第43話 血路の果て
息が、もうまともに続かない。
肺が焼ける。
胸の傷が脈打つたび、身体の芯が軋む。
血を流しながら、それでも前へ。
痛みで歩みが鈍っていく。
限界が近いのは、分かっていた。
それでも足は止まらない。
止まった瞬間、何もかもが終わる。
「……っ、らぁぁぁっ!」
踏み込みと同時に踏震を解放する。
前方へ広がった衝撃が、迫っていた森狼どもの足をまとめて浮かせた。
そこへ剣を振り抜く。
二体まとめて裂ける。
さらに横から飛び込んできた小型魔物を蹴り飛ばし、そのまま踏破で前へ抜ける。
村の防衛線はもう、きれいな線じゃない。
あちこちが膨らみ、綻び、そのたびに誰かが埋めている。
押し返している、というより、穴を塞いでいる感覚だった。
「若様がまだ前にいるぞ!」
「通れるうちに下がれ!」
「急げ!」
後ろで誰かが叫んでいる。
声は聞こえる。
だが、何を言っているのかまでは頭に入ってこない。
目の前の敵を斬る。
次を叩き潰す。
その次が来る前にまた踏み込む。
それだけを繰り返す。
血で濡れた視界の端を、矢が抜けた。
クレーネだ。
少し高い位置から、俺の周りへ回ろうとする個体だけを正確に落としている。
その逆側では、アンバーが必死の形相でオークの肩口を戦斧で砕いていた。
ガレスが、一瞬だけ俺の視界に入る。
村の中央側で魔物の流れを曲げていた。
ロロの声が遠くで聞こえる。
「――――っ!!」
聞こえない。
ただ、ロロの悲痛な表情だけが、俺の脳裏に焼き付く。
この村を繋ぎとめるために、みんなが戦っている。
やっと――小さな灯が灯ったと思えたのに。
ロロと見た丘の景色。
あれが、永遠であればいいと願った。
小さな幸福すら、望んではいけないことなのか。
息を吸う。
喉の奥に、血の味が広がった。
「……もう、俺から奪うなよ」
低く吐き捨て、俺は次の群れへ突っ込んだ。
◇
その時、群れの流れが変わった。
さっきまでただ雪崩れ込んでいた魔物どもが、急に一方向へ寄った。
いや、違う。
何かを避けるように、道を空けたのだ。
「……なんだ」
足を止めたわけじゃない。
だが、嫌でも分かった。
来る。
魔物の山の向こうから、黒い巨影が姿を現した。
オーガ。
それも、ただのオーガじゃない。
でかい。
肩幅が異様だ。
右腕だけが不自然に膨れ、岩でもぶら下げているみたいに重たく見える。
皮膚は黒ずみ、ところどころ甲殻めいた節が浮いていた。
何より気味が悪いのは、そいつが前へ出た瞬間、周囲の魔物が一斉に流れを変えたことだ。
森狼は左右へ散る。
小型の群体はそいつの足元を避ける。
後ろのオークどもまで、わずかに間合いを空けている。
核だ。
こいつがいるから、群れの圧が途切れない。
「……お前かよ」
吐き捨てるように言うと、巨影が低く喉を鳴らした。
次の瞬間には、奴は地を蹴っていた。
オーガ変異種の腕が振り上がる。
太い。
重い。
だが遅い。
「踏破、地踏、解放!」
俺も同時に一気に懐へ潜り込む。
膝裏へ斬り込み、そのまま返す刃で脇腹を狙う。
入った。
だが浅い。
肉が裂け、血も飛ぶ。
それでも、巨体は止まらない。
巨腕が唸る。
裏拳みたいに薙がれた一撃を、身を低くしてぎりぎりでかわす。
通り過ぎた腕の風圧だけで頬が裂けた。
「踏震、解放!!」
足元へ衝撃を叩き込む。
地が揺れ、オーガ変異種の軸がわずかに浮く。
「鎚踏、震打、解放!!」
そこへ最速の突きを叩き込む。
ぐちゃりと鈍い音。
肋の肉を抉る手応え。
これも浅い。
僅かに身を捩り、致命を避けやがった。
すぐさま二の太刀を振り抜く。
だが、その前に胸がきしんだ。
「っ……!」
傷が開く。
肺の奥から焼けるような痛みが走る。
呼吸が一瞬止まり、その一拍が命取りになる。
オーガ変異種は、その隙を見逃さなかった。
次の瞬間、暴風のような巨腕が横薙ぎに来た。
かわした、はずだった。
だが脇腹を掠めただけで、身体が大きく弾かれる。
掠っただけでこれか。
長引けば負ける。
そう悟った。
「ぐっ……!」
冗談みたいに土を転がる。
肺の中身が押し出され、視界が白く瞬いた。
まずい。
掠っただけで、重いダメージを負わされた。
立て。
立たなきゃ終わる。
無理やり体を起こす。
その向こうで、オーガ変異種が獲物を甚振る獣みたいに喉を鳴らしながら前へ出る。
