第46話 もう一度、立つ
黒い鎧が、静かにこちらを見下ろしていた。
夜の自室。
蝋燭の火だけが揺れている。
窓の外はまだ暗い。屋敷の中も静まり返っていた。
目の前の存在だけが、この場に不釣り合いだった。
「貴様に、伝えることがある」
次の瞬間、初代が一歩だけ前へ出る。
反射的に身構える間もなかった。
黒い籠手が、俺の胸元へそっと触れる。
その瞬間だった。
ぶわっ、と黒い霧が噴き上がった。
「――っ!」
視界が塗り潰される。
息を吸う間もなく、体がどこかへ引きずられる感覚。
床が消え、空気が変わり、耳鳴りのような音だけが残る。
そして。
気づけば、俺は森の中に立っていた。
◇
夜気が頬を撫でる。
湿った土の匂い。
木々の匂い。
焦げた草の匂い。
見覚えがあった。
「……ここは」
足元には砕けた石。
抉れた地面。
白く焼けた草。
ルシアが封じられていた祠の跡地。
すべての始まりの場所だった。
ゆっくりと振り返る。
初代が、少し離れた位置に立っている。
月明かりに照らされた黒鎧は、以前よりもなお重く、なお遠く見えた。
けれど今は、その姿が“絶望そのもの”には見えなかった。
あれはたぶん、ずっと立ち続けてきた者の背中だ。
初代が、兜の奥から俺を見据える。
「迷いがあるな」
低い声だった。
「……」
「覚悟を決めかねている」
言い返せなかった。
図星だったからだ。
前へ進むと決めたつもりだった。
もう一度立つと、心のどこかでは思っていた。
だが本当に腹の底から覚悟を決めたかと言われれば、まだ揺れている。
怖い。
また失うのが怖い。
また守れないのが怖い。
初代は、そんな俺の胸の内まで見透かしたように、大剣を抜いた。
重い金属音が、静かな森に響く。
正眼に構えた初代の威圧が、一気に膨れ上がる。
「示せ」
ただ、その一言だけ。
次の瞬間、黒い巨体が消えた。
「――っ!」
視界が閃く。
大剣が、真上から振り下ろされる。
受けられない。
避けられない。
死ぬ。
そう確信した。
あの時みたいに。
オーガに左目を潰された、あの瞬間みたいに。
けれど――
不思議と、“もうどうでもいい”とは思わなかった。
脳裏に浮かぶ。
ロロの泣き顔。
センバスの張り手。
祖父の大きな手。
丘の上から見た、壊れた村。
それでも懸命に生きようとする領民達。
俺を支え、立たせようとしてくれた、たくさんの顔。
死んでもいいなんて、もう思えない。
終わりたくない。
まだ、終われない。
「――っ!」
俺は後ろへ退かなかった。
活路は前へ。
頭で考えるより先に、体が動いた。
振り下ろされる大剣の内側へ、ほとんど飛び込むように踏み込み、俺は右拳を初代の胸甲へ叩きつけた。
鈍い音。
鎧を殴った痛みが拳へ突き抜ける。
だが、その一瞬で十分だった。
大剣の軌道が止まり、森に静寂が落ちた。
俺は荒い息を吐きながら、殴った拳を震わせたまま初代を睨む。
初代は、ほんのわずかに兜を傾けた。
「……進めたな」
短い一言だった。
だが、その声には、さっきまでとは違う重みがあった。
試されたのだと、そこでようやく分かった。
以前の俺なら、たぶん躊躇った。
あるいは、心のどこかで「ここで終わるならそれでもいい」と思っていたかもしれない。
だが今は違う。
怖くても。
痛くても。
死にたくはなかった。
「ようやく、死者の目から生者の目に戻れた」
初代が言う。
「……あんた、やり方が滅茶苦茶すぎるだろ」
息を整えながら吐き捨てると、初代は何も答えなかった。
ただ、その沈黙が、ある意味で肯定のようにも思えた。
◇
しばらくして、初代がゆっくりと背を向けた。
「俺もまた、貴様と同じだった」
その一言に、俺は目を見開く。
「大切なものを奪われ、心が壊れかけた」
静かな声だった。
抑揚はない。
だが、そこに込められた重みだけは十分に伝わってくる。
「……」
「すべてを投げ捨て、終わらせることもできた」
そこで、黒い背中がわずかに止まる。
「だが、それは許されなかった」
