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チートなし! 相方あり!? 〜クソ昭和とニセ令和の異世界遭難記〜  作者: niwa.
第一章 信用ゼロから始める村暮らし

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第三話 水場の先客

  俺は茂みの隙間へ、ゆっくり顔を近づける。

 葉の向こうに、小さな沢が見えた。

 幅は、二歩か三歩くらい。

 岩の間から流れてきた水が、木漏れ日を反射している。


 さっきの葉から染み出していた甘い液体よりは水に見える。

 喉が鳴った。


「水?」

 後ろから、おっさんが小声で聞く。


「ある」

「飲めそうか?」

「見た目は」

「先客は?」

「いる」

「何が」

「人」

「人?」


 俺たちは顔を並べて、茂みの向こうを見た。

 沢のそばに、一人の女の子がいた。

 俺と、それほど歳は変わらないように見える。


 長い髪は土と汗で汚れ、着ている服も見たことのない形だった。

 布と革を重ねたような服。

 腰には、小さな袋がいくつか下がっている。

 その手には、刃物が握られていた。


 短い剣。

 ナイフと呼ぶには大きく、剣と呼ぶには短い。

 どちらにしても、刺されたら痛いでは済まない。

 女の子は大きな岩へ背中を預けていた。


 片脚を伸ばし、もう片方の膝を立てている。

 俺たちのいる茂みを、まっすぐに見ていた。


「もう気づかれてない?」

「気づかれてるな」

「どうすんの」

「まず、顔を引っ込めろ」


 言われたとおり、二人で茂みの陰へ戻った。

 低い声が、また聞こえた。

 言葉なのか、唸っているのか分からない。

 少なくとも、歓迎はされていない。


「ほら見ろ。ヒロインだ!」

「刃物、思いっきりこっち向いてるけど」

「警戒心の強いヒロインは定番だ」

「おっさんのラノベ、初対面から難易度高すぎない?」


 女の子は、俺たちのいる茂みをまっすぐに見ていた。


「話しかける?」

「お前が?」

「何で俺」

「若者同士の方が警戒されにくいかもしれん」

「クソ昭和が責任逃れに世代を使うな」


 俺はもう一度、葉の隙間から女の子を見た。

 刃物を持つ手は、震えていなかった。

 俺たちのいる方を見たまま、動かない。


 伸ばした脚の下に、黒っぽい染みがあった。

 土だけではない。


 ふくらはぎから足首にかけて、布が巻かれている。

 その布が、赤黒く汚れていた。


「怪我してる」

「どこを」

「脚。血が出てる」


 おっさんも、今度は茂みの下側からそっとのぞいた。


「遠くて分からん」

「歩けると思う?」

「それも分からん」

「さっきから分からんばっかりだな」

「分からんことを、分かったふりしてたらとっくに死んでる」

「そうだけど」


 女の子は、沢のそばにいる。

 水はあるし武器もある。

 けど怪我をしている。

 一人に見える。

 仲間が近くにいる可能性もある。

 俺たちを待ち伏せしている可能性だって、ゼロではない。


「水だけ飲んで離れるか」


 おっさんが言った。


「え?」

「沢は下流にも続いている。ここを迂回して、少し離れたところで飲めばいい」

「それで、あの子は?」

「置いていく」

「怪我してるんだぞ」

「俺たちに、怪我人を助ける余裕があると思うか?」


 おっさんの声は小さかった。

 でも冗談ではなかった。


「食料はない。薬もない。安全な場所も知らない。言葉も通じるか分からん。俺は膝を痛めて、お前もさっきまで走っていた」


「だからって」

「助けるなら、責任が発生する」

「責任?」

「傷を見て終わりじゃない。歩けないなら支える。動けないなら運ぶ。食い物が手に入れば三人で分ける。敵が来れば守る」


「……」

「俺たちは、自分たち二人を生かす方法すら分かってない」


 正論だった。

 だから、腹が立った。


「怪我してる人間を見つけたら、普通は助けるだろ」

「元の世界ならな。救急車を呼べる。病院もある。警察もいる」

「ここにはいないから見捨てるの?」

「見捨てるという言葉を使うな」

「じゃあ、何て言うんだよ」

「自分たちにできることを見極める」

「言い換えても、やることは同じだろ」


 おっさんが黙った。

 俺も黙った。

 

