魚を食べた。
それだけだ。
火を分けても、まだ他人だった。
でも。
他人のままでも、一緒に行くことはできる。
「行こう」
俺が言う。
リィナが森の奥を指した。
「待て」
おっさんが、燃えている枝の一本を手に取る。
「火は消すぞ」
「持っていかないの?」
「一本だけ残す。ほかは消す」
「また狼が来たら?」
「森ごと燃えるよりはいい。火事は怖いぞ」
沢の水を火へかける。
白い煙が上がった。
火が小さくなる。
おっさんは地面を枝でかき回し、火が残っていないか確かめた。
リィナも俺の背中からそれを見ている。
「これでいい?」
俺が聞く。
リィナは消えた火を見る。
それから、小さくうなずいた。
木々の向こうでは、日が落ち始めている。
森の色が、少しずつ黒くなっていた。
俺たちは三人で、水場を離れた。