低い声が続く。
「まだ守るべきものが残っていたからだ」
その言葉は、不思議なくらいすとんと胸に落ちた。
全部失ったわけじゃない。
まだ残っているものがある。
だから終われない。
そういうことなのだろう。
初代は、ゆっくりと振り返る。
「お前は、ルシアより与えられた力を、まだ真に扱いきれていない」
「……何?」
「武具に宿した欠片ばかりを振るい、それを力だと思っている」
思わず眉をひそめる。
「スキル武具は、確かに強い。あれがあったからここまで来れたんだぞ」
「無論、それは否定はしない」
初代は即答した。
「あれはルシアの犯した大罪を引き継いだ契約の果てに得たヴァーミリオンの力だ」
そこで一拍。
「支払った代償には、当然それに見合う対価が支払われる。貴様の創り出す武具は、力の外側をなぞっているに過ぎない」
森の空気が変わる。
「契約者たる者、自らが武具に制約を科せ。貴様が思うほどに、あの武具は大きな可能性を秘めている」
その言葉に、息を呑む。
自らが、武具に制約を科す。
その言葉に、あの時のルシアの言葉が蘇った。
『なら、その武具に制約をかせばいいのじゃ』
『わらわと契約しリスクを冒している者より、その恩恵に預かるだけの者が有利など契約としてあり得んじゃろ』
『決して万能ではないぞ。契約の理に沿うものしか刻めぬでな』
初代は大剣を地へ突き立てた。
ご、と重い音が大地の奥へ沈む。
次の瞬間。
地面が唸った。
「っ!?」
祠跡の先、森の一角が大きくせり上がる。
土と岩が、まるで意志を持つように持ち上がり、巨大な壁を形作っていく。
人の力でどうこうできる規模じゃない。
小さな砦でも築けそうなほどの質量が、一瞬で目の前に現れた。
初代が、その壁へ向けて大剣を振るう。
ただ、一閃。
なのに次の瞬間、岩壁は粉々に砕け散るのではなく、まるで最初から継ぎ目が決まっていたみたいに、いくつもの塊に分かれて崩れ落ちた。
派手な破壊ではなかった。
だが、それが逆に恐ろしかった。
圧倒的な出力。
それを当たり前みたいに制御している。
次元が違う。
「……なんだよ、それ」
かすれた声でそう言うのがやっとだった。
初代は大剣を肩へ担ぐ。
「ルシアから与えられた力は、武具一つに閉じ込められたスキルで満足するようなものではない」
「……」
「貴様はすでに、何者にも奪わせぬための力を与えられている」
低く、重く、確かに響く声だった。
「足りぬのは真の意味での覚悟だけだ」
その一言が、胸の奥へ深く食い込んだ。
覚悟。
そうだ。
俺には、それが足りなかった。
守れなかった痛みごと、もう一度前へ出る覚悟。
この地の当主として、誰より前に立つ覚悟。
また奪われるかもしれなくても、それでも灯を守る覚悟。
俺はずっと、心のどこかで線を引いていた。
また失うのが怖かった。
また守れないのが怖かった。
ようやくこの手で掴みかけた景色が、無惨に壊されるのを見るのが怖かった。
だから俺は、踏み込みきれなかった。
守るべき時に、守り抜くためのすべてを出し切れなかった。
「貴様の往く道は、まだ道半ばだ」
初代が言う。
「覚悟を決めたのなら、再び歩め」
言葉が、胸の奥で燃え始める。
夜の森が、わずかに風を鳴らした。
初代はしばらく俺の目を見つめ、黙っていたが、やがて低く言った。
「……良き眼差しだ。若きヴァーミリオンよ。真の継承者たれ」
◇
初代の体が、ゆっくりと黒い霧へ崩れ始める。
「待て!」
思わず声を上げた。
「一つ聞かせろ」
霧の向こうで、初代の気配が止まる。
「あんたほどの力があるなら、なんでルシアとの契約を果たさないんだ。なんで今もこんな形で……」
そこで言葉が詰まる。
戦い続けているのか。
初代の気配は、しばらく何も答えなかった。
やがて、低い声だけが返る。
「始まりの魔法使いの弟子ども……あれらを、放置できぬ」
ティエラ。
あの化け物じみた魔法使いたち。
「ルシアとの契約を蔑ろにしてでも、俺が望み選んだ道だ」
