↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祠の悪魔と、貧乏貴族 〜屋敷の地下ダンジョンと悪魔の商店で、領地再建はじめます〜  作者: ななほし


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/46

第40話 小さな灯

 朝の空気が、少しだけ変わった気がした。


 屋敷の玄関を出た瞬間、俺は思わず足を止める。


 土の匂い。

 家畜の匂い。

 朝露を含んだ草の匂い。


 それらに混じって、今は別のものがあった。


 干し肉を炙る香ばしい匂い。

 革をなめす油の匂い。

 煮炊きの煙。

 汗と、人の気配。


「……前より、匂いが違うな」


 隣を歩くロロが、小さく笑った。


「うん。最近、朝から人が多いもんね」


 屋敷の前庭には、すでに何人もの人影があった。

 木箱を運ぶ者。

 水樽を転がす者。

 縄を束ねる者。

 帳面を抱えて走る者。


 少し離れた場所には簡易の天幕まで張られている。

 荷車も何台か止まっていて、村の中を出入りする人の数は、以前とは比べものにならなかった。


「ロシュ様、無理しないでね」


 ロロが横目で俺を見る。


「散歩はいいけど、まだ本調子じゃないんだから」


「分かってるよ」


 そう返しながらも、胸の奥に鈍い痛みが残っているのは確かだった。


 歩ける。

 外にも出られる。

 けれど、少し深く息を吸うだけで、胸の奥に鈍い痛みが残っている。


 それでも、部屋の中で寝ているだけでは分からないものがある。


 屋敷の前を抜け、村の方へ歩く。


 道沿いの空気も、少し前とは変わっていた。


 作業場の前で、村のおば様たちが肉を干している。

 酒場の裏では、樽がいくつも並べられていた。

 空き地の一角には、簡易の宿営地まででき始めている。


「ほんとに……増えたな」


 思わず呟くと、ロロも頷いた。


「忙しいけど、ちょっと楽しそうだよ。みんな」


 実際、その通りだった。


 もちろん、余裕があるわけではない。

 村は相変わらず貧しい。

 屋敷だって立派とは言えない。


 けれど、止まっていたものが少しずつ動き出している。

 それが、朝の匂いだけで分かった。


     ◇


 村の広場の近くでは、干し肉作りがすっかり一つの仕事になっていた。


「ロロちゃん、こっち味見しておくれ!」


「はーい!」


 おば様たちに呼ばれ、ロロが駆け寄っていく。

 木串に刺された魔物肉を少しだけ齧り、真剣な顔で頷いた。


「うん、こっちはいい感じ。でも、こっちはもうちょっと塩を弱くした方が食べやすいかも」


「やっぱりそうかい」


「あと香草を少し増やしてもいいかも」


「なるほどねぇ……でも、香草の残りがちょっと心もとないんだよ」


「次の便で多めに回してもらおうかな」


 少し離れたところで、その様子を見ていたレオがにやりと笑った。


「よう見とるやろ、ロロちゃん」


「お前か」


「おう。寝とけ言うたのに出てきよったんか」


「大分良くなったしな。寝てばっかりも嫌なんだよ」


 レオは肩をすくめる。


「まあ、その気持ちは分からんでもないけどな」


 そう言いながら、干し肉の山を指した。


「これ、かなり評判ええで。補給にも売りもんにもなる。最近は村の連中もコツ掴んできたし、量が安定し始めとる」


「そんなにか」


「そんなにや。親父がもっと流せって、せっついてくるぐらいやからな」


 そこへクラリスも帳簿を抱えて現れた。


「数字でも出ています」


 淡々とした口調で、帳面を開く。


「ここ数日で村へ落ちた金は、以前の月単位の取引量をすでに上回っています。もちろんまだ小規模ですが、流れとしては十分に良い傾向です」


「もうそこまで出てるのか」


「はい。干し肉、皮の下処理、宿営地の整備、荷運び補助。村人へ直接支払われる仕事が増えています」


 その横で、広場の端では子供たちが干し肉を齧りながら笑っている。


「うまーっ」


「ロロ姉ちゃんの特別だぜ。うまいに決まってるじゃん」


 何でもない会話だった。

 だが、その数字が“暮らしの変化”として目の前にあるのだと、そこでようやく腹に落ちた。


「ただし」


 クラリスが紙をめくる。


「良いことばかりではありません。宿営地が少し手狭です。水と薪の消費も増えていますし、食料加工場も今の規模では長く持ちません」


 レオも頷いた。


「塩も香草も、今のままやと足りん。伸びとるけど、まだ細い橋の上や」


「……それでも、橋にはなってる」


 俺がそう言うと、クラリスはほんのわずかに目を細めた。


「ええ。ようやく、ですね」


 広場の端では、肉を干す者たちの笑い声が上がっていた。

 景色そのものが、少しずつ変わり始めている。


     ◇


 昼前、屋敷の裏手にある訓練用の空き地で、俺は木剣を持っていた。


「だから駄目だって言ったのに」


 背後でロロが呆れた声を出す。


「素振りくらいなら平気だよ」


「その台詞、絶対平気じゃない人が言うやつだよ」


 アンバーも腕を組んで見ていた。


「一応言っとくけど、あんた今、前よりは動けるってだけだからね」


「分かってる」


「分かってる奴は、その顔しないんだよ」


 俺は苦笑した。


 実際、その通りだった。


 軽く構える。

