第二話 異世界初日、肺が痛い
肺が痛いどころではなかった。
喉が焼ける。
脇腹が刺される。
足は重い。
背中からは、グリーンのハゲどもの声が追ってくる。
「おっさん、まだいる!?」
「いる! 勝手に殺すな!」
「生存確認だよ!」
「走りながら後ろを見るな! 転ぶぞ!」
「転んだ人に言われたくねえ!」
前を向く。
木。
木。
木。
異世界の森だからといって、分かりやすく道が用意されているわけではない。
足元には根が張り出し、地面はところどころぬかるんでいる。顔の高さには枝が伸び、葉っぱが容赦なく頬を叩いてきた。
「右!」
後ろから、おっさんが叫んだ。
「何で!?」
「左は茂みが深い!」
「見れば分かる!」
「なら聞くな!」
右へ曲がる。
木と木の間を抜けた瞬間、地面が急に下がった。
「うわっ!」
踏み出した足が空を切る。
斜面だった。
止まれない。
俺は両腕で顔を庇い、そのまま坂を滑り落ちた。
土。
葉。
小石。
たまに枝。
全身へ順番に当たる。
「痛い痛い痛い!」
叫びながら転がる。
途中で何か大きなものが背中へぶつかった。
「ぐえっ!」
「悪い!」
「おっさんかよ!」
「俺も止まれん!」
「謝るならどけ!」
「重力に言え!」
二人で絡まりながら斜面を転がり、最後は低い茂みへ突っ込んだ。
枝が折れる。
葉が舞う。
俺はうつ伏せで止まった。
背中の上には、おっさんが乗っていた。
「重い!」
「俺も好きで乗ってるわけじゃない!」
「下りろ!」
「立てん!」
「じゃあ転がれ!」
おっさんが横へ転がる。
俺は地面へ顔を押しつけたまま、息を吸った。
土の匂いがした。
肺へ入ってくる空気は冷たかった。
生きている。
たぶん。
「……追ってくる?」
小声で聞く。
おっさんは答えなかった。
二人とも、その場で息を殺した。
斜面の上から、何かの声が聞こえる。
ギャア。
ギャア。
枝を叩く音。
足音。
近い。
俺は顔だけを上げた。
茂みの隙間から、斜面の上を見る。
緑色の頭が一つ見えた。
グリーンハゲだ。ゴブリンとも言うらしい。
下をのぞき込んでいる。
俺は反射的に頭を引っ込めた。
「いる」
「見れば分かる」
「さっき走りながら見るなって言っただろ」
「いまは走ってない」
「細かいな!」
「静かにしろ」
「おっさんが喋らせてるんだろ!」
言い返した直後、自分で口を押さえた。
上から石が落ちてきた。
茂みの少し手前へ当たり、土を跳ねさせる。
見つかった。
「走るぞ」
「まだ走んの?」
「ここで休むか?」
「走ります」
二人で立ち上がった。
足が震えている。
息も戻っていない。
それでも走るしかなかった。
斜面の下は、上より木が密集していた。
まっすぐには進めない。
俺は枝を避け、細い隙間を選んで走った。
後ろから、おっさんの荒い息が聞こえる。
さっきより遅い。
当然だ。
四十六歳。
転倒済み。
斜面転落済み。
俺の背中へ着地済み。
元営業という肩書きは、体力の保証にはならないらしい。
「おっさん、大丈夫?」
「大丈夫に見えるか!」
「見えないから聞いた!」
「なら聞くな!」
「面倒くせえな!」
「お前が言うな!」
後ろの声が、少し遠くなった。
俺は速度を落とす。
「遅くするな!」
「置いてけるかよ!」
「さっき助けただろ! 二度目はサービス外だ!」
「何のサービスだよ!」
俺はおっさんの少し前を走った。
速すぎず、遅すぎず。
おっさんが見失わない程度に。
自分一人なら、もっと速く走れる。
たぶん。
でも、俺一人になったところで、異世界の森から脱出できる気はしなかった。
知っていることが少なすぎる。
どちらが北かも分からない。
食べられるものも分からない。
動物がいるのか、魔物しかいないのかも分からない。
おっさんがいても分からない。
ただ、一人よりはましだった。
前方の木々が少し開けた。
「おっさん、あそこ!」
「声を出すな!」
「返事してるじゃん!」
開けた場所へ飛び込む。
倒れた大木が何本も重なっていた。
根元から倒れた木。
途中で折れた木。
枯れて中が空洞になった木。
俺は一番太い倒木の裏側へ回り込んだ。
おっさんも続く。
二人でしゃがみ込む。
「止まれ」
おっさんが小声で言った。
「いま止まってる」
「喋るな」
「おっさんが――」
「いいから」
その声が本気だった。
俺は口を閉じた。
耳を澄ませる。
自分の呼吸がうるさい。
心臓の音もうるさい。
それでも、その向こうから追ってくる足音が聞こえた。