「お前は、どうしたい」


 おっさんが聞いた。


「助けたい」

「できるか、ではなく?」

「できるかは分からない」

「一番困る答えだな」

「でも、置いていったら死ぬかもしれない」

「助けようとして、俺たちも死ぬかもしれん」


「じゃあ、死なない助け方を考えろよ」

「俺に丸投げか」

「元営業なんだろ」

「営業は、怪我人を救助する仕事じゃない」

「相手の警戒を解くのは得意なんじゃないの?」


 おっさんは小さく息を吐いた。

 もう一度、女の子の方を見る。


「若者は我儘だな、分かった」

「助ける?」

「お前がそう決めたなら、刺されずに近づく方法を考える」

「本当に?」

「責任を分ける」

「一人で背負う気はないんだな」

「当たり前だ。俺はお前の保護者じゃない」

「保護される気もない」

「なら、勝手するな。俺の言うとおりに動け」

「上司面すんな」

「刺されたくなければ、いまだけ聞け」


 おっさんはポケットを探った。

 取り出したのは、白い布だった。


「何それ」

「ハンカチ」

「持ってんの?」

「元営業だからな」

「営業、何でも持ってるな」

「汗と涙と、たまに相手の飲み物がこぼれたときに使う」

「後半は自分で拭かせろよ」


 ハンカチは、白というより少しくすんでいた。

 それでも、女の子が脚へ巻いている布よりはきれいに見える。


「それ渡すの?」

「渡せるならな」

「近づいたら刺されない?」

「だから、近づかない」


 おっさんは地面へハンカチを広げた。

 その上に、自分のスマホを置く。


「何してるの」

「敵意がないと見せる」

「スマホで?」

「価値がある物に見えるだろ」

「圏外の板だぞ」

「向こうには分からん」

「初手からハッタリか」

「交渉とは、相手がどう見るかだ」


 おっさんはスマホをハンカチで包んだ。


「ニセ令和」

「何」

「両手を見せろ」

「こう?」


 俺は手のひらを前へ向けた。


「指を広げる。武器を持っていないと分かるように」

「おっさんも刃物持ってないじゃん」

「相手から見れば、服の中に隠しているかもしれない」

「こんな薄いパーカーに?」

「警戒している人間は、そんな都合よく考えてくれない」


 おっさんはしゃがんだまま、ゆっくりと茂みから出た。

 俺も続く。

 女の子の目が動いた。

 刃物が上がる。

 低い声が飛んできた。


「──!」


 今度は、はっきりと言葉だった。

 何を言っているのかは分からない。

 でも、止まれと言われているのは分かった。


 俺たちは止まった。


「通じた?」

「別の言語だな、ラノベよくあるいつの間にか分かる展開はない」

「意味は分からない?」

「刃物を向けながら言う言葉は、だいたい止まれだ」

