第32話 泥を縫い止めろ
泥守護者の腕が、のろく、重く、確実に持ち上がる。
遅い。
それなのに、嫌な汗が止まらない。
足元が泥に食われるせいだ。
踏み込みたい時に踏み込めない。
退きたい時に足が抜けない。
それだけで、あの遅さが途端に脅威へ変わる。
「また来る!」
ロロが叫ぶ。
振り下ろされた泥槌が床を叩く。
轟音。
跳ねた泥が飛び散り、石床を叩き、俺たちの足元へまとわりついた。
「ちっ……!」
泥を払いのけながら距離を取る。
だが、その間にも泥沼は広がっていた。
守護者の周囲だけじゃない。
俺たちの立っている場所へまで、黒いぬかるみがじわじわと侵食してくる。
気づけば、一歩ごとの重さがどんどん増している。
アンバーが戦斧を振るい、泥の塊を散らした。
「くそっ、きりがないね!」
「散らしても戻る!」
ロロが拳を叩き込む。
守護者の脚が揺れる。
だが、揺れた分だけ周囲の泥が盛り上がり、そのまま足元を支え直した。
ガレスが低く言う。
「支点が多すぎる」
ただの巨体じゃない。
ただの再生でもない。
こいつは足場周辺そのものを自分の一部にしてやがる。
その時、守護者の左腕が膨れた。
「ロシュ様!」
ロロの声。
泥が凝固する。
次の瞬間、巨大な杭のような泥塊が真っ直ぐ俺めがけて射出された。
「っ!」
踏破で避ける。
だが避けた先の地面が泥でぬかるんでいた。
足が僅かに沈む。
そこへ横薙ぎの泥腕。
まずい。
「鉄拳! 解放!」
ロロが横から割り込む。
拳が泥腕の側面へ強い打撃を打ち込んだ。
その一撃で腕の軌道がわずかに逸れた。
俺の体をかすめる程度で済む。
「やあぁぁぁぁぁ!」
ロロが吠える。
そのまま拳足の連撃で、守護者の肘から先を大きく砕いた。
だが砕けた泥は床へ落ち、次の瞬間には足元から吸い上がって、また腕の形へ戻っていく。
「ロシュ様、大丈夫!?」
「ああ、助かった!」
◇
いったん距離を取る。
といっても、円形の守護者領域に逃げ場なんて大してない。
少し離れたところで呼吸を整えながら、俺たちは守護者を睨んだ。
守護者は追ってくる。
焦らず、のろく、重く。
まるで最初から俺たちの体力が尽きるのを待っているみたいだった。
ガレスが槍を落としたまま言う。
「地縫だけでは足りません」
「見りゃ分かる」
俺は息を吐く。
「周囲の泥ごと持ち上げて動いてる。脚を止めても、足場まであいつ側なら意味が薄い」
「攻撃も通る。だが深く通らない」
「泥が分厚すぎるんだよ」
ロロが悔しそうに泥を払い落とす。
クレーネも短く続けた。
「核、見える。けど一瞬」
核はある。
位置もだいたい掴めた。
でも届かない。
ルシアだけが、返事をしなかった。
赤い瞳が、守護者ではなく足元を見ている。
いや、泥だ。
守護者の脚元から広がる黒いぬかるみ、その流れそのものを追っている。
「ルシア?」
「……なるほどの」
「何か分かったのか!?」
俺が叫ぶと、ルシアが眉を寄せたまま答える。
「こやつ、自前で泥を生成しておるのではない」
「は?」
「足元……ここの地面自体が泥を生成しておる」
アンバーが戦斧を構えたまま、守護者と床を見比べる。
「……つまり?」
ルシアが一歩前へ出る。
今までの余裕ぶった軽さじゃない。
初めて見るくらい真剣な顔だった。
「守護者の泥は、こやつの体そのものではない。周囲の地から溢れる泥を集め、纏い、また戻っておるだけじゃ」
俺は一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
「待て。それって――」
「泥人形を壊しても意味が薄いのは当然じゃ。壊した端から、地面から補われるのじゃからな」
ガレスが低く呟く。
「再生ではなく、補給」
「そういうことじゃ」
クレーネが短く言った。
「本当の敵。地面?」
ルシアが頷く。
「地面から溢れる泥の流れをどうにかせんと、あの泥人形を倒すのは至難じゃ」
俺の頭の中で、いくつかのことが繋がった。
泥沼。
再形成。
地縫が効き切らない理由。
砕いても戻る外殻。
全部、同じ理屈だ。
「……泥の流れを止める」
俺の自問に、ルシアの目が細くなる。
「止める、まではいかぬじゃろうな。じゃが――鈍らせることはできるじゃろ?」
その言葉に、俺は目を見開いた。
「地盤杭か!」
「ふふん。思い出せたかえ?」
一気に思い出す。
二層の小広場で手に入れた、あの杭だ。
地へ打ち込めば、その周囲の地盤を安定させる。
戦闘向きではないと思っていた探索道具。
ルシアが言う。
「あれなら地の流れを安定させられる。じゃが、効果を十分発揮させるためには、奴の懐近くで打つのじゃ。あの泥沼そのものは消せぬじゃろう。じゃが、少なくとも流動は鈍るはずじゃ」
ロロがすぐに反応した。
「足場が安定する……!」
ガレスも理解したらしい。
「泥の供給も遅くなる」
「そうじゃ」
アンバーがにやりと口の端を上げる。
「ようやく勝ち筋ってやつが見えてきたねぇ」
守護者がまた一歩踏み出す。
泥が波打つ。
だが、今度はさっきまでと違った。
ただ押されるだけの相手じゃない。
理屈が見えた。
崩すための糸口が、確かに。
「ルシア、杭は何本ある?」
「今、持っておるのは五本じゃな」
「一本でいけるか?」
「無理じゃなろうな。ヤツ周辺の地はマナがかなり乱れておる」
「なら二本、三本と打つ!」
ロロが拳を打ち合わせた。
「俺に考えがある。この作戦の肝はクレーネ、お前だ」
「ん、どうすればいい?」
「核が見える一瞬を最も確実に拾えるのはお前だけだ。だから――」
◇
アンバーが戦斧を構え直す。
ガレスも槍を低く落とす。
クレーネはすでに矢を作っていた。
「まず一本だ」
俺は守護者を見据えた。
「ロロとアンバーで前を引く。ガレスは左脚、クレーネは右肩を削って視線を散らせ。俺がまず打ち込む!」
「了解!」
「あいよ」
「はい」
「ん」
泥守護者が腕を持ち上げる。
さっきと同じ動き。
だが、こっちの中身はもう違う。
「行くぞ!」
アンバーが真正面から踏み込んだ。
「砕甲、解放!」
戦斧が泥守護者の腕を裂く。
ロロが右から飛び込み、拳で膝の外側を殴りつけた。
巨体がわずかに傾く。
ガレスの槍が脚元へ走る。
「地縫、解放!」
完全には止まらない。
それでもいい。
まずは一拍あればいい。
クレーネの矢が肩口を抉る。
「右、上がった」
「おう!」
守護者の上体がそちらへ流れる。
手に持った黒茶色の杭。
ずしりと重い。
「踏震、踏破、解放!」
衝撃で泥を散らし、開いた一瞬の隙へ踏破で飛び込む。
そのまま全力で杭を石床へ叩きつけた。
「まず、一本目!!」
硬い手応え。
だが、次の瞬間、杭が石床へ沈む。
土色の紋が走った。
「……っ!」
杭を中心に、土色の線が床を這うように広がっていく。
守護者の足元へ、泥沼の縁へ、輪を描くみたいに。
その瞬間だった。
守護者が僅かに、身じろいだ。
ぬかるんでいた足場の感触が、わずかに変わる。
「……浅くなった?」
ロロが叫ぶ。
アンバーが泥を蹴る。
さっきまでより沈まない。
「いいね……!」
ガレスの槍がもう一度脚元へ入る。
今度は先ほどより深く、地へ噛んだ。
「効きが違う」
「泥の流れが鈍ったのじゃ!」
ルシアが叫ぶ。
守護者の裂けた腕も、まだ戻る。
だが、遅い。
明らかに遅い。
クレーネの矢が胸を裂く。
「見えた!」
赤黒い核が、一瞬ではなく、二瞬ほど覗く。
俺は息を呑んだ。
いける。
まだ足りない。
だが、勝ち筋は見えた。
ルシアが即座に言う。
「地のマナが僅かに安定しておる! もっと打つのじゃ、流れを縛れる!」
守護者が怒ったみたいに泥を波立たせる。
今までより大きく、重く、泥がうねる。
だが、もう違う。
ただ押されるだけじゃない。
こっちは、どう壊すかを見つけた。
俺は剣を握り直す。
「次で、仕留める形を作るぞ!」




