第45話 揺れる心の灯
襲撃から数日。
ヴァーミリオンの朝は、以前とは違う匂いで満ちていた。
焼けた木材の焦げ臭さ。
湿った土の匂い。
血を洗い流したあとの鉄の残り香。
その上に、煮炊きの煙と、革紐を締め直す油の匂い、干し肉を炙る香ばしさが薄く重なる。
壊れた柵を打ち直す音が、朝の空気へ小さく響いていた。
畑の端では、男たちが無言で掘り返された土をならしている。
包帯を腕に巻いたまま鍬を握る者もいる。
仮設の天幕の前では、女たちが煮出した湯を桶へ移し、子どもたちに布を配っていた。
少し離れた場所では、荷馬車から降ろされた樽や木箱が手際よく仕分けられていく。
どこも傷だらけだ。
どこも壊れたままだ。
それでも、人の手だけは止まっていなかった。
まだ小さい。
以前より減っている。
けれど確かに、灯は残っていた。
◇
屋敷の応接間の窓辺で、一人の女が紅茶を傾けていた。
艶のある黒髪を後ろで一つに結わえ、男装に近い仕立ての服を着こなしている。
線の細い顔立ちだが、その目つきには妙な鋭さがあった。
気品はある。だが、静かな令嬢というより、獲物を待つ剣士のような空気の方が強い。
窓の外、忙しなく動く村人たちを眺めながら、彼女は微笑を浮かべ言った。
「父上から面白い場所だと聞いたが、しょっぱなからなかなか楽しませて貰えた」
彼女の傍らで佇むクラリスは小さく頷いた。
「それは何よりです、アリシア様」
アリシア。
前王アデルハイドの末娘。
センバスが王都から連れてきた、“少々扱いに困る人物”である。
アリシアはカップを傾けたまま、口元だけで笑った。
「特に、あのオーガは良かったな。村ひとつ呑み込む気迫があった」
「褒める相手が少々物騒ですが」
「物騒なのは嫌いではないのでね」
さらりと言い切る。
クラリスがわずかに目を細めると、アリシアは退屈そうに窓の外へ視線を戻した。
「それで?」
「はい?」
「領主くんは、まだふさぎ込んでいるのかい?」
クラリスは少しだけ沈黙した。
「……ええ」
「なかなか見所のある男だと聞いたが、そこは減点だな、センバス」
応接間の入口付近に控えていたセンバスが、わずかに眉を動かす。
アリシアはそれに気づいたのか、気づいていないのか、頬杖をついた。
「まあ、折れかけの剣がどう戻るのかを見るのも、それはそれで一興だ」
その言い方に、感傷はなかった。
ただ、強さと弱さを値踏みする者の目があるだけだった。
◇
丘の上には、風が吹いていた。
村の全景を見下ろせるその場所に、ロシュは今日も立っていた。
左目には包帯。
顔色はまだ悪い。
立っているだけで体力を使うのか、彼の肩にはどこか疲弊が残っている。
その隣に、ロロが立っていた。
二人とも、ほとんど話さない。
眼下には、壊れた村と、直されつつある村が同時に広がっている。
折れた柵。
崩れた作業小屋。
仮設天幕。
行き交う荷馬車。
煙。
人の声。
なのに、ロシュの目には何も映っていないようだった。
「……少し、風が強いね」
ロロがそう言った。
「あぁ」
それきり、また沈黙が落ちる。
ロシュはただ見ている。
丘の上から、村を。
けれど本当は、何も見ていない。
その停止が、ロロにはひどく痛々しかった。
◇
屋敷の食堂では、重い空気のまま話し合いが続いていた。
「このままではまずいです」
最初にそう言ったのは、クラリスだった。
机の上には帳簿と被害一覧、それから補給品の不足を記した紙が広がっている。
「村の再建計画は何とか形になっています。ですが、領主様がこのまま動けないとなると、外への交渉も、内部の統制も、いずれ綻びます」
アンバーが腕を組む。
「戦力面でも同じさね。今は皆、気を張って持ちこたえてる。でも長くは続かない。前に立つ顔がいないと、人は少しずつ緩む」
「指揮系統も同様です」
ガレスが短く言う。
「現状は各自が役目を理解して動いています。ですが、最終判断を下す者が戻らなければ、いずれ現場判断のズレが出ます」
ルシアも珍しく真面目な顔だった。
「地のダンジョンも止まってはおらぬ。綻びが大きく広がった形跡は今のところないが、無為に時間を消費できるほどの余裕なぞないのじゃ。ロシュがこのままふさぎ込めば、いずれ外も内も詰むぞ」
ロロは何も言わなかった。
言えなかった。
