第三話 ヒロインではない
何かが低く唸っている。
水の音はする。
確かにする。
サラサラ、という、今の俺たちにとっては神の音だ。
けど、その向こうから聞こえる低い唸り声が、神の音を台無しにしていた。
「水場はな、だいたい何かいる」
「ラノベ知識?」
「ラノベ知識」
「信用できねえ」
「でも、なんかいそうだろ?」
「腹立つなあ!」
「……おっさん」
「おう」
「これ、行っとく?」
「水は欲しい」
「俺も欲しい」
「じゃあ行くしかないな」
「判断が雑!」
「雑じゃない。選択肢が少ないだけだ」
正論だった。
腹が立つことに、かなり正論だった。
俺たちは、草の影に身を低くしながら進んだ。
湿った土を踏むたびに、靴の裏が少し沈む。
水が近いのか、空気がさっきより冷たかった。
木々の隙間から、反射する光が見えた。
水だ。
細い流れだった。
川というより、沢に近い。
でも今の俺には、巨大な湖に見え……いや、温泉旅館の大浴場くらいには見えた。
「水……」
「待て」
おっさんが低い声で言った。
珍しくふざけていなかった。
そのせいで、俺も口を閉じるしかなかった。
沢のそばに、誰かがいた。
人間だと思う。
少なくとも、グリーンハゲではない。
小柄な人影が、木の根元に背を預けて座り込んでいる。
髪は泥と汗でぐしゃぐしゃだった。
服も汚れていて、ところどころ破れている。
怪我でもしているのか、片足をかばうように曲げていた。
最初は、顔もよく見えなかった。
けれど、沢の水面が光を返した瞬間。
ほんの少しだけ、その顔が見えた。
若い。
俺と同じくらいか、少し上くらい。
頬には擦り傷まである。
それでも、目だけはやたら印象に残った。
大きくて、少し強い目。
怖がっているのに、折れていない目。
こっちを睨んでいるのに、どこか泣きそうにも見える目。
正直、綺麗だと思った。
いや、今それを思う場面じゃない。
絶対に違う。
水が欲しい。
死にたくない。
相手は刃物を持っている。
でも、思ってしまったものは仕方ない。
この世界に来て初めて見た、俺たち以外の人間らしい誰か。
若い女の人で。
目が綺麗で。
その手に、刃物。
台無しだった。
ヒロイン。
という単語が、頭の中で一秒だけ出た。
次の一秒で、死んだ。
そのときだった。
ぐぅうううううう。
森に、低い音が響いた。
「……」
「……」
俺は固まった。
おっさんも固まった。
彼女も、ほんの少しだけ目を見開いていた。
「……なるほど」
「何が?」
「さっきの唸り声、獣じゃなくて腹だったかもしれん」
「最悪の正体判明だな」
ヒロインではない。
少なくとも、俺の知っているヒロインは、初対面で刃物を向けてこない。
あと、腹も鳴らさない。
「おっさ――」
言いかけた俺の前で、おっさんが軽く片手を下げた。
黙ってろ、という合図だった。
刃物に気づいている。
そのうえで、笑っている。
腹の立つ営業スマイル。
けど、足は相手の間合いに入っていない。
両手も、ちゃんと見える位置にある。
視線も、刃物を見すぎていない。
「はいはい、どうも。こっちは水が欲しいだけの迷子です。見ての通り、武器も金も土地勘もありません」
「通じるわけないだろ」
「通じなくても、敵意がない感じは出せる」
「営業かよ」
「営業だよ」
おっさんは笑ったまま、少しだけ腰を低くした。
「大丈夫。怖くない。怖いのは俺たちも同じ。あと、だいぶ喉が渇いてる」
喉を指し、舌を出して、苦しそうに息を吐く。
現地人らしき相手が、びくりと肩を震わせた。
刃物を握る手に力が入る。
俺の背中に、嫌な汗がにじんだ。
やばい。
近づきすぎたら刺される。
こっちが少しでも大きな声を出したら、たぶん相手もパニックになる。
おっさんは、それでも笑っていた。
すごい。
いや、腹は立つ。
腹は立つけど、すごい。
このおっさん、ただのクソ昭和じゃないのかもしれない。
そう思いかけた、そのときだった。
ぐぅうううううう。
森に、低い音が響いた。
俺の腹だった。