「語学じゃなくて状況判断じゃん」

「生きるための語学だ」


 女の子は、俺たちを交互に見た。

 顔色が悪い。

 額に汗が浮かんでいる。

 暑さだけではなさそうだった。


 刃物を握る手には力が入っている。

 でも、伸ばしている脚は動かない。


「おっさん」

「動くな」

「あの子、かなり痛そう」

「いまは確認だ」


 おっさんは、包んだハンカチを地面へ置いた。

 女の子からも見える位置に。

 それから、両手を上げたまま一歩下がる。

 さらに一歩。


「何してる?」

「近づいて渡すんじゃない。置いて、向こうに選ばせる」

「取りに来いって?」

「欲しければな」


 おっさんは女の子の脚を指した。

 次に、地面のハンカチを指す。

 自分の脚へ布を巻くような動きをしてみせた。

 女の子の眉が動く。


「伝わった?」

「さあな」

「営業なのに?」

「外国語が急に使えるようになる職業じゃない」

「営業万能説崩れたな」


 女の子は動かなかった。

 刃物も下ろさない。

 おっさんは、女の子の正面から少し横へ動いた。


「何でずれるの」

「正面を塞がない」

「逃げ道?」

「そうだ」

「怪我してるのに?」

「逃げられるかどうかじゃない。逃げ道を塞がれていると思わせないことが大事だ」


 俺たちは沢の反対側へ少し移動した。

 女の子との間に、真正面ではない角度を作る。

 おっさんが俺の袖を引いた。


「しゃがめ」

「何で」

「立った男二人に見下ろされるよりましだ」


 俺たちは地面へ腰を下ろした。

 女の子より低くなる。


 刃物は、まだこちらへ向いている。

 ただ、刃先がほんの少しだけ下がった。


「すごいじゃん」

「何が」

「警戒、ちょっと解けた」

「褒めるのは成功してからにしろ」

「面倒くせえな」


 おっさんは女の子を見たまま言った。


「警戒が解けたんじゃない。すぐには襲ってこないかもしれないと考え始めただけだ」

「同じじゃない?」

「違う」

「営業って、細かい言葉にうるさいの?」

「言葉一つで契約(ハナシ)が変わる」

「この世界、契約書ないけど」

「だから、余計に慎重になる」


 女の子が動いた。

 刃物をこちらへ向けたまま、伸ばした脚を引こうとする。


 顔が歪んだ。

 息を止める音が、ここまで聞こえた。

 上半身だけを使い、岩へ寄りかかる。


 それから、少しずつハンカチへ手を伸ばそうとした。


 届かない。

 距離は、二歩ほどしかない。

 でも、女の子には遠い。


「俺、近づける」

「待て」

「届かないだろ」

「だからといって、お前が行けば刺される」

「でも」


 傷ついた脚が地面へ触れる。

 女の子の肩が跳ねた。

 そのまま、前へ倒れそうだ。

 俺は立ち上がった。

 