あの丘に立つロシュの横顔を思い出すたび、簡単に「立って」とは言えなかったからだ。
そこで、今まで黙っていたレオが鼻を鳴らした。
「何を湿っぽい顔しとるんや、お前ら」
全員の視線が集まる。
レオは椅子に深く腰掛けたまま、いつもの気軽さで続けた。
「あいつの諦めの悪さは天下一や。ガキの頃から知っとる俺が保証したる」
「レオさん……」
ロロが小さく呟く。
レオは肩をすくめた。
「あいつがこれで終わるなら、最初からここまで来れてへん。今は腐っとるだけや。腐ったまま終わる男やない」
妙に、はっきりした声だった。
慰めではない。
期待でもない。
ただ、知っているから断言しているだけの声。
センバスは、その言葉を聞きながら窓の外へ目を向けた。
丘の上に、今日も若様の姿がある。
己が間に合わなかった事実。
胸の奥に沈む悔恨を、静かに噛みしめる。
だが、それでも。
今回ばかりは、立ってもらわなければならない。
◇
そして、今日もまた。
丘にはロシュとロロがいた。
風が吹く。
村から、木槌の音がする。
誰かの笑い声が、ほんの少しだけ届く。
それでも、ロシュは変わらない。
ロロがそっと横を見る。
包帯の下、伏せられた顔。
残った片目にも、あの日のまま光が薄い。
そこへ、背後から足音が近づいた。
「若様」
ロシュは振り向かなかった。
振り向く気力すらないように見えた。
センバスは二人の少し後ろで足を止め、低く問うた。
「いつまで、そうしておられるのです」
しばらく沈黙が続いた。
やがてロシュが、小さく息を吐く。
「……怖いんだ」
「何がです」
「全部だよ」
声は擦れていた。
驚くほど、弱い声だった。
「また誰かが死ぬのを見るのが怖い。守れないのが怖い。みんなで積み上げたものが壊れていく様が怖い」
ロシュは震える指で、自分の胸元を握った。
「昔からそうだ。ヴァーミリオンは、上手くいきかけると最後には全部ぶち壊れて台無しになる」
ロロが息を呑む。
ロシュは顔を上げないまま、言葉を吐き出した。
「これ以上……立ち上がって進むのが怖いんだよ」
その言葉は、涙と一緒に落ちた。
ロロはたまらず一歩近づき、そっとロシュの腕に手を添える。
「ロシュ様……」
ロシュはかすかに肩を震わせた。
「怖いんだよ、ロロ。もう、誰かが壊れるのを見たくない。自分が壊れるのも嫌だ。……でも、進まなきゃいけない。立ち上がらなくちゃいけない。そんなことは分かってる。それでも、もう――」
「いいよ」
ロロが、はっきり言った。
「戦えなくてもいい。領主じゃなくてもいい。どんな姿になっても、私はずっと傍にいる」
ロシュの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
張りつめていた糸が、そこで切れかける。
「だから……無理しなくていいんだよ」
その瞬間だった。
ぐい、と胸倉を掴まれた。
「――っ」
顔を上げる暇もないまま、頬に衝撃が走る。
乾いた音が、丘の風の中でやけに大きく響いた。
ロシュはよろめき、ロロが息を呑む。
「センバスさん!?」
ロロが叫ぶ。
「何するんですか! ロシュ様はもう十分傷ついてる! これ以上何を背負わせるんですか!」
センバスはロロを見なかった。
ただ、頬を打たれたまま呆然とするロシュを真正面から見据えていた。
「あなたは、何者なのですか」
低い声だった。
怒鳴りではない。
だが、その静けさの方がずっと重かった。
「怖いのは当然です。進めぬと思うのも当然です。折れるのも当然でしょう」
センバスの声は、少しも揺れない。
「ですが、あなたはそれで終わってよい立場ではありません」
ロシュの喉が震えた。
「……っ」
「若様だけが傷ついたのではない」
その一言が、胸の奥へ深く刺さる。
「村を見なさい。畑を直す者がいる。包帯を巻いたまま薪を運ぶ者がいる。家族を失っても、明日のために立っている者がいる。皆、怖くないわけではない。悲しくないわけでもない。それでも立っているのです」
ロロが泣きそうな顔で唇を噛む。
センバスは、そこで初めてロロへ視線を向けた。
「ロロ、お前の優しさは本物だ」
ロロの肩が揺れる。
「だが、若様をそこへ沈めるな」
「……っ」
「寄り添うのは、立ち上がってからにしなさい」
ロロは何も言えなかった。
センバスは再びロシュだけを見る。