「初代……」
「いずれ、お前に真実を語ることもあろう」
黒霧がさらに濃くなる。
「行け、若きヴァーミリオン」
最後の声は、以前よりもずっと近く感じた。
「次は、貴様の戦いだ」
その言葉を最後に、初代の姿は完全に霧へ溶けた。
残されたのは、夜の森と、静かな祠跡だけだった。
けれど俺の胸の中には、確かな灯が残っていた。
◇
村へ戻る頃には、空が白み始めていた。
東の空が薄く明るい。
夜と朝の境目の色だ。
森の出口近くまで来たところで、聞き慣れた声が飛んだ。
「ロシュ様!」
ロロだった。
その後ろに、センバスもいる。
二人とも、明らかに俺を探していた顔をしていた。
ロロは駆け寄りかけて、途中でぴたりと足を止めた。
たぶん、気づいたのだろう。
俺の顔に。
いや、瞳に。
昨日までの俺とは、少しだけ違う何かが戻っていることに。
「……ロシュ様」
ロロの目が、じわりと潤む。
センバスは何も言わず、ただ静かに俺を見た。
やがて、その目元がほんのわずかに和らぐ。
「ようやく、若様らしい目に戻られましたな」
その一言に、思わず苦笑が漏れた。
「……心配かけた」
まずロロに向けて言う。
「ごめん」
「う、ううん……」
ロロは首を振った。
でも、目尻にはまだ涙が残っている。
「センバスにも」
「謝罪より、戻られたことを喜びましょう」
相変わらず、この人はそういう言い方をする。
俺は一歩、ロロの方へ近づいた。
「ロロ」
「うん」
「昨日、お前の言葉に救われた」
ロロが目を見開く。
「……でも」
ちゃんと言わなくちゃいけない。
「甘えたまま、止まったままじゃ終われない」
ロロは少しだけ俯いた。
それでも、ちゃんと聞いてくれている。
「だから、もう一度前へ出る」
そして続ける。
「それでも、これからも傍にいてくれ」
ロロが、泣き笑いみたいな顔になる。
「……うん」
小さく、でも確かに頷いた。
そのやり取りを見ていたセンバスが、小さく息を吐く。
あれはたぶん、安堵だ。
「丘へ行きますか」
その言葉に、俺は頷いた。
◇
三人で、あの丘へ登る。
朝日が昇り、光が村を照らしていく。
壊れた柵。
補修中の屋根。
仮設の天幕。
荷車。
炊き出しの煙。
朝から働く人影。
まだ傷だらけだ。
立派でもない。
余裕なんて、どこにもない。
でも。
ゼロじゃない。
灯は消えてなんかいない。
「……見えるな」
ぽつりと呟く。
ロロが隣で頷く。
「うん」
センバスは何も言わない。
ただ、黙って前を見ていた。
俺は村を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
「もう、何も奪わせない」
朝日に向かって、はっきりと言った。
そのまま振り返る。
すると、そこにはもう何人もの仲間たちがいた。
少し離れた位置で、腕を組むアンバー。
槍を持ったまま静かに立つガレス。
高い岩の上でこちらを見るクレーネ。
無言で頷くベニー。
胡散臭い笑みのレオ。
帳簿を抱えたクラリス。
真剣な目で立つトマ。
荷袋を担いだバルド。
渋い顔のモラン。
そして、偉そうにふんぞり返るルシア。
誰も余計なことは言わなかった。
ただ、俺を見ていた。
待っていてくれたのだと分かった。
なら、もう止まれない。
俺は一歩、前へ出る。
「村の復興」
もう一歩。
「そして、第三層の攻略を始めるぞ」
その言葉に、空気が動いた。
朝日が、丘の上の俺たちを照らしている。
心の傷は消えない。
それでいい。
消えないまま、前へ進む。
それが今の俺の答えだった。
第一部完
ここまで読んで頂きありがとうございます。
ロシュの物語はここで、打ち切り、俺達の冒険はこれからだENDとなります。
理由は、作者のモチベーション低下です。
読まれていない作品の続きを書くのは精神的にくるものがあるので。
続きが気になるという読者さんがいるか分かりませんが、ここで打ち切りとさせてもらいます。作者の力不足です。申し訳ありません。