 女の子が刃物を振る。

 届かない距離だった。

 それでも、空気を切る音がした。


「動くな!」


 おっさんが叫んだ。

 俺の脚が止まる。

 女の子は荒い息をしながら、刃物を構えている。

 顔には、怒りより恐怖が出ていた。


「助けたいだけだ!」


 俺は言った。

 当然、言葉は伝わらない。

 それでも、口から出た。


「怪我してるんだろ。別に何もしない。これを渡すだけだから」


 女の子は俺を見ている。

 それでも俺は、自分の両手を見せた。


「俺たちも、何が何だか分かってないんだよ」

「セラノ」

「いまは喋らせろ」


 おっさんは何も言わなかった。


「さっき変なのに追いかけられて、死ぬほど走って、喉も渇いてる。水を飲みたいだけだ」


 俺は沢を指した。

 自分の口を指す。

 手ですくって飲む動作をする。


「お前をどうにかしたいわけじゃない」


 次に、女の子の脚を指す。

 ハンカチを指す。


「怪我してるなら、それを使えばいい。いらないなら、いらないでいい」


 女の子は黙っていた。

 刃物は、まだ向けられている。

 俺は一度、息を吸った。


「置いていくのは、嫌なんだよ」


 伝わらないのは分かってる。

 女の子に話しているというより、自分で確認しているのかもしれない。


 知らない森で、何を選べば正しいのかも分からない。

 でも。

 目の前で怪我をしている人間を、見なかったことにはしたくない。


「以上」

 俺はゆっくり座り直した。


「長い」

 おっさんが言った。


「うるさい」

「通じてないぞ」

「知ってる」

「なら、もう少し短くしろ」

「感情に文字数制限つけんな」


 女の子は俺たちを見ていた。

 刃物の先が、ゆっくり下がった。

 手から離したわけではない。

 すぐに持ち上げられる位置にずらしただけだ。


 それでも、さっきとは違った。


「おっさん」

「まだ動くな」

「でも」

「向こうが決めている途中だ」


 女の子は地面のハンカチを見る。

 俺を見る。

 おっさんを見る。


 それから、自分の脚を見る。


 女の子は、刃先を地面へ下ろした。

 完全には手を離さない。

 柄に指をかけたまま。

 俺を指す。

 次に、ハンカチを指した。


「持ってこいってこと?」

「そう見える」

「行っていいか?」

「ゆっくりだ」


 俺は立ち上がった。

 手のひらを見せたまま、一歩進む。

 女の子の指に力が入った。

 止まる。


「急ぐな」


 おっさんが小声で言う。


「分かってる」

「分かってる人間の歩幅じゃない」

「細かいな!」

「命がかかっているときは細かくなれ」


 俺は歩幅を小さくした。


 一歩。


 止まる。


 もう一歩。


 女の子を見る。

 刃物を見る。

 脚を見る。

 距離が近くなると、傷が思ったよりひどいことが分かった。


「痛そう」


「感想はいい」

 後ろから、おっさんが言う。


「聞こえてた?」

「静かな森だからな」

「こういうときだけ耳いいな」


 俺はハンカチの前まで来た。

 しゃがむ。


 持ち上げる前に、女の子を見る。

 女の子は何も言わない。

 俺はスマホを包んだまま、ハンカチを手に取った。


「スマホまで渡すの?」

「返ってこないかもしれんな」

「おっさんのだけど」

「お前が惜しむな」


 俺は女の子から一歩離れたところへ、包みを置いた。

 手を離す。

 すぐに二歩下がった。

 女の子は手を伸ばした。

 今度は届く。


 包みを自分のそばへ引き寄せる。

 布を開いた。

 中からスマホが出てくる。

 女の子の目が少し見開かれた。

 画面は消えている。

 黒い板にしか見えないはずなのに、珍しいものだとは分かるらしい。


「取られた」

「見れば分かる」

「大事な物じゃないの?」

「圏外だ」

「文明、板になったもんな」

「それに」


 おっさんは声を落とした。


「相手が価値のある物だと思えば、すぐに俺たちを殺す理由が一つ減る」

「物を持ってるから?」

「もっと持っているかもしれないと思う」

「逆に襲われない?」

「交渉に絶対はない」

「後出しやめろ」


 女の子がスマホの側面へ触れた。

 偶然、電源ボタンを押した。

 画面がつく。


 女の子が短く声を上げた。

 俺も声を上げそうになった。

 画面には、おっさんの娘が写っていた。


「待ち受け、そのままなんだ」

「余計なことを言うな」


 女の子は画面をのぞき込んだ。

 次にスマホの裏を見た。

 初めて見たら、そういう反応になるとは思う。


 女の子は画面の中の画像を見た。

 次に、おっさんを見る。

 もう一度、画面を見る。

 何かを理解しようとしている。

 