枝を踏む音。
葉を払う音。
低い声。
一つ。
二つ。
たぶん、三つ以上。
おっさんは地面へ手を伸ばし、落ちていた枯れ枝を拾った。
太さは親指くらい。
長さは腕一本分ほど。
「それで戦うの?」
「戦わん」
「じゃあ何に使うんだよ」
おっさんは枯れ枝を、俺たちが来た方向とは違う方へ投げた。
枝が茂みに当たる。
がさり、と大きな音がした。
追ってきた声が止まる。
少しして、音のした方へ足音が動いた。
俺はおっさんを見る。
おっさんは人差し指を口元へ立てた。
いまだけは格好よかった。
悔しい。
しばらく待つ。
足音が遠ざかる。
声も聞こえなくなる。
それでも、おっさんは動かなかった。
俺も動かなかった。
一分。
二分。
時間の感覚は分からない。
ただ、息が少しずつ整っていった。
鳥のような声が、また聞こえ始めた。
「……行った?」
「たぶんな」
「便利だな、たぶん」
「確定できるなら、お前が見に行け」
「行かない」
「なら、たぶんで我慢しろ」
おっさんは倒木へ背中を預けた。
俺もその隣へ座る。
足に力が入らない。
太ももが熱い。
さっきぶつけた肘も痛い。
「異世界、初日から難易度高すぎない?」
「最初に雑魚敵が出るのは普通だ」
「十匹くらいいたぞ」
「群れで出る雑魚もいる」
「ゲームならそうかもしれないけど、こっちは一回死んだら終わりなんだよ」
「死ななければ問題ない」
「前向きだな」
「元営業はな、契約が取れなかった程度で死んだ顔をしていたら続かん」
「契約取れなかったら?」
「取れるまで死んだ顔で回る」
「どっちなんだよ」
おっさんは額の汗を袖で拭いた。
呼吸は整ってきたが、顔色はよくない。
「水だな」
「急だな」
「急じゃない。次に必要なものだ」
おっさんは指を一本立てた。
「まず、水」
二本目。
「次に、安全な場所」
三本目。
「そのあと、食料と火」
「人里は?」
「見つかれば最高だ。ただ、当てもなく探して歩き回るのは危険だ」
「帰り方は?」
「生きていれば探せる」
さっきも同じようなことを言っていた。
今すぐ帰れないなら、今すぐ死なない方が先。
腹は立つが、間違ってはいない。
「水って、どうやって探すんだよ」
「沢か川を見つける」
「どこにある?」
「知らん」
「役に立たねえ!」
「俺は整理した。実行担当は若者だ」
「勝手に分業すんな!」
「足腰はお前の方が強い」
「おっさんも歩け」
「歩く。探すのはお前だ」
「理屈が雑!」
「上司とはそういうものだ」
「誰がおっさんを上司にした!」
「年上」
「年功序列、異世界まで持ち込むなって言ったよな!」
声が大きくなった。
二人で同時に森を見る。
追っ手が戻ってくる気配はない。
俺はため息をついた。
「とにかく、ここから動くんだな」
「ああ。ただし、走るのはやめよう」
「膝?」
「体力の温存だ」
「膝?」
「体力だ」
「さっき喋ってたもんな」
「異世界の鳥だ」
「まだ言うか」
俺は立ち上がった。
足が重い。
それでも、動けないほどではない。
「方向は?」
おっさんが聞いた。
「分からない」
「ボーイスカウト」
「七歳まで!」
「歌以外に何か思い出せ」
「無茶言うなよ」
俺は周囲を見た。
どこも同じに見える。
高い木。
大きな葉。
地面を覆う苔。
見たことのない花。
太陽の位置から方角が分かるかもしれない。
でも、この世界の太陽が同じ動きをする保証はない。
そもそも、何時なのかも分からない。
「高いところへ登るか?」
おっさんが言った。
「木に?」
「周囲を見渡せる」
「落ちたら終わる」
「では、斜面を下る」
「何で」
「水は低い方へ流れる」
「それ、信用していい知識?」
「地球ならな」
「異世界では?」
「水が空へ流れる世界なら、もう諦めろ」
「それはそうだけど」
俺はさっき転がり落ちてきた斜面を見る。
下へ来た。
さらに低い場所へ進めば、水場へ着く可能性はある。
可能性だけだ。
「下へ行こう」
俺が言った。
「決めたのか」
「ほかに当てがない」
「間違っていたら?」
「戻る」
「戻れるか?」
「目印を残す」
俺は倒木の樹皮へ手をかけた。
簡単には剥がれない。
近くに落ちていた石を拾い、表面をこする。
薄く傷がついた。
「何をしている」
「戻る場所が分からなくならないように」
「ほう」
「何だよ」
「ボーイスカウト」
「だから七歳までだって!」
「歌以外も残ってるじゃないか」
「これがスカウト知識かは知らない。ただ、何もしないよりましだろ」
「そうだな」
