第4話 地下迷宮と、黒き祖
門の向こうは、湿った石の匂いに満ちていた。
冷気が喉を撫でる。肺に入る空気が重い。地上の空気とは明らかに違う。
一歩踏み込むごとに、靴裏が吸い付くような湿り気を返してくる。
屋敷の地下にあるはずなのに、そこはもう別の土地のようだった。
「……いよいよか」
自分を落ち着かせるように、俺は息を吐いた。
「第一層は低級の魔物しか湧かぬ。おぬしら程度の力でもやれるはずじゃ」
ルシアが言う。
「“はず”って言ったな今」
「保証はせぬ。ちなみにわらわは戦闘はできぬのでな」
「悪魔なのに?」
「わらわはただの可憐でお茶目な悪魔じゃからな。暴力など野蛮な真似はできぬ」
かわいらしくポーズをとって、そんなことを宣う悪魔。
こいつの話は半分に聞いておいたほうがよさそうだ。
邪な感じはしない。だが、どこか後ろめたい感情が読み取れる気がする……。
まあ、今そんなことを考えても詮無きことだろう。
俺は前に進むと決めたのだから。
石の通路は驚くほど整っている。崩落もなく、壁面は滑らかだ。自然洞窟というより、何者かが“設計した空間”に近い。
足音がやけに綺麗に反響し、そのたびに自分たちが地中深くへ飲まれていく感覚が強くなる。
「わらわのおかげで、ここの【地】の概念核は安定しておるからの。このダンジョンは暴走せぬ」
他のダンジョンと違い、うちの領地に魔物が溢れ出ない理由。
それが“この地に縛られた悪魔”の副産物とは、なんとも皮肉だ。
やがて、最初の魔物が現れた。
床を引っ掻く音。
低い唸り。
曲がり角の奥から、角を持つ猪型の魔物が姿を現す。
「グラウンドボアじゃ」
突進。
石床を砕きながら一直線に迫る。
愚鈍に見えて、その重みは冗談ではない。まともに受ければ骨ごと持っていかれそうだった。
頭では分かっていても、実物を前にすると脚が一瞬すくむ。
俺はショートソードを構え、一呼吸。
(猛進Ⅰ、解放!)
一歩目が爆ぜた。
視界が流れ、風が裂ける。
床石を蹴り砕くような反動。自分の体が置いていかれそうになる。
速い。だが、速すぎる。制御を誤れば、自分から角に飛び込む。
交差。
刃を喉元へ滑り込ませる。
肉を裂く感触。
次の瞬間、魔物は霧散し、牙と魔石だけを残した。
呼吸が荒い。
手のひらがじっとり汗ばんでいる。
たった一度の踏み込みで、心臓が喉元まで跳ね上がっていた。
「……いける」
震えは残る。
だが、恐怖は少しだけ後ろへ下がっていた。
今のは勝ったというより、どうにか噛み合っただけだ。だが、それでも一体は倒せた。
「初手としては悪くないの」
ルシアが腕を組んで言う。
「えらそうに採点すんな」
「見てやっておるだけありがたく思え」
「戦わないやつがそれ言う?」
だが、軽口に少しだけ救われたのも事実だった。
黙って震えているより、よほどましだ。
魔物は種類を変え、間断なく現れた。
だが――第一層は、俺たちが勝てる程度に調整されている。
グラベルウルフは群れで来る。
低い足音が散り、左右へ開いて囲もうとしてくる。
一体に気を取られれば、すぐ別の牙が喉笛を狙う配置だ。
「左三歩!」
センバスの声。
俺が反射的に下がった瞬間、老執事の剣が弧を描いた。
狼の首筋を浅く裂き、動きを止める。そこへ俺の剣が追い、仕留めた。
無駄がない。老いてなお鋭い。
いや、老いてなお、ではない。長く生き延びてきた者だけが持つ“迷いのなさ”だ。
もう一体はロロが迎えた。
踏み込み。
拳が顎を跳ね上げる。
続く肘打ち。鈍い音。骨が砕け、魔物が床へ叩きつけられる。
「メイドって何だっけ……」
