第35話 眠りの底で
――白い光だった。
柔らかな、どこまでも透き通った光。
まぶしいはずなのに目を焼くことはなく、ただ輪郭だけを淡く浮かび上がらせる。
白い翼の生えた女がいた。
その隣には、長いローブを纏った一人の青年。
二人は向かい合い、何かを語り合っているようだった。
だが、声は聞こえない。
唇が動いても、その内容だけがすっぽり抜け落ちていた。
青年の周囲には、七人の子供たちがいた。
年齢も背丈も種族も少しずつ違う。
けれど皆、不思議と同じ空気を纏っている。
まるで、別々の色を持ちながら、ひとつの輪の中にいるような。
誰かが笑い、誰かが手を伸ばし、誰かが空を見上げていた。
穏やかな景色だった。
壊れるはずのない、遠い昔の幸福。
そんなものを覗き見ている気がした。
――場面が揺らぐ。
光が薄れ、色が落ちる。
今度は、静かな闇の中だった。
黒い翼の女が立っている。
その表情は見えない。
けれど、何故か悲しんでいるのだと分かった。
女の前には、一人の青年騎士が膝をついていた。
その姿は、忠誠の誓いそのもの。
二人はまるで、古い壁画の中に閉じ込められた主従のようだった。
黒い翼の女は、その青年の肩へそっと手を置いた。
責めるようでもなく。
赦すようでもなく。
ただ、どうしようもなく悲しいものに触れるみたいに。
そこでも、やはり声は聞こえない。
ただ、その沈黙だけが胸の奥に重く残った。
――次の瞬間、世界がひび割れた。
◇
痛みが来た。
胸の奥を焼かれるような痛み。
息を吸うだけで、喉から肺まで熱した鉄を押し込まれるようだった。
「……っ」
目を開ける。
ぼやけた天井。
見慣れた梁。
薄い布越しの光。
屋敷の自室だった。
数秒、自分がどこにいるのか分からなかった。
だが、体を動かしかけた瞬間、胸元に走った激痛で意識が一気に引き戻される。
「ぐ、っ……!」
体が持ち上がらない。
胸に分厚い包帯が巻かれているのが分かる。
少し動かしただけで傷口の奥が疼き、嫌な汗が滲んだ。
……生きてるのか、俺。
そこまで考えて、記憶が一気に戻る。
二層の守護者。
門の先。
ティエラ。
胸を貫いた岩の刃。
ロロの悲鳴。
「ロシュ様……?」
震える声が聞こえた。
視線を向ける。
部屋の入口に立っていたロロが、目を見開いたまま固まっている。
「……ロロ」
掠れた声で名前を呼ぶと、ロロの顔がぐしゃりと崩れた。
「ロシュ様……! ロシュ様っ……!」
次の瞬間、ロロは転ぶように駆け寄ってきた。
寝台の脇へ膝をつき、泣きながら俺に抱き着いた。
「よかった……っ、よかったぁ……!」
「う、おい……泣くなって……」
「泣くよぉ……!」
ぐしゃぐしゃだ。
目も鼻も真っ赤で、たぶん相当泣いたのだろう。
それを見て、ようやく自分がどれだけやばい状態だったのか理解する。
「本当に……死んじゃうかと、思ったんだから……!」
ロロは俺の体を両手で包み込むように、ぽろぽろ涙を零した。
その温かさが、ひどく現実的だった。
……ああ、本当に戻ってきたのか。
「心配、かけたな」
「かけたよぉ……! すごく、すごくかけたよ……!」
「悪い」
「そう思うなら、もうあんな思いさせないで……!」
「あれは不可抗力だろ……」
「そうだとしてもだよ……!」
泣きながら怒るロロを見て、少しだけ笑いそうになる。
けれど胸が痛くて、実際には情けない顔をしかめるのが精一杯だった。
「っ、笑わないで! まだ安静なんだから!」
「笑ってねぇよ……」
「笑おうとした!」
「気のせいだ」
ロロが涙を拭いながら睨んでくる。
でも、その目の奥にある安堵は隠せていなかった。
「……みんな、呼んでくる」
「ああ」
ロロは何度もこちらを振り返りながら部屋を出ていった。
その背を見送りながら、俺はゆっくり息を吐く。
痛い。
だるい。
頭も少し重い。
だが、それでも意識ははっきりしていた。
俺は、生きている。
◇
ほどなくして、部屋は一気に賑やかになった。
「おぉ、目ぇ覚ましたんか!」
「若様!」
「ほんとに起きてる……」
「ん。生きてる」
「しぶといのう」
アンバー、ガレス、クレーネ、レオ、クラリス、そしてルシアまで、ぞろぞろ入ってくる。
全員、顔は違うが、目の奥にあるものはだいたい同じだった。
安堵だ。
「……お前ら、病人の部屋にしては人数多すぎるだろ」
「全員そう思ってるけど、見に来ずにはいられなかったんだよ」
アンバーが肩をすくめる。
レオは腕を組んだまま、あからさまにほっとした顔をしていた。
「まったく、お前ほんまに心臓に悪いわ……」
「俺の方が心臓やられたんだが」
「そういう話ちゃうねん」
クラリスは手帳を開いたまま、珍しく少しだけ表情を緩めていた。
「ひとまず、意識が戻って何よりです。まだ無理に動かないでください。傷は塞がっていても、失った血まではすぐ戻りませんので」
「……塞がってるのか」
「はい。話に聞いた回復薬の効果でしょうね。でなければ助かっていなかったかと」
「か、回復薬?」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。
俺は小さく息を吐いた。
「ロシュ様」
