第十六話 帰還希望、温度差あり
屋根があっても、寝心地がいいとは限らない。
「痛い」
「朝一番の感想がそれか」
「背中に草が刺さってる」
「干し草の寝床だからな」
「干したら布団になるわけじゃないんだな」
「当たり前だろ」
体を起こす。
服の背中に入り込んだ草を払い落とした。
床に置かれた袋には、干し草が詰められている。
昨日はこれを見て、ベッドだと思った。
森の地面で寝た人間は、判断基準が甘くなる。
実際に寝てみると、硬い。
刺さる。
少し臭い。
あと、虫がいた。
「屋根を手に入れた瞬間、布団が欲しくなった」
「人間の欲には限りがないな」
「文明の発展を欲深さみたいに言うな」
「最初は雨風をしのげれば満足だったはずだ」
「おっさんだって腰押さえてるじゃん」
「これは昨日の労働のせいだ」
「年齢だよ」
「寝床だ」
「年齢」
「十八歳は黙れ」
「四十六歳が現実から逃げるな」
昨日と同じ会話だった。
寝床が変わっても、俺たちは変わらない。
外から、人の声が聞こえた。
村はもう動き始めているらしい。
俺は立ち上がり、扉へ手をかけた。
鍵はかかっていない。
扉を開ける。
目の前に、槍があった。
「うわっ!」
昨夜から見張っていた若い男が、入口の横に立っている。
槍先を俺へ向けたわけではない。
ただ、俺が急に出てきたので、持ち直しただけらしい。
たぶん。
「おはようございます」
男は黙って俺を見た。
次に、建物の中を指さす。
「戻れって?」
「勝手に出るな、じゃないか」
「鍵はかかってないけど、出られないやつだ」
「信用による施錠だな」
「槍による施錠だろ!」
見張りが眉を寄せた。
声が大きかったらしい。
俺は両手を上げ、ゆっくり中へ戻った。
「村に入ったのに、行動範囲が三歩なんだけど」
「昨日来たばかりだからな」
「リィナを助けた恩人だぞ」
「正体不明の恩人だ」
「恩人が不審者に負けてる」
「不審者要素が強すぎるんだろ」
少しして、村の女の人がやってきた。
木の器を二つ持っている。
見張りと短く話したあと、建物の中へ入ってきた。
器の中には、薄い色の粥が入っている。
もう一つの小さな器には水。
「アマ」
俺が水を指した。
女の人が少し驚く。
それから、うなずいた。
「通じた」
「昨日覚えたからな」
「おっさんも言ってみろ」
「アーマ」
女の人が首を横に振った。
「違うって」
「地方によって発音が違う」
「村に来て一日で方言を作るな!」
俺たちは粥を受け取った。
味は薄い。
中に豆らしきものが入っている。
温かい。
それだけでありがたかった。
「塩が欲しい」
「さっき布団を欲しがったばかりだぞ」
「食文化の発展も欲深さなの?」
「腹が満たされれば、次は味を求める」
「おっさんは?」
「肉が欲しい」
「俺より欲深いじゃねえか!」
女の人は、食べ終わるまで入口近くに立っていた。
監視だ。
食事を運んできたというより、食べ終わったら働かせるために待っている気がする。
俺が器を置く。
女の人が指を三本立てた。
次に、空を指す。
俺たちを指す。
食べる仕草。
荷物を持つ仕草。
「三日間の試用期間」
「まだ一日目だぞ」
「昨日は入村手続きだから勤務外じゃない?」
「異世界で労働時間を主張するな」
女の人は俺たちに立つよう促した。
外へ出る。
今度は見張りも止めなかった。
ただし、女の人の後ろを歩くよう指示される。
「自由になった?」
「引率つきだな」
「小学生みたいだ」
「問題を起こすなよ」
「おっさんが言う?」
「社会では年長者が責任を負うんだ」
「じゃあ全部任せた」
「都合のいいときだけ年長者扱いするな」
村の朝は忙しかった。
家の前を掃く人。
動物へ餌をやる人。
水を運ぶ人。
畑へ向かう人。
俺たちを見る人。
最後のやつが多い。
すれ違うたびに、視線を感じる。
露骨に避ける人もいる。