 踏み込みはしない。

 肩と肘だけで振る。

 その程度なら、何とかなる。


 ――そう思ったのだが。


「っ……」


 二度目の振り下ろしで、胸の奥がきしんだ。

 三度目で痛みがはっきり走る。


 顔をしかめたところで、アンバーが木剣を取り上げた。


「終わり」


「まだいける」


「いけないよ」


 アンバーはあっさり言う。


「今あんたが無茶して傷をこじらせたら、前線だけじゃなく後ろもまとめて止まる。そこ分かってんのかい?」


 言い返せない。


 二層は抜けた。

 だが三層がある。

 ティエラもいる。

 時間だって残酷なくらい限られている。


 それなのに、自分だけが前へ出られない。

 誰かを守るための剣を握っているはずなのに、その剣を今は満足に振れない。


「……分かってる」


 低く答えると、アンバーは少しだけ声音を和らげた。


「なら、今は無理しないことも仕事だよ」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないから言ってるのさ」


 そこで、いつの間に来ていたのか、ルシアが近くの柵に腰かけていた。


「傷が疼くのは、生きておる証拠じゃ」


「慰めになってるようで全然なってないぞ」


「そうかえ?」


 悪びれず首を傾げる。


「おぬし、前へ出られぬことに苛立っておるのじゃろうが、今この流れを止めぬことの方がよほど重要じゃと思うがの」


 俺は黙る。


「勢いがついたのなら、その勢いをさらに大きくする。足元を広げ、後ろを厚くする。そうすれば次に前へ出た時、今までより遠くまで届くはずじゃ」


 ルシアは小さく鼻を鳴らした。


「一人で斬り開く道より、大勢が通れる道の方が価値がある時もある。今は、そちらを作る時じゃ」


 悔しいが、それも正しい。


 俺はしばらく黙ってから、木剣をアンバーの手へ戻した。


「……この勢いは止めない」


 誰にともなく言う。


「もっと上を目指すために、今は無理しないよ」


 アンバーがにやりと笑う。


「よし。その顔なら悪くないね」


     ◇


 夕方になると、村のあちこちに灯が増えた。


 作業小屋の前。

 簡易宿営地の脇。

 酒場の窓辺。

 炊き出し場の竈。


 以前なら、日が落ちるころには村は静かになっていた。

 今は違う。


 人がいて、火があって、声がある。


 まだ小さな灯だ。

 派手でも、立派でもない。

 けれど、それがぽつぽつと増えている。


 俺は村の全景が見える小高い丘に登り、その灯りを見下ろしていた。

 隣にはロロが立っている。


「前より、明るいね」


「そうだな」


「なんか、不思議」


「何が?」


「同じ村なのに、違う場所みたい」


 しばらく、その灯を見つめた。

 荷車の傍で笑う声。

 鍋を囲む人影。

 酒場の窓から漏れる賑わい。


 全部、ほんの小さな営みだ。

 だが、それで十分だった。


「……こういうのが欲しかったんだよ」


 ぽつりと漏らす。


 ロロが、ゆっくり頷いた。


「こういうの?」


「飯の匂いがして、誰かが火を囲んでて、仕事終わりに笑ってて。明日も何とかなるって思えるやつだ」


 ロロは少しだけ笑った。


「うん」


「大きな城とか、派手な暮らしとか、そういうのも悪くないんだろうけどさ。俺は、まずこういう灯を増やしたかった」


 ロロは少しだけ目を細めた。


「もう、なり始めてるよ」


「まだ小さいけどな」


「でもゼロじゃない」


 その言葉に、俺はもう一度村を眺めた。


 ゼロじゃない。

 夢物語のままだったものが、ようやく地に足をつけ始めていた。


     ◇


 その夜。


 森の奥は、異様な静けさに包まれていた。


 風が木々を揺らす音だけが、かすかに響く。

 虫の声はない。

 鳥も鳴かない。


 その闇の中に、狼たちがいた。


 何頭も。

 円を描くように散り、じっと一点を見ている。


 その視線の先に立つのは、ティエラだった。


 幾何学模様のローブをまとい、一匹の狼を見つめていた。

 琥珀色の瞳は、笑っているようで、少しも温度がなかった。


「へえ」


 狼の目を覗き込み、ティエラがくすりと笑う。


 村の外縁。

 柵。

 人の流れ。

 揺れる火。


 全部が頭の中へ流れ込んでくる。


「灯が増えた」


 その声は、妙に嬉しそうだった。


「まだ小さいのに、ちゃんと希望の形をしてる」


 ティエラは、遠くヴァーミリオンの方角を見た。


「こういうのが、一番きれいに壊れるんだよね」


 次の瞬間、背後の地面がぐにゃりと膨れた。


 土が液状に盛り上がる。

 ひび割れる。

 その下から、異形の輪郭がいくつも持ち上がってくる。


 数は多い。

 だが、全容はまだ闇の中だ。

 月明かりの下で、ただ輪郭だけが不気味に揺れている。


 狼たちが低く喉を鳴らした。


 ティエラは振り返り、その群れを見て笑う。


「もう少しだけ、灯しておくといいよ」


 琥珀色の瞳が、遠くヴァーミリオンの方角を映した。


「その方が、消えた時の闇がよく映えるから」


 森は静かだった。

 静かすぎる夜の底で、異形たちはただ命令を待っていた。

 その沈黙そのものが、もう災厄の足音みたいだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。