第34話 黒き祖の介入
「いやああぁぁぁぁぁっ!! ロシュ様っ!!?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
私は崩れ落ちるロシュ様へ飛びつくように駆け寄り、その体を抱きとめる。
「ロシュ様、ロシュ様っ……!」
返事がない。
胸を貫いた岩の刃。
そこからどくどくと溢れてくる血。
服も、手も、床も、赤い。
何が起きたのか、分からなかった。
ほんの一瞬前まで、二層を抜けたのだと、皆であの階段を見ていたはずなのに。
なのに今、ロシュ様は自分の腕の中で力なく沈んでいる。
「やだ……いや……」
喉が震える。
手が震える。
胸を押さえつけても、血が止めどなく溢れていく。
私はどうすればいい?
どうすればこの血を、ロシュ様の命を繋ぎ止めていられる?
分からない。
この現実を認めたくない。
「ロシュ様……っ、目を開けて……お願い、返事して……!」
返事はない。
血の熱だけが、やけに生々しかった。
頭の中が真っ白になる。
その白の奥から、不意に、別の冷たさが浮かび上がった。
◇
冷たい土だった。
湿った森の匂い。
頬に張りつく落ち葉。
雨に濡れた泥。
幼い私は、動かない父の体にしがみついていた。
獣人だった父は、すでに冷たかった。
その大きな手も、もう動かない。
庇うように倒れていた母は、かすかに息をしていたけれど、その呼吸は今にも途切れそうに浅かった。
逃げて、逃げて、逃げて。
もう大丈夫だと思った先でも、石は飛び、罵声は飛び、剣まで向けられた。
獣臭い。
混じりもの。
汚らわしい。
何度も聞いた。
意味は全部分からなくても、自分たちが“いてはいけないもの”なのだと分かるには十分だった。
怖かった。
寒かった。
お腹が空いていた。
でもそれ以上に、自分がここで一人になるのが、たまらなく怖かった。
その時だった。
「センバス! 誰か倒れてる!」
幼い声。
顔を上げる。
木々の隙間から見えたのは、まだ幼い男の子だった。
所々ほつれているが、仕立ての良い服。
土で汚れているのに、妙に真っ直ぐな立ち方。
その後ろには、大きな外套を纏った老人。
老人――センバスは、倒れている父と母、それから怯えて縮こまる私を一目見て、すぐに顔つきを変えた。
「……若様」
「大丈夫かい?」
男の子は迷わなかった。
「センバス。屋敷に連れて帰るぞ」
その言葉を、私は今でも覚えている。
見たことがない目だった。
嫌悪も、恐れも、値踏みもない。
ただ“倒れているなら助ける”と、それだけを当たり前のように思っている目。
その後のことは、途切れ途切れだ。
暖かい毛布。
苦い薬。
湯気の立つスープ。
怖くて隅に縮こまっていた私へ向けられた、小さなパン。
「ちゃんと食べないとダメだよ」
差し出してきたのは、あの男の子――ロシュだった。
怯えて手を出せない私を見て、ロシュは少し困ったように笑った。
「大丈夫。食べても怒ったりしないよ」
その言葉に、あの笑った顔に、胸の奥がじんと熱くなったのを覚えている。
私にとって、あの屋敷が初めての居場所だった。
獣人の血が混じっているからと石を投げられず、
父と母の出自を聞かれて怯えず、
“いてもいい”と、初めて思えた場所。
そして、その場所をくれたのが――
「ロシュ様……」
◇
現実へ引き戻される。
血の匂い。
冷たい鍾乳洞の空気。
腕の中でぐったりと力を失ったロシュ様。
そして、あまりにも軽い声。
「へぇ」
ティエラが、鼻をひくつかせ、面白い玩具でも見つけたみたいに首を傾げていた。
「君、獣臭いね。古い獣人の血でも混じっているのかな?」
琥珀色の瞳が、私をじっと見る。
「そんな顔もするんだ。主を失った犬みたいで、実に獣人らしい性だね」