立ち止まって眺める子供もいる。
子供を家の中へ入れる親もいる。
「人気者だな」
「見世物だろ」
「服装が違うからな」
「顔じゃない?」
「お前のな」
「おっさんの営業スマイルの方が怖いよ」
女の人は村の中央近くで止まった。
俺を指す。
次に、右側の道を指す。
その先では、男たちが木を運んでいた。
太い枝。
切った丸太。
薪の束。
「俺、あっち?」
「体力担当だな」
女の人はアイドを指した。
今度は左側にある大きな建物を示す。
扉が開いている。
中には袋や木箱が積まれていた。
「おっさんは倉庫?」
「適材適所だ」
「待って」
俺は女の人とアイドを交互に見た。
「別々?」
「そうみたいだな」
「セット商品じゃなかったの?」
「部署が分かれただけだ」
「セットを開封すんなよ!」
女の人が俺の腕を引いた。
右へ行けということらしい。
別の男がアイドへ手招きする。
「いや、俺一人で行くの?」
「向こうにも人はいる」
「言葉が通じない人しかいないけど」
「俺も通じないぞ」
「おっさんはうるさいから、いるだけで分かる」
「何だそれ」
「別に、一人でも大丈夫だけど」
「声が上ずってるぞ」
「上ずってねえよ!」
アイドは少し笑った。
営業用ではない。
人を小馬鹿にするときの顔だ。
「昼には戻る」
「誰も心配してねえ!」
「迷子になるなよ」
「村の中だぞ!」
「知らない人についていくな」
「今から知らない人についていかされるんだよ!」
女の人に腕を引かれる。
アイドは倉庫の方へ連れていかれた。
一度だけ振り返る。
俺も見ていた。
目が合う。
「何見てんだ、クソ昭和!」
「お前が見てたんだろ、ニセ令和!」
いつもの声が離れていく。
半日くらい別々になるだけだ。
森へ一人で放り出されるわけでもない。
分かっている。
なのに、少しだけ落ち着かなかった。
女の人に連れていかれた先には、薪の山があった。
男が三人。
俺と同じくらいの年齢に見える若者が二人。
斧もある。
「薪割り?」
返事はない。
当然だ。
一人の男が、切った木を指した。
次に、少し離れた場所を示す。
運べ。
分かりやすい。
「また運搬か」
異世界に来てから、若さがずっと荷物へ変換されている。
俺は丸太の端を持った。
もう一人の若者が反対側を持つ。
二人で運ぶ。
指定された場所へ近づくと、男が地面を指し、短い言葉を発した。
「――ダ」
俺は首をかしげた。
男がもう一度地面を指す。
「ダ」
「置け?」
丸太を下ろす。
男がうなずいた。
「ダ」
「置け、がダ?」
男は何か答えた。
そこまでは分からない。
とりあえず、同じ音を覚える。
ダ。
置け。
次の丸太を運ぶ。
指定された場所へ置く。
「ダ」
今度は言われる前に、俺が口にした。
若者たちが笑った。
「合ってない?」
一人が、俺の発音を真似した。
少し違う。
もっと短い。
息を抜く感じ。
「ダ」
また笑われる。
「日本語にない音なんだよ!」
当然、言い訳は通じない。
一人で仕事をすると、ツッコミを入れてくれる人がいない。
かなり困る。
何度も丸太を運んだ。
薪も運んだ。
途中から、俺と組んでいた若者が、自分の胸を指した。
名前らしき言葉を言う。
「名前?」
もう一度言う。
聞き取れない。
リィナの名前より短い。
「セラノ」
俺も自分を指した。
「セラノ」
若者が繰り返す。
少し発音が違う。
でも、通じた。
次に、もう一人が自分の名前を言う。
俺は二回聞き返した。
三回目で、たぶん覚えた。
たぶん。
作業を再開する。
丸太を運ぶ。
置く。
また運ぶ。
俺が重い方を持とうとすると、名前を教えてくれた若者が反対側へ回った。
二人で持つ。
作業が終わったとき、その若者が短い言葉を言った。
今まで聞いたものとは違う。
俺を見て。
少し頭を下げる。
「……ありがとう?」