ロロがそっと俺の手元へ水差しを置く。
その動きが必要以上に丁寧で、やっぱりまだ怖がっているのだと分かった。
「俺が倒れた後、どうなった?」
そう聞くと、皆の顔つきが少し締まる。
最初に口を開いたのはアンバーだった。
「ティエラが現れて、あんたを刺した。そこへ初代ってのが現れて、あいつを追い払った」
「初代が現れたのか!?」
てか、ずいぶん端的だな。
だが、そこへガレスが続きを足す。
「その男が回復薬をロロに与え、姿を消しました。その薬をすぐあなたに。出血は止まり、一命を取り留めました」
ロロが少し俯く。
クレーネがその横で短く言った。
「死ななかった」
「お前、そこはもう少し言い方あるだろ」
「大事」
まあ、そうだな。
レオが咳払いを一つした。
「その場で宝箱の中身も回収しとるらしいで。すぐに撤退を優先し、滞在は最小限やったみたいやがな」
「中身は?」
そう聞くと、今度はロロが答えた。
「ゴーレムを象ったメダルが一枚。それと、純度の高い魔石。それから……弓」
弓。
その言葉で、クレーネの耳がぴくりと動いた。
「弓?」
「うん。ルシアが、一層で出た武具と同じで、濃い地のマナを宿した武器だって」
クレーネは無言のまま少しだけ目を細める。
興味はあるらしい。
レオがにやりと笑った。
「魔石も相当ええ品やったで。見た感じ、今までの二層産の中でも頭一つ抜けとる。メダルはたぶん二層守護者の証やろな」
「……ってことは」
「二層攻略は完了、ってことだよ」
アンバーが言った。
「宝箱が出て、階段も見つかった。そんで全員生還だ。手放しで笑える状況じゃないが、そこは間違いない」
二層攻略完了。
その言葉が胸の中でゆっくり沈む。
ずいぶん遠回りした。
死にかけもした。
でも、確かに一つ抜けたのだ。
「普通なら、ここで皆で祝いたいところなんやけどな」
「普通じゃないからな」
「せやな」
クラリスが手帳を閉じる。
「今は二層突破の成果と同時に、ティエラという新たな脅威も確認された状況です。喜ばしい事実と、看過できない問題が同時に存在しています」
「堅い言い方だが、その通りだ」
アンバーが苦笑した。
「勝ったけど、勝って終わりじゃないってことさね」
その空気を、ルシアだけが黙って聞いていた。
珍しい。
いつもなら一言二言は茶化しそうなものだが、今日は静かだった。
◇
顛末を一通り聞き終えたあと、クラリスがぱん、と手を打った。
「はい、ここまでです。ロシュ様はまだ安静が必要です」
「おい、俺まだ聞きたいこと――」
「今のあなたに必要なのは休息です」
「ぐっ」
「反論は受け付けません」
強い。
怪我人相手でもまったく容赦がない。
アンバーが笑う。
「こりゃ逆らえないねぇ」
「最初から逆らう気なんてないさ」
レオはそう言いながらも、名残惜しそうにこちらを見た。
「まあ、命拾いしたんや。今日のところは寝とけ」
ガレスも短く頷く。
「今は休んでください」
クレーネは扉のところで振り返った。
「弓、あとで見る」
「お前はぶれないな」
「大事」
ロロだけは、その場に残ろうとしていた。
「わ、私は……」
「ロロ」
俺が呼ぶと、ロロはぴたりと止まる。
「大丈夫だ。少しだけ休むだけだし、消えたりしない」
「……でも」
「それに、お前も休め。目、真っ赤だぞ」
ロロは唇を引き結んだまま、しばらく迷っていた。
やがて、小さく頷く。
「……分かった。すぐ戻るから」
「戻らなくていい。寝ろ」
「うぅ……」
未練たっぷりに何度も振り返りながら、ようやく部屋を出ていく。
そして、最後に残ったのはルシアだけだった。
◇
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
ルシアは少し離れた窓辺に立ったまま、こちらを見ようとしなかった。
『……お前だけ残れ』
そう言ったのは俺だ。
だから今さら黙っていても意味はない。
「聞きたいことがある」
ルシアは答えない。
俺は、夢の残滓を思い出す。
白い翼の女。
黒い翼の女。
膝をつく騎士。
七人の子供。
ローブを纏った青年。
「夢を見たんだ」
ルシアは振り向かない。
「白い翼の女と、ローブを着た青年がいた。そいつの周りには七人の子供もいた」
そこで初めて、ルシアの肩がわずかに揺れた。
「それから、黒い翼の女と騎士の青年も見た。黒い翼の女は……悲しそうだった」
沈黙。
「お前は誰だ」
自分でも驚くほど、声は低くなっていた。
「初代は何者だ」
ルシアの背中は動かない。
「管理者とは何だ」
胸の傷が疼く。
だが、止める気にはならなかった。
「ティエラは何を知っている」
長い沈黙が落ちる。
窓の外から、夕方の風が薄く入り込む。
それでもルシアは、しばらく何も言わなかった。
「……もう誤魔化すなよ」
俺ははっきり言った。
「全部話せ。お前のことも、初代のことも、管理者のことも、あのティエラが何者なのかも」
そこでようやく、ルシアがゆっくりとこちらを振り向いた。
赤い瞳が、まっすぐ俺を見る。
いつものふざけた悪魔の顔じゃない。
もっと古くて、もっと静かな何かを抱えた目だった。
「……一つ、昔話をしてやるのじゃ」
その声だけが、やけに重く部屋に残った。