「戦力です」
真顔で返された。
実に頼もしい。
さらに奥。
アーススライムがぬるりと這い出る。
半透明の体の奥で、濁った核がゆらゆらと揺れていた。
「うわ、気持ち悪っ」
「斬っても散るだけじゃ。核を潰せ」
「核ぅ?」
俺が眉をひそめると、センバスが横から刃を差し込む。
半透明の体の奥で、鈍く光る石のようなものが砕けた。
スライムはたちまち光の粒子へ崩れる。
「見極めも必要ということですな」
「初回でやるには学びが多いな!?」
だが、その“学び”の一つ一つが、そのまま命に繋がるのだと分かる。
ここでは知らないことが、そのまま死因になる。
戦いを重ねるうちに、俺の呼吸は整い始めていた。
武具の感触にも少しずつ慣れてくる。
恐怖が消えたわけじゃない。だが、恐怖の中で手を動かすことには慣れ始めていた。
【猛進Ⅰ 18/30】
残り回数が減るたび、心臓が跳ねる。
有限だ。
この力は、無限ではない。
便利で強力で、だからこそ頼りすぎれば足元を掬われる。
この数字は、そのことを嫌でも思い出させてきた。
「ふむ、ふむ。順調じゃな」
ルシアが満足げに後方で腕を組む。まるで指揮官気取りだ。
ただの荷物持ちだが……。
この悪魔は、どうやってかドロップした素材を手にした瞬間に消失させた。
本人いわく収納したらしい。いつでも取り出し可能で、大きな荷台5個分の量を収納できるらしい。
悪魔とは、かくも便利な存在なのか。
――しかし順調だ。順調すぎる。
そう思ったのが良くなかったのか。
通路から広間へ足を踏み入れた瞬間だった。
音が、消えた。
魔物の気配が途絶える。
風もないのに空気が沈む。
石床が低く震えた。
足裏から伝わる重圧。
さっきまで戦っていた魔物たちとは、存在の質そのものが違う。
「……これは」
センバスが目を細める。
ルシアの瞳が、わずかに揺れた。
さっきまでの軽さが消えていた。
肩がほんの少しだけ強張り、細い指先が衣の裾を掴む。
それだけで十分だった。こいつが本気で動揺しているのだと分かるには。
「まさか……」
その声は、ほんのかすかに掠れていた。
「生きて、おったのか」
広間の中央に、黒い靄が滲む。
それは集束し、輪郭を持つ。
重厚な漆黒の全身鎧。
背丈は俺より頭一つ高い。
大剣を携えた騎士。
胸が冷たくなる。
見覚えがある。
幻影で見た男。
血煙の中で魔物を薙ぎ払っていた背中。
「……初代ヴァーミリオン」
怖い。
だがそれ以上に、目を逸らしてはいけない気がした。
あれはたぶん、俺と無関係ではいられない存在だ。
騎士が、ゆっくりと兜を向けた。
「ヴァーミリオンの血よ」
声は低く、地鳴りのようだ。
「示せ」
次の瞬間、消えた。
「――っ!」
視界の端に黒が閃いた。
俺は微動だにできず、前髪が数本はらりと落ちる。
数拍遅れて、首筋に手を当てた。
ちゃんと繋がっている。
わざと外された。
今の一閃で死を見た。
膝が震え、一歩も動かせない。
刃そのものより、そこにあった“死を与える意志”の濃さに体が竦んだ。
「ロシュ様っ!!」
石床が割れ、破片が舞う。
センバスが踏み込む。
鋭い連撃。
喉、胴、膝。急所だけを狙った迷いのない剣筋。
だが、大剣の一振りでまとめて弾かれ、数歩後退。
受けたというより、片手間に払い落とされた。
ロロが低く潜る。
拳を叩き込む。
金属音。
鎧は揺らがない。
衝撃を受けているはずなのに、まるで石壁でも殴ったように初代は微動だにしない。
逆に腕が振るわれる。
「ロロ!」
俺は歯を食いしばる。
恐れるな。
立ち止まるな。
前に進め。
俺は決めたはずだ。