俺も同じ言葉を返そうとした。
発音する。
二人の若者が笑った。
「違うの?」
もう一度言われる。
真似する。
また笑われる。
「おっさんより先に言葉覚えたかったのに」
口にしてから気づいた。
近くにアイドはいない。
それでも、最初に報告する相手として思い浮かんだ。
腹立つ。
昼前。
休憩らしい合図が出た。
水が配られる。
「アマ」
これは通じる。
木の器を受け取る。
喉が渇いていた。
一気に飲む。
器を返そうとしたとき、村の奥から杖の音が聞こえた。
リィナだった。
昨日の女の人と一緒に歩いてくる。
いや。
歩かされているというより、見張られている。
リィナの腕には、小さな籠があった。
中に葉や根が入っている。
「怪我人がまた働いてる」
俺は近づこうとした。
女の人が警戒する。
リィナが何かを言った。
女の人は少し考え、俺を近づけた。
「足、大丈夫?」
通じない。
自分の足を指す。
リィナは杖を持ち上げ、うなずいた。
昨日と同じ返事だ。
大丈夫ではないけど、歩ける。
そういう意味かもしれない。
リィナは地面に籠を置いた。
葉を取り出す。
何種類かに分け始めた。
同じ緑でも、形が違う。
匂いも違う。
俺には全部、草に見える。
リィナには違いが分かるらしい。
「薬草?」
俺は葉を一枚指した。
リィナがうなずいたように見えた。
別の葉を触ろうとする。
手を叩かれた。
「痛っ!」
リィナが首を横に振る。
刃物の先で、その葉を遠ざけた。
「毒?」
言葉は通じない。
でも、触るなということだけは分かった。
「現地人つよい」
口に出した。
いつもなら、便利ワードにするな、と止める声が来る。
来なかった。
少しだけ静かだった。
リィナが、俺の顔を見た。
次に、周囲を見る。
誰かを探している。
「おっさん?」
俺は左側の倉庫を指した。
荷物を積む仕草をする。
リィナは納得したらしい。
少し笑った。
「何で笑うんだよ」
たぶん、アイドが倉庫に回されたことを面白がっている。
あいつの扱いは、言葉が通じなくても伝わるらしい。
昼になり、俺は倉庫の前へ戻された。
アイドはまだ中にいた。
入口から覗く。
袋。
木箱。
壺。
干した草。
道具。
朝より、きれいに並んでいる。
重い物は下。
小さい物は棚。
似た物は同じ場所。
アイドは、木箱を動かそうとする村人へ身振りで指示していた。
「おっさん」
「おう」
「倉庫番、似合ってる」
「管理担当だ」
「勝手に整理して怒られなかった?」
「最初はな」
「怒られたんじゃん」
「結果で黙らせた」
倉庫の奥から、年配の男が出てきた。
アイドを指し、何かを言う。
アイドは胸を張った。
「褒められた?」
「おそらく」
男が、積み直された箱を指した。
次にアイドを指す。
そして、眉を寄せた。
「怒られてない?」
「褒め方が不器用なんだ」
「現実を見ろ」
「で、お前は何を覚えた」
「何で覚えた前提なの?」
「若いんだから」
「若さを翻訳機にすんな!」
俺は、丸太を置くときの言葉を口にした。
「ダ」
近くにいた村人が笑った。
「違うって」
「方言だ」
「おっさんの逃げ方を使うな!」
「俺は数字を覚えたぞ」
「本当に?」
アイドが指を一本立て、現地語らしき音を言う。
近くの男が首を横に振った。
「違うじゃん」
「地方差だ」
「村の中で地方差を発生させんな!」
俺は、さっき聞いた礼の言葉も言ってみた。
アイドが首をかしげる。
「何だそれ」
「ありがとう」
「発音が合ってればな」
「俺には通じた」
「笑われてたぞ」
「見てたの?」
「声が聞こえた」
「何だよ」
「心配したか?」
「してねえよ!」
半日しか離れていない。
なのに。
聞き慣れた腹立つ声が、少しだけ懐かしかった。
本人には絶対に言わない。
昼食は、薄いパンと豆だった。
二人で倉庫の壁に座って食べる。