村の灯が、視界の端で揺れた。
壊された作業場。
踏み荒らされた畑。
血に濡れた地面。
そして、あの少年の顔。
「……にやつくんじゃねぇ」
喉の奥から、声にならない音が漏れる。
まだ終われない。
こいつを止めなきゃ、また奪われる。
俺は歯を食いしばり、再び地を蹴った。
◇
今度はオーガ変異種の方が先に動いた。
巨体に似合わぬ速さで距離を詰める。
膨れ上がった片腕が、頭上から叩き潰すように落ちてくる。
身を捻る。
かわす。
そのまま脇へ潜り、踏破の勢いで横腹へ食い込む。
「ここだぁ!!」
横薙ぎに振るった刃が深く入る。
血が吹く。
もう一歩、そこからさらに踏み込み、次で決める。
すべてのスキルをまとめて叩き込む。
だが、その瞬間に視界へ血が走った。
血か、汗か。
右か左か、一瞬だけ分からなくなる。
そのわずかなズレで、距離感を見誤った。
「――っ」
わずかだった。
ほんとうに、それだけだった。
次の瞬間、オーガ変異種の肘が顔面を薙いだ。
世界が弾ける。
左目に焼けた鉄を突き込まれたみたいな痛み。
視界の半分が、赤く潰れる。
足元が消えたみたいに膝が落ちた。
「が……っ、ぁ……!」
距離が分からない。
地面が近いのか遠いのか、一瞬理解できない。
左目が、見えない。
その事実を理解した瞬間、背筋が冷たくなった。
俺はここで終わるのか……?
ああ……そうだな。
いっそ、このまま終わってしまえた方が楽なのかもしれないな。
もう、何も見たくなかった。
壊れるものも、奪われるものも、間に合わない現実も。
こんなものばかり見続けるくらいなら。
「ロシュ様あぁぁ!!」
ロロの絶叫が木霊した。
諦めるな。
そう、語りかけられた気がした。
「……ぁあ」
その声に、消えかけた心の火が僅かに燻る。
俺は潰れた左目を閉じたまま、残った右目だけで相手を捉える。
「……まだだ」
呼吸が乱れる。
胸が痛む。
顔から血が流れ続ける。
それでも、立とうとした。
だが膝が落ちる。
「は、ぁ……っ」
剣を杖代わりにしても、体が支えきれない。
呼吸をするだけで胸が焼ける。
片目はもうまともに機能していなかった。
スキルの残数を確かめる余裕すらない。
だが感覚で分かる。
もう残っていない。
少なくとも、この場をひっくり返せるだけの力は。
オーガ変異種が、血を垂らしながらこちらを見下ろしている。
その向こうでは、まだ魔物の群れが蠢いていた。
ロロたちは来ようとしている。
だが遠い。
途中の魔物が多すぎる。
「……ふざ、けんな……」
終われるわけがない。
それなのに、体が動かない。
オーガ変異種がさらに一歩、前へ出る。
周囲の魔物も、それに合わせて押し寄せる。
俺は歯を食いしばり、立とうとした。
だが膝が上がらない。
次の瞬間、森狼が一斉に地を蹴った。
来る。
その時だった。
遠くから、地鳴りが聞こえた。
最初は何の音か分からなかった。
だがそれはすぐ、はっきりした形を取る。
蹄だ。
何頭も。
いや、何十、何百と重なる、重い蹄音。
魔物どもの動きが一瞬鈍る。
次の瞬間、戦場の横腹を何かが引き裂いた。
◇
轟音。
土煙が上がる。
槍衾が突き出される。
軍馬の列が、魔物の群れへ真横から食い込んだ。
森狼が跳ね飛ばされ、オークが踏み潰され、群体魔物が土ごと抉られる。
整然とした突撃だった。
ばらけた防衛線ではない。
訓練された軍の、鋭利な横槍。
「……っ」
俺は片目だけで、滲む視界の先を見る。
旗が見えた。
王都騎士団の旗。
その列を先導する、一騎の騎馬。
年老いてなお背は曲がらず、槍を持つ姿に一切の迷いがない。
老執事。
だが今その姿は、執事なんかじゃなかった。
紛れもなく、一人の騎士だった。
「若様――!」
その声が、戦場の喧騒を貫いた。
俺の視界が大きく揺れる。
血と土煙の向こうで、センバスが馬上から槍を振るい、魔物の群れを裂いていく。
その後ろでは王都騎士団が楔みたいに突き刺さり、狂騒そのものへ風穴を開けていた。
間に合った。
その事実だけを、ぼんやりと理解する。
だが、戦いはまだ終わっていない。
火も、悲鳴も、魔物の唸りも消えてはいない。
意識の端で、センバスの姿だけを捉えながら、俺の身体はゆっくりと前へ傾いでいった。