「……」
「……」
「……今のは、敵意ではない」
「説明すんなおっさん」
刃物を持った相手が、目を丸くした。
それから。
ぐぅううう。
今度は、相手の腹が鳴った。
おっさんが、にっこり笑った。
「よし。まず交渉の前提はそろったな」
「何が!?」
「全員、腹が減ってる」
たしかに。
たしかにそうだけど。
異世界で初めて会った現地人との共通点が、それでいいのか。
「現実世界だろうが異世界だろうが、人間は腹が減る! 真理ってやつだ」
俺の頭の中を読んだかのようなことを言う。
相手の目は、まだこちらを警戒していた。
助けを求めているのか。
敵を見ているのか。
それとも、その両方なのか。
分からない。
分からないけど、ひとつだけ分かった。
この人を、ただの遭難者扱いして近づいたら、たぶん刺される。
「よし、全員ハラヘリなんだから、やることは一つだな」
「なにすんの?」
「釣り」
「釣り? 道具もないのに?」
「道具は作るもんだ」
「急にサバイバル番組みたいなこと言い出したな」
「ラノベなら川魚くらい都合よくいる」
「またラノベ知識かよ」
「でも、水場にはいたろ。先客」
「腹立つなあ!」
俺たちがそんなことを言っていると、刃物を持った現地人が、ゆっくりと沢を見た。
目つきはまだ警戒している。
刃物も下ろしていない。
ただ、さっきよりは少しだけ、刺すぞ感が薄くなっている気がした。
気がしただけだけど。
彼女は沢を指さした。
それから、片手で水をすくうような仕草をして、もう片方の手で何かを押さえるような動きをした。
「……魚?」
「たぶんな」
「通じてんの?」
「腹が減ってるやつ同士は、だいたい通じる」
「名言っぽく言うな」
おっさんはそう言って、近くの枝を何本か拾った。
俺も仕方なく手伝う。
釣りと言っていたが、実際にやったのは、浅いところに枝を立てて魚を追い込むだけの雑な罠だった。
現地人が痛そうに顔をしかめながらも、刃物で細い枝を削った。
俺たちより、よほど手際がいい。
「……普通に上手いな」
「現地人だからな」
「現地人を便利ワードにするな」
しばらくして、魚が一匹、枝の間で跳ねた。
「おお!」
「魚!」
「肉!」
「魚だって言ってんだろ!」
おっさんが沢に手を伸ばし、盛大に水をかぶった。
その横から、現地人が呆れたように手を出して魚を掴んだ。
体勢を戻そうとした瞬間、彼女が顔をしかめる。
やっぱり足だ。
片足を地面につけるたびに、肩がわずかに揺れる。
血は大量に出ていないように見える。
けど、まともに歩ける状態でもなさそうだった。
「……怪我してるな」
「だな」
「どうする?」
「どうするも何も、医者じゃない」
「役に立たねえな、文明人」
「文明人は文明がないと弱いんだよ」
おっさんはそう言いながら、自分のシャツの裾を少し引っ張った。
「最悪、布はある」
「脱ぐなよ」
「脱がねえよ。裂くんだよ」
「どっちにしろ絵面が嫌だ」
彼女は俺たちの会話を分かっているのか、いないのか、刃物を握ったままこちらを見ていた。
近づきすぎれば、たぶん刺される。
でも、放っておけば、たぶん動けない。
面倒くさい。
この世界、ずっと面倒くさい。
その後も同じようにして、結局、魚は四匹捕れた。
大漁とは言えない。
でも、食い物を手に入れた。
初めてこの世界で、人間らしいことをした気がした。
やったのは、魚捕りだけど。
現地人の彼女は、魚を手にしたまま、ふいに森の奥を見た。
さっきまでより、目が鋭くなる。
俺もつられて、そちらを見る。
木。
草。
影。
何も見えない。
でも、彼女の手が刃物に戻っていた。
「……おっさん」
「おう」
「今度は何?」
「知らん」
「ラノベ知識は?」
「水場で飯が手に入ったあとに何か来るのは、だいたい嫌なやつだ」
「信用できねえのに、説得力だけあるのやめろ」
沢の音がする。
森の奥で、何かが低く鳴いた。
俺たちは、まだ魚を手に入れただけだった。
安全を手に入れたわけではなかった。