俺は無意識にポケットへ手を入れた。
何もない。
「スマホか?」
「違う」
「時間を見ようとした?」
「癖だよ」
「なくても半日過ごせたな」
「過ごせたんじゃない。過ごさせられたんだ」
「依存症の第一歩は拒否だぞ」
「返ってきたら、まずおっさんを検索する」
「何を調べる」
「ハラスメント、元営業、末路」
「検索結果が俺だと思うな」
「似たようなのは出るだろ」
仕事が終わったのは、日が傾き始めたころだった。
俺は薪を運び。
アイドは倉庫を整理し。
リィナは、怪我をしたまま薬草を分けていた。
一日働いた。
それだけだ。
村人の視線は、朝より少しだけ柔らかくなった気がする。
気のせいかもしれない。
少なくとも、子供が逃げなくなった。
代わりに、少し離れたところからついてくるようになった。
「珍獣扱いじゃん」
「人気者だな」
「おっさん、笑ってみて」
「何でだ」
「逃げるか試す」
「失礼だな」
寝床へ戻る途中。
村の中央近くを通った。
小さな広場がある。
その端に、古い石が立っていた。
人の背丈より少し低い。
表面が削れ、苔がついている。
最初は墓かと思った。
アイドが足を止めた。
「どうした?」
返事がない。
石の表面には、絵のようなものが刻まれていた。
円。
その中に、人の形。
円の上には、星のような印。
反対側には、山。
木。
建物らしき線。
「何これ」
アイドは石へ近づいた。
見張りが止めようとしたが、触れずに見るだけだと分かると何も言わなかった。
「おっさん?」
「……似てるな」
「何に?」
アイドは円を指した。
次に、円の中の人を指す。
空を見上げる。
そして、俺と自分を順番に指した。
「俺たち?」
「分からん」
「じゃあ何だよ」
「分からんけど」
アイドは、石から目を離さなかった。
「空から来た人間に見える」
近くを通った老人が、俺たちに気づいた。
石を指す。
何かを言った。
短い言葉ではない。
意味は分からない。
老人は円を指した。
手で、開くような仕草をする。
次に、円の向こう側を示すように腕を伸ばした。
アイドの顔から、ふざけた色が消えた。
「門?」
アイドが日本語で言う。
老人には通じない。
それでも、もう一度円を指し、両手を左右へ開いた。
老人はうなずいた。
たぶん。
ほんの少しだけ。
「通じた?」
「少なくとも、完全には外してない」
老人は石を指した。
次に、自分の胸へ手を当てる。
それから首を横に振った。
「知らないってこと?」
「詳しくは分からん、かもしれんな」
「また、たぶんと、かもしれない」
「言葉がないんだから仕方ないだろ」
老人は腰をかがめ、杖の先で地面に絵を描き始めた。
まず、小さな四角をいくつか。
その周りを、一本の線で囲む。
「村?」
老人は今いる村を指し、うなずいた。
次に、少し離れた場所へ、もっと多くの四角を描いた。
大きな囲い。
何本も伸びる道。
人らしい印も、たくさんある。
「大きい村?」
「町じゃないか」
老人は、地面に描いた大きな方を何度も指した。
そして、石の円を指す。
大きな方を指す。
最後に、遠くへ伸びる道を杖でなぞった。
「ここでは分からない。詳しく知りたければ、町へ行け?」
「そう見えるな」
「見えるだけ?」
「今は、それで十分だ」
アイドは石を見た。
円。
人。
空。
帰る方法。
その可能性を見つけた顔をしていた。
「ニセ令和」
「何」
「ここを出られたら、町へ行くぞ」
「まだ何も分かってないだろ」
「だから行く」
アイドは、少し笑った。
今まで見たどの笑顔とも違った。
営業の笑顔でもない。
人をからかう笑顔でもない。
本当に期待している顔だった。
娘に会いたい。
現実へ帰りたい。
詳しく聞いたわけではない。
でも、分かった。
おっさんは、帰る道を探すつもりだ。
俺は、その横顔を見ても。
少しも嬉しくなかった。