「猛進Ⅰ、解放!!」
全力。
渾身。
胸元目掛けて刃を叩き込む。
「うぉらぁぁぁぁっ!!」
――パキッ。
場の重苦しい空気に似つかわしくない、軽い音。
止められた。
指先一つで。
ショートソードは刃に罅が入り、硝子細工のように砕ける。
「軽い」
淡々とした声。
次の瞬間、奴の拳が腹を打つ。
内臓が潰れ、胃液が逆流する。息を吸おうとしても空気が入らない。
膝が勝手に折れ、石床に吐瀉物が散る。
腹の奥で何かがひしゃげたような痛みが広がり、視界の端が白く明滅した。
「あがっ……はぁ、はぁ、はぁ」
違う。
これは殺し合いじゃない。
測られている。
値踏みだ。
力そのものだけじゃない。もっと別の何かまで見透かされている気がした。
兜の奥の視線がルシアへ向く。
「契約は続いているぞ」
ルシアの指先が、わずかに震えていた。
その声音も表情も抑えられている。だが、押し殺した感情だけが逆に滲んでいた。
怒りか。
悔しさか。
それとも、長い時間押し込めてきた何かか。
「こんな者に縋るのか? 余りに覚悟が浅い」
その言葉に、ルシアは言い返さなかった。
ただ、細く息を吐いただけだった。
それは反論のためではなく、胸の奥から溢れそうになる何かを押し戻すための息に見えた。
胸が焼ける。
「……黙れ」
足が震える。
視界も揺れる。
腹の奥がまだ痙攣していて、立つだけで吐きそうになる。
それでも立つ。
みっともなくてもいい。格好悪くてもいい。ここで膝をついたままだけは嫌だった。
「それでも、俺は前に進むんだよ」
「その悪魔の望みを叶えてやれるのか? 苦難の道ぞ」
「苦難の道?」
唇の端を、無理やり持ち上げる。
正直、強がりだ。そんなことは自分が一番よく分かっている。
だが、ここで虚勢も張れないなら、最初から何も背負えない。
「道なら前に進めるだろ」
俺は初代を睨む。
沈黙。
重圧が、わずかに緩む。
「……そうか」
黒い鎧が、霧へと崩れ始める。
「ならば、示せ」
「真に、ヴァーミリオンを継ぐ者たれ」
気配が消えた。
静寂。
俺はその場に崩れ落ちた。
勝てなかった。
完敗だ。
だが、殺されなかった。
試された。認められたわけではない。ただ、門前払いにはされなかった。
「……試練、ですな」
センバスが静かに言う。
「悔しい……あんなの、ずるい」
「強いだけでずるい扱いはやめろ」
俺は苦笑する。
痛い。全身が痛い。
笑うだけで腹の奥が軋み、顔をしかめそうになる。
親父の豆だらけの手。
爺様の大きな背中。
領民たちの懸命に生きようとする姿。
そして――ルシアを見る。
初代が消えた場所を、ただ見つめている。
その横顔は、いつもの悪戯っぽい笑みも、尊大さもなかった。
何百年分もの時間が、その小さな体にふと戻ってきたみたいに見えた。
置き去りにしたはずの記憶が、今さら追いついてきたような顔だった。
俺は震える膝に力を込め、立ち上がる。
「素材、持って帰るぞ」
三人がこちらを見る。
「もっと強い武具を作る」
拳を握る。
腹も、腕も、脚も、全部痛い。
でも、その痛みが逆に腹の底を冷やしてくれる。
勝てない相手がいる。届かない背中がある。だったら、ここで折れている暇なんてない。
「次は、あんなふうに見下ろさせない」
広間の奥。
さらに下へ続く通路が、静かに口を開けている。
怖い。
正直、まだ震えてる。
でも――だからどうした。
前に進むって決めたんだ。
なら次は、もっと強くなって戻ってくる。
今度は一撃も届かないまま終わったりしない。
あの黒い背中に、俺の刃が届くところまで行ってやる。