 おっさんは自分を指した。

 次に、画面の女の子を指す。

 胸の前で、何かを抱える仕草。


「何の動き?」

「娘だと伝えたい」

「それで伝わる?」

「俺にも分からん」

「営業にも限界あるな」


 女の子はおっさんの動きを見た。

 画面を見る。

 それから、おっさんへスマホを差し出した。


「返すって」

「そうみたいだな」


 おっさんは動かず、首を横に振った。

 女の子の脚を指す。白い布を指す。

 女の子は少し迷ったあと、スマホを自分の横へ置いた。

 ハンカチを手に取る。

 傷に巻こうとした。

 うまくいかない。

 片手で刃物を持っていたせいだ。


 女の子は一度、俺たちを見る。

 それから、刃物を地面へ置いた。

 今度は、柄からも手を離した。


「おっさん」

「ああ」

「手伝っていいってこと?」

「そうかもしれん」

「またたぶん?」

「確かなことが少ないんだよ!」


 俺は女の子を指す。自分を指す。

 ハンカチを巻く動作をしてみせる。


 女の子は、すぐには答えなかった。

 しばらく俺を見たあと。

 ほんの少しだけ、うなずいた。


「よし」

「待て」

「何で!」

「傷に触る前に、手を洗え」


 おっさんが沢を指した。


「おっさん、そういう知識あるの?」

「常識だ」

「異世界でも?」

「異世界は関係ない、汚れた手よりはましだろ」


 俺は沢へ近づいた。

 女の子から目を離さないようにしながら、手を水へ入れる。

 指先から腕まで、一気に熱が引いていくようだった。


「水!」

「先に手だ」

「分かった、洗うよ!」


 両手をこする。

 石鹸はない。

 これで清潔になったと言えるかは分からない。

 それでも、土だらけの手よりはましだ。

 俺は水をすくった。


「飲むなよ」

「ちょっとだけ」

「安全か分からん」

「流れてる。匂いもしない」

「なら、少量にしろ」

「結局飲むんじゃん」

「止めても飲む顔をしている」

「よく分かったな」

「営業じゃなくても分かる」


 俺は手のひらの水へ口をつけた。


 冷たい。

 変な味はしない。

 一口だけ飲み込む。

 すぐに何か起きるわけではない。


「どうだ」

「水」

「そのままじゃねえか」

「じゃあ、おっさんが味を分析しろよ」

「お前が腹を壊さなかったら飲む」

「実験台にした?」

「若者は回復が早い」

「クソ昭和」


 女の子が、俺たちを見ていた。

 刃物へ手を伸ばす様子はない。

 でも。

 少しだけ、呆れたような顔をしている気がした。


「いま、変な人たちを見る目してなかった?」

「正しい認識だ」

「それ、おっさんも含まれてるからな」

「心外だ」


 俺は女の子のそばへ戻った。

 ゆっくりしゃがむ。

 傷へ手を伸ばす前に、もう一度顔を見る。


「触るよ」


 俺の手と傷を見て、うなずいた。

 古い布の結び目へ指をかける。

 固い。

 血が乾いて、布同士がくっついている。


「これ、外したら痛いよな」

「当たり前だ」

「もっと優しい言い方ない?」

「優しく言えば痛くなくなるのか?」

「ならないけど」

「手早くやれ」

「おっさんがやれば?」

「俺より、お前の方が手が震えてない」


 言われて気づいた。

 確かに、おっさんの指は少し震えていた。

 疲れのせいか。

 怖いのか。


 俺だって怖い。


 傷を見るのも。

 血に触るのも。

 女の子が急に刃物を取るかもしれないのも。

 でも、俺の手は動いた。


「外す」


 俺は女の子へ言った。

 布を指す。

 ほどく動きをする。

 女の子は、岩をつかんだ。

 俺は結び目を少しずつ緩めた。


 布が傷へ張りついている。

 無理に引けば、また傷が開くかもしれない。


「水、使っていい?」

「聞いても分からんだろ」

「でも聞く」


 俺は女の子へ沢を指し、古い布へ少し水をかける動作をした。

 女の子がうなずく。


 おっさんが沢から水を手ですくい、少しずつ布へかけた。


「おっさんも手伝うんだ」

「俺が水を運ばないと、お前が往復するだろ」


 布が少しずつ柔らかくなる。

 女の子が低く息を漏らす。


 傷口が見えた。

 何かに切られたような傷。

 血は止まりかけている。

 でも、周りは赤く腫れていた。


「骨は見えてるか?」

「見えてない」

「なら、すぐに脚が取れることはない」

「怖い言い方すんな!」