「若様は何者です」
風が吹いた。
村から、小さく木槌の音が聞こえる。
「ただ傷ついた若者ですか」
答えられない。
「それとも、この地の当主ですか」
ロシュの指先が、わずかに震えた。
「立ち止まるのは自由でしょう。ですが、その間にも背負うものは減りません。あなたを信じ、支えようとする者たちは、今もまだ、前を向いている」
ロシュは唇を噛んだ。
血の味がした。
センバスはそれ以上、何も言わなかった。
「甘えを棄て去りなさい」
最後にそれだけを置いて、静かに踵を返す。
丘の上には、ロシュが雲一つない空を見上げていた。
◇
風の音の中で、昔の声が蘇る。
幼い頃。
まだ剣より、鍬の方が似合っていた頃。
新しく開いた畑が、魔物に踏み荒らされた日のことだ。
土は抉れ、苗は引きちぎられ、皆で作った畝は泥に沈んでいた。
「ほらな」
幼いロシュは、拳を握りしめる。
「やっぱりだ。ヴァーミリオンはいつもこうだ。何か始めても、上手くいきかけても――最後には壊れる」
隣で、バロックが頭をかいた。
「なら、やめるか?」
「……え?」
「上手くいかんからといって立ち止まれば、そこで終わりじゃ」
夕日の中、土の匂いを纏った祖父は笑っていた。
豪快で、どこか抜けていて、それでいてまっすぐな笑い。
「不貞腐れた孫に、じじいのありがたい道標をくれてやろう」
「なんだよ……ありがたい道標って」
大きな手が、乱暴に頭を撫でる。
「――夢を持って、前へ進め」
ロシュは顔を上げた。
「多くの者は、諦めを抱えて生きておる。じゃが、夢を抱いて生きようとする者はほんの一握りじゃ。何故だと思う?」
「……諦めた方が簡単だから?」
「半分正解じゃな。じゃが不正解。今日のおかずは没収じゃ」
「ふざけんな、くそじじい!」
脛を蹴られながらも、バロックは笑った。
「正解はな――苦しいからじゃ」
「苦しい?」
「人はのう、楽な方へ流れる生き物じゃ。諦める方が、よほど簡単じゃからな。じゃが夢を抱いて進むとなれば、逃げることはできん。現実と向き合い続けるしかない――だから苦しい。だから、選ぶ者が少ないんじゃ」
バロックは、畑の向こうへ視線を向けた。
「ロシュ。どれだけの苦難があろうと、決して立ち止まるな。下を向くな」
力強い言葉。
「道が続く限り、夢を持って歩み続けろ」
諦めない心。
「そのひたむきな姿は、いずれ誰かの心に火を灯し、お前を支え、また一歩を踏み出させる力になる」
声が、胸の奥で重なる。
「――お前はいずれ、この地を治める。その先の景色を、幸福で満たしたいと夢願うなら」
バロックは眩しい笑顔をロシュに向けた。
「諦めるな。夢を持って前へ進め」
◇
ロロがそっと顔を上げた時、ロシュの表情はまだ暗かった。
まだ、立ち上がれてはいない。
まだ、怖さも消えていない。
それでも。
完全な虚ろさだけは、ほんの少しだけ薄れていた。
ロロは何も言わなかった。
ただ、その小さな変化を見逃さないように、そっと息をついた。
◇
夜。
自室は静かだった。
屋敷の中はみなが寝静まり、静寂が訪れていた。
ロシュだけは寝台の端に腰掛けたまま、片目で暗がりを見つめている。
まだ怖い。
まだ進めない。
また失うかもしれない。
また守れないかもしれない。
それでも、止まったままでいいわけでもない。
祖父の言葉。
センバスの言葉。
ロロの涙。
村で動き続ける人の手。
頭の中で、全部が重なり合っていた。
「……くそ」
誰にともなく、そう呟く。
「俺は、どうすればいいんだよ」
その時だった。
部屋の隅に、黒い霧が滲んだ。
冷気が走る。
空気が沈む。
ロシュは息を呑み、ゆっくりと立ち上がった。
霧は集まり、輪郭を持つ。
重厚な黒鎧。
大剣。
地鳴りみたいな圧。
見間違えるはずもない。
「……初代」
黒騎士はしばらく無言でロシュを見下ろしていた。
その圧だけで、胸の奥が重くなる。
だが、恐怖で膝は崩れなかった。
やがて、低い声が部屋を揺らす。
「若きヴァーミリオンよ」
たった一言。
だが、その重さは何より大きかった。
「貴様に、伝えることがある」
黒い兜の奥から向けられる視線を、ロシュは残った片目で見返した。
怖い。
まだ、怖い。
それでも、目は逸らさなかった。
夜の静寂の中、黒騎士の影が部屋を満たしていた。