その瞬間。
私の中で、何かが切れた。
悲しみとか、恐怖とか、そういう形をしたものじゃなかった。
もっと熱くて、もっと黒くて、もっと止めようのない何かが、腹の底から一気に噴き上がる。
目の前が赤く染まる。
私は、そっとロシュ様の体を床へ横たえた。
震えていた手が、ぴたりと止まる。
「……殺す」
自分でも驚くほど低い声だった。
アンバーが息を呑む。
ガレスの目が細まる。
ルシアが、愕然としながらもはっとしたように私を見た。
だが、もう誰の声も入らない。
「ロロ、待て!! そやつは――」
ルシアの制止より早く、私は踏み込んでいた。
「鉄拳、重脚、解放」
脚甲が石床を噛み、拳が鈍色に変わる。
一歩で間合いを潰し、そのままティエラの顔面目掛けて拳を叩き込む。
速い。
自分でも、自分がここまで速く踏み込めるとは思わなかった。
怒りで体の枷が外れたみたいだった。
だが。
ティエラは、わずかに首を傾けただけでそれを外した。
拳が空を切る。
「うわ、怖い」
軽い声。
そのまま人差し指がひらりと動く。
次の瞬間、私の足元から石の刃が何本も突き出した。
「っ!」
重脚で無理やり踏ん張り、身を捻って避ける。
頬を掠めた岩刃が熱を残した。
そこへガレスが飛び込む。
「穿殻、解放」
槍の穂先が一直線にティエラの喉を狙う。
それは迷いのない、洗練された最短の突きだった。
だがティエラは、半歩も下がらない。
ただ指先を動かすだけ。
「『ストーンウォール』」
がきん、と硬い音。
地面からせり上がった石壁が槍を弾いた。
「な……」
「直線的すぎるよ」
ティエラが笑う。
横からアンバーの戦斧が唸った。
「舐めた口きいてんじゃないよ!」
砕甲の乗った重い一撃。
ただの人間なら、掠めただけでも終わる一撃だ。
けれど、ティエラは床を滑るように下がり、空いた手で紋様を描く。
「『ロックバレット』」
石の礫が散弾みたいに弾け、アンバーの進路を塞いだ。
「ちっ!」
戦斧で弾き落とす。
だが、その一拍で距離を取られる。
クレーネの土矢が飛ぶ。
「目」
三本。
正確無比な連射。
だが、それすらもティエラはわずかに体を捻って避けた。
最後の一本だけが肩を掠め、ローブの端を裂く。
「……おお」
ティエラが少しだけ感心したように目を細める。
「今のはよかった」
褒められているはずなのに、ぞっとする声音だった。
私は止まらない。
「殺す。殺す。殺す……!」
拳、蹴り、肘、膝。
怒りのまま叩き込む。
普段の私なら絶対にしない、隙だらけの連撃だった。
けれど、そのすべてに殺意だけは乗っていた。
強い。
速い。
いつもの私を知っている全員が息を呑むくらいには、危険な動きだった。
それでも。
届かない。
ティエラは笑いながら、ほとんど足も動かさず捌いていく。
拳が来る場所を知っているみたいに。
私の怒りも、アンバーの圧も、ガレスの槍も、クレーネの矢も、全部が一段下から届いているみたいだった。
「駄目じゃ、ロロ! 下がれ!」
ルシアの声。
だが、私は止まらない。
「返せ……!」
泣きながら叫ぶ。
「ロシュ様を、返せぇぇぇぇっ!!」
その叫びと同時に、渾身の拳がティエラの胸を狙った。
今度こそ入る。
そう見えた。
だが、ティエラの笑みが深くなる。
「遅いよ」
ぞくり、とした。
指先が灯る。
次の一手が来る。
私の体勢は前に流れきっている。
避けられない。
その瞬間だった。
空気が変わった。
温度が落ちる。
いや、違う。
空気そのものが重く沈んだのだ。
ティエラの指先が止まる。
床の上を黒い靄が這った。
煙のように、霧のように、だがどちらとも違う濃い闇が集まり、人の輪郭を結んでいく。
ルシアが目を見開いた。
「……奴か」
黒い霧は集束し、重厚な漆黒の全身鎧を形作る。