 俺は新しいハンカチを傷へ巻いた。

 強すぎないように。

 正しい巻き方なんて知らない。

 それでも、古い布よりは清潔なはずだ。


「これでいい?」


 女の子へ聞く。

 女の子は巻かれた脚を見る。

 指先で布へ触れる。


 それから俺を見た。

 短く何かを言った。


「何て言った?」

「礼か、文句か」

「文句だったらへこむな」

「いまの顔なら、礼じゃないか」

「分かるの?」

「長年、人の顔色で飯を食ってきた」

「営業、急に悲しい仕事になるじゃん」


 女の子は、地面へ置いていた刃物を手に取った。

 俺の肩が動く。

 でも、女の子は刃先を俺たちへ向けなかった。

 刃物を鞘へ戻す。

 腰へつける。


「警戒、解けた?」

「少しだけな」


 女の子はスマホを持ち上げた。

 差し出す。


 今度はおっさんも受け取った。

 画面はまだついている。

 娘の画像。

 一瞬だけそれを見て、ポケットへしまった。


「返してくれたな」

「いい人なのかも」

「怪我人だろうが、いい人とは限らん」

「まだ警戒してる?」

「警戒と信用は、別だ」

「おっさん、絶対友達少ないだろ」

「友達に営業はいらん」

「そういう話じゃねえし」


 俺は沢へ戻り、もう一度水をすくった。

 一口。

 もう一口。


 冷たい水が喉を通る。

 生き返る。


「うまい!」

「少し待てと言っただろ」

「もう飲んだ」

「腹を壊したら、置いていくぞ」

「さっきまで見捨てるなって話してただろ!」

「自分から危険物を飲んだ人間は別だ」

「危険物じゃない、水」


 おっさんも沢へ来た。

 手を洗い、顔を洗い水をすくう。

 少し口へ含む。


「どう?」

「水だな」

「俺と同じ感想じゃん」

「安全とは言ってない」

「面倒くせえな!」


 女の子も沢へ手を伸ばした。

 少し水を飲む。

 飲み慣れているようだった。


「現地人が飲んでるなら大丈夫じゃない?」

「その人間と俺たちの体が同じとは限らん」

「見た目は同じだろ」

「酒を一杯飲んで潰れる人間と、一升飲んでも平気な人間が同じ種族だ」

「例えが昭和」

「例えに世代関係あるか?」


 女の子は水を飲み終えると、俺たちを見た。

 自分の胸へ手を当てる。

 何かを言った。

 短い音だった。


「名前かな?」

「その可能性はある」


 女の子は、自分を指した。


「……リィナ」

 そう聞こえた。


「リィナ?」


 俺が繰り返す。

 女の子はうなずいた。


「名前だ」

 おっさんが言った。


「よし」

 俺は自分の胸を指した。

「セラノ」


「セ……ラノ」


 リィナが繰り返す。

 少し発音が違う。

 それでも、自分の名前だと分かった。


「そう。セラノ」


 次に、おっさんを指す。


「クソ昭和」

「おい」


 リィナが首を傾げる。


「違う。アイドだ」


「アイ?」


 おっさんは自分の胸へ手を当てた。

「アイド」


「アイ……ド」


 リィナが言う。

 おっさんが満足そうにうなずく。


「よし。これで最低限の自己紹介はできた」

「言葉が通じた?」

「名前だけだ」

「でも、一個増えた」

「そうだな」


 セラノ。

 アイド。

 リィナ。


 知らない森で、三人の名前だけが分かった。

 それだけだった。

 それでも、少しだけ状況が変わった気がした。


 リィナが何かを言った。

 森の奥を指す。


「何?」


 リィナはもう一度、森を指した。

 今度は、さっきより強く。

 それから、自分の耳へ手を当てる。

 俺とおっさんは黙った。

 耳を澄ませる。


 沢の音。

 風。

 葉が揺れる音。

 それから。


 少し離れた茂みの奥で、音がした。


 一度。

 もう一度。


 リィナが腰の刃物を抜いた。


「またグリーンハゲ?」

「そこはもうゴブリンでいいだろ」

「さっきの連中、追いついた?」

「分からん」

「本当に分からんばっかりだな」

「静かにしろ」


 リィナは刃物を構えたまま、森の奥を見ている。

 顔から、さっきまでとは別の緊張が出ていた。

 俺たちを警戒していたときよりも、強い。

 低い唸り声が聞こえた。

 でも。


 今度の声は、リィナの喉からではなかった。

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