第25話 老騎士の願い
ローク王都の中心から少し外れた高台に、その別邸はある。
現王の王城ほど華美ではない。
だが、古びた門柱にも、整えられた庭にも、長く人の上に立ってきた者だけが持つ静かな威厳が宿っていた。
余計な飾りはない。
けれど、隙もない。
私は門前で足を止めると、衛兵へ無言で短剣を差し出した。
鞘に刻まれたのは、ローク王家の古い紋。
近衛の一部にのみ許された意匠だ。
受け取った衛兵の顔色が変わる。
「こ、これは……」
「前王陛下へお目通りを願いたい」
低く告げると、衛兵は短剣と私の顔を交互に見た。
老執事然とした男。
だが、そう見えているならそれでよい。
「し、少々お待ちを……!」
衛兵は慌てて奥へ駆け込んでいった。
私は静かに待つ。
焦れもせず、苛立ちもせず。
ただ、その先におられる方の気配を感じていた。
やがて戻ってきた衛兵が、今度は明らかに緊張した声で言う。
「どうぞ。すぐにお通しするようにと」
「かたじけない」
短く応じて、私は敷地へ足を踏み入れた。
◇
通された応接間は、豪奢というより重厚な部屋だった。
深い色の木で作られた家具。
壁には古い戦旗と、額装された地図。
窓の外には手入れの行き届いた庭が見える。
王の隠居所というより、剣を置いた戦人の居場所に近い。
私が一人で待っていると、やがて扉が開いた。
入ってこられたその瞬間、部屋の空気がわずかに変わる。
アデルハイド=ローク。
王位を退いた前王陛下。
老いてなお、その体躯に衰えは見えない。
背はまっすぐ伸び、目には生気が宿っている。
全身から放たれる覇気は、王位を離れた者のそれとは思えなかった。
王であられた頃、魔物討伐に明け暮れ、民から尊敬と畏怖を込めて“討伐王”と呼ばれた男。
その名に恥じぬ気配が、今なお残っている。
私はすぐさま片膝をついた。
「ご無沙汰しております、アデルハイド陛下」
だが陛下は、私の前まで来ると、すぐに手を差し出された。
「よせ。俺とお前の仲だ。いまさら堅苦しい挨拶など要らぬ」
立ち上がるよう促され、私は静かに顔を上げる。
アデルハイド陛下は口元をわずかに緩められた。
「久しいな、センバス。バロックを弔って以来か」
「その節は、大変骨を折っていただき、ありがとうございました」
「よい。この命を救ってくれた戦友の弔いだ。大して骨など折ってはおらぬ」
そこで少しだけ肩をすくめられる。
「まあ、周りはずいぶん慌ただしかったようだが」
私は思わず苦笑を漏らした。
「否定はできませんね」
「クク。そうであるな」
陛下もまた、ほんの少しだけ笑われる。
短い会話だった。
だが、それだけで二人の間に流れていた長い時間が見えた気がした。
「それで」
アデルハイド陛下はソファへ腰を下ろし、向かいを指された。
「生い先短い我らの思い出話をしにきた訳ではあるまい?」
私も腰を下ろす。
背筋は崩さない。
「今日参ったのは、……お力添えを願いに参りました」
陛下の目がわずかに細くなる。
「ほう」
◇
「ヴァーミリオン領では今、もはや一領地では抱えきれぬ異変が起きております」
私はスキル武具や素材などの現物を交えつつ、ヴァーミリオン家に起きた今までのあらましを語った。
陛下はその間、幾度となく表情を変えられた。
疑心。困惑。驚愕。そして懸念。
すべてを聞き終えたあと、陛下は深くソファへ身を沈める。
「……そこまでの話、すべて真なのか」
低い問いだった。
だが次の瞬間、陛下は小さく息を吐かれた。
「いや、