大剣を携えた、あの姿。
私は、反射的に足を止めた。
ティエラの笑みが、初めて薄れた。
「へぇ……」
その声には、わずかに警戒が混じっていた。
初代ヴァーミリオンは、何も言わずティエラの前へ立つ。
その姿だけで、場の空気が塗り替わった。
アンバーが息を呑む。
ガレスが槍を落としたまま固まる。
クレーネの指が、弦の上で止まっていた。
そして初代は、低く言った。
「失せろ。堕ちた狂人」
たった一言。
それだけなのに、地の底から響くみたいな重さがあった。
ティエラは、じっと初代を見つめる。
それから、ふっと肩を竦め、ルシアをちらりと見た。
「あの女に縛られ、管理者にも縛られた哀れな守護者」
琥珀色の瞳が細まる。
「まだ、僕たちの邪魔をするのかい?」
初代は答えない。
ただ立っているだけだ。
それだけなのに、ティエラはそれ以上一歩も踏み込まなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、ティエラが小さく笑った。
「……まあ、いいや」
軽い声に戻る。
けれど最初の余裕とは違った。
「今日はここまでにしておくよ」
指先の光が消える。
「せっかく面白くなりそうだったのに、残念だ」
最後にもう一度、私を見た。
次いで、血に沈むロシュ様へ視線を滑らせる。
「じゃあね、ヴァーミリオンの皆さん」
その言葉と同時に、ティエラの姿が地へ溶けた。
水に垂らした絵の具みたいに、何もない場所へ消えていく。
「待てっ!」
アンバーが一歩出る。
だが、もう遅い。
気配は完全に消えていた。
その場に残ったのは、重い静寂だけだった。
◇
初代がゆっくりとロシュ様へ視線を落とす。
私は我に返ったようにロシュ様のそばへ膝をついた。
だが、どうすればいいのか分からない。
「ロシュ様……ロシュ様……!」
呼びかける。
返事はない。
初代が低く告げた。
「まだ息がある」
肩がびくりと震える。
「生きるか死ぬかは、若きヴァーミリオン次第」
黒い手甲がわずかに動いた。
次の瞬間、小さな瓶が私の胸元へ放られる。
反射的に受け取る。
透明な瓶の中で、淡い金色の液体が揺れていた。
「そ、それは……」
ルシアが目を見開く。
「ダンジョン産の回復薬か……!?」
私は瓶を見る。
次いでロシュ様を見る。
手が震え、瓶を落としそうになる。
初代はそれ以上何も言わなかった。
説明も、慰めも、励ましもない。
ただ、踵を返す。
「ま、待って……!」
私は思わず呼び止める。
でも、初代の姿はもう黒い霧へ崩れ始めていた。
最後に、ルシアの方へ一瞬だけ兜が向いた気がした。
その意味を読み取るより早く、黒い祖の姿は霧の中へ消えていく。
あとには、何も残らない。
私の手の中に、小さな瓶だけが残っていた。
「ロロ!」
アンバーの声で我に返る。
「使うんだ!」
「……っ!」
慌てて栓を抜く。
だが、手が震えてうまく開かない。
血で滑る。
「く、ぅ……!」
ガレスが膝をつき、ロシュ様の体を支える。
クレーネが無言で周囲を警戒する。
アンバーが私の肩を押した。
「落ち着きな。焦るな。まだ息があるんだろ」
「でも……でも……!」
涙で視界が滲む。
ロシュ様の顔がぼやける。
それでも、震える手でどうにか瓶を開けた。
金色の液体が揺れる。
私はそれを両手で握りしめ、血に濡れたロシュ様の顔を見た。
あの時と同じだ、と思った。
森で倒れていた自分。
差し出された温かいもの。
大丈夫だと言ってくれた声。
今度は、自分の番だ。
「……お願い」
声が震える。
「死なないで……」
涙が落ちる。
「お願いだから……ロシュ様……」
私は祈るように、ロシュ様の唇をわずかに開き、金色の液体をそっと流し込んだ。