おっさんが、今度はふざけずにうなずいた。
「正解かどうかより、戻る方法を用意してから動く方がいい」
「急に先生みたいになるな」
「褒めているんだ」
「普通に褒めろよ」
「若者は褒めると調子に乗る」
「昭和は褒め方を知らないだけだろ」
俺たちは、斜面を下る方向へ歩き始めた。
走らない。
急がない。
さっきまで命懸けで逃げていたから、歩くだけで妙に遅く感じた。
数十歩進むごとに、木へ傷をつけた。
同じ形では分かりにくいので、斜めに二本。
おっさんが言った。
「魔物に見つからないか?」
「木の傷で?」
「知能が高ければ、人間が通ったと分かる」
「じゃあ、どうする」
「目立たない側につけろ」
俺は歩いてきた方向からしか見えない位置へ傷をつけた。
「こう?」
「いいんじゃないか」
「たぶん?」
「たぶん」
「便利だなあ」
森は静かだった。
静かすぎる。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、少し減っている。
「おっさん」
「何だ」
「静かじゃない?」
「森だからな」
「さっきは、もっと鳴いてた」
おっさんが足を止めた。
二人で周囲を見る。
何も見えない。
でも、何もいないとは限らない。
「急ぐか?」
「走るのは危ない」
「では、このまま進む」
「おっさん、俺の後ろにいて」
「何で」
「何か出たら、俺の方が逃げるの速い」
「盾になるという話ではないんだな」
「一緒に逃げる話だよ」
「頼もしいのか頼もしくないのか分からんな」
「死なない方を選んでるだけ」
先へ進む。
地面が少し柔らかくなってきた。
苔が増えている。
葉の表面にも、水滴がついていた。
「水が近い?」
「湿ってはいるな」
「飲めるかな」
「葉の水滴を?」
「少しくらいなら」
「待て」
おっさんが止めた。
「毒があるかもしれん」
「水滴に?」
「葉の表面から出た液体かもしれない。植物自体が毒を持っていたら分からん」
「異世界で急に慎重になるじゃん」
「地球でも知らない植物を舐めるな」
「分かってるよ」
「手を伸ばしていたぞ」
「見るだけ」
「舌が出ていた」
「出てない!」
出かけてはいた。
喉が渇いている。
走ったあとだから、余計に水分が欲しい。
目の前に透明な液体があれば、飲みたくなる。
でも、透明だから水とは限らない。
俺は葉へ顔を近づけた。
甘いような匂いがした。
「これ、水じゃない」
「そうみたいだな」
「知らずに飲んでたらどうなったんだろ」
「甘くてうまかったかもしれん」
「急に誘惑すんな」
「腹を壊したかもしれん」
「そっちだよな」
おっさんは近くの枝を折り、その先で葉を軽く突いた。
透明な液体が増えた。
葉についた水ではなく、植物から染み出しているらしい。
「触るなよ」
「分かってる」
「指を出すな」
「確認しようとしただけ」
「何を」
「皮膚についたらどうなるか」
「自分で実験するな」
「少量なら――」
「異世界の植物に、少量なら安全という保証はない」
「じゃあ何も分からないじゃん」
「分からないものは、分からないまま避ける」
おっさんはそう言った。
俺は植物から離れた。
「おっさん、こういうの詳しい?」
「まったく」
「堂々と言うなよ」
「詳しくないから慎重なんだ」
「なるほど」
「知ったふりをする人間が一番危ない」
「営業なのに?」
「営業だからだ。分からないことを分かったふりで売ると、あとで死ぬほど怒られる」
「この世界だと、本当に死ぬかもしれないな」
「だから、知らないものは口へ入れない」
喉は渇いていた。
それでも、我慢した。
少なくとも、俺一人なら飲んでいたかもしれない。
おっさん一人なら、慎重になりすぎて動けなかったかもしれない。
二人なら。
俺が見つけて。
おっさんが止める。
それくらいで、ちょうどいいのかもしれない。
「何だ、ニヤニヤして」
「してない」
「気持ち悪いぞ」
「ちょっといいこと考えてたのに!」
「なら口に出すな。台無しになる」
「もう台無しだ!」
歩き続ける。
木へ傷をつける。
地面を見る。
耳を澄ませる。
沢の音はしない。
水の匂いも分からない。
足だけが重くなっていく。
「休むか?」
おっさんが聞いた。
「まだ歩ける」
「歩けるかどうかではない」
「何?」
「限界になる前に休むんだ」
「おっさんが休みたいだけでは?」
「それもある」
「正直だな!」
「倒れてから強がるよりいい」
俺は少し迷った。
まだ歩ける。
でも、おっさんはさっきから膝を庇っている。
呼吸も、俺より戻るのが遅い。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「よし」
「おっさん、先に座れよ」
「年寄り扱いするな」
「四十六歳を若者扱いしたら、俺の分類がなくなるだろ」
「ニセ令和」
「年齢じゃねえ!」
倒木へ座る。
おっさんは、足を伸ばした。
やっぱり右膝を気にしている。
「痛い?」
「少しな」
「見せて」
「嫌だ」
「何で」
「若者に膝を心配されると、急に老けた気がする」
「もう喋ってんだろ」
「鳥だ」
「その鳥、巣立ち近いぞ」
おっさんは無視した。
俺は背中を木へ預けた。
空を見上げる。
葉の隙間から、青い空が見える。
元の世界と似ている。
似ているだけで、同じではない。
「なあ」
俺は言った。
「何だ」
「本当に異世界だと思う?」
「可能性は高い」
「帰れると思う?」
「分からん」
「そこは励ませよ」
「根拠のない励ましは嫌いだろ」
「相手による」
「面倒くさい若者だな」
「おっさんに言われたくない」
おっさんは少し黙った。
「帰る方法は探す」
「娘のため?」
「自分のためでもある」
「おっさん、娘に嫌われてそう」
「嫌われている」
「即答すんなよ」
「嫌われても、父親は父親だ」
「離婚しても?」
「離婚したのは妻とだ。娘と離婚したわけじゃない」
また、急にまともなことを言う。
俺は地面へ視線を落とした。
「お前は、急いで帰らなくてもいいのか」
「その話、避けるんじゃなかったの?」
「確認だ」
「営業、確認多すぎない?」
「返事をしなくてもいい」
「じゃあ聞くなよ」
帰りたくないわけではない。
帰れなくてもいいとも思っていない。
ただ、おっさんのように「帰らなければならない」と言えるものが、すぐに浮かばなかった。
それが少し嫌だった。
「……水探そう」
俺は立ち上がった。
「休憩は終わりか」
「考えると喉が渇く」
「関係あるか?」
「あることにする」
「便利だな」
「おっさんの『たぶん』よりまし」
再び歩き出す。
さらに低い方へ。
木々の間隔が少しずつ狭くなっていく。
地面には、細い溝が増えていた。
雨が降ったとき、水が流れる跡かもしれない。
「こっち」
俺は溝に沿って進んだ。
「理由は?」
「水が流れた跡っぽい」
「確信は?」
「ない」
「いい。進め」
「珍しく素直だな」
「いまは、お前の方が地面を見ている」
その言葉に、少し驚いた。
おっさんは、自分が分からないところでは、俺の判断へ乗るらしい。
口は悪い。
面倒くさい。
年上ぶる。
営業を万能職だと思っている。
でも、自分が何でも決めなければ気が済まない人間ではない。
「何だ」
「別に」
「またニヤニヤしているぞ」
「してない!」
溝は少しずつ深くなった。
土も湿っている。
俺はしゃがみ込み、指先で触れた。
冷たい。
「ここ、最近水が流れたんじゃない?」
「雨かもしれん」
「上じゃなくて、下に続いてる」
「追うか」
「うん」
歩く。
少し速くなる。
水があるかもしれない。
期待すると、喉の渇きがさらに強くなった。
そのとき。
遠くから、音が聞こえた。
かすかな音。
風ではない。
葉が擦れる音とも違う。
「おっさん」
「聞こえた」
水の音だった。
小さい。
でも、確かに流れている。
俺とおっさんは顔を見合わせた。
「行くぞ」
「走るなよ」
「分かってる」
「お前、さっきから前のめりだぞ」
「水だぞ!」
「だからこそ周りを見ろ」
「分かってるって!」
音のする方へ進む。
一歩。
二歩。
水音が少し大きくなる。
木々の向こうに、光が見えた。
森が開けている。
俺たちは足を速めた。
あと少し。
水がある。
飲めるかどうかは分からない。
それでも、さっきの葉から出る甘い匂いの液体よりは、ずっと希望がある。
茂みの前まで来る。
俺が葉へ手をかけた。
その瞬間。
水音の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
俺の手が止まる。
おっさんも止まる。
一度。
短く。
喉の奥から絞り出すような声。
グリーンハゲとは違う。
もっと近い。
水場のすぐ向こうに、何かがいる。
「おっさん」
「何だ」
「水、先客いるみたいだけど」
「人気物件だな」
「内見やめる?」
「見てから決める」
「営業みたいなこと言うなよ」
「元営業だ」
俺は茂みの隙間へ、ゆっくり顔を近づけた。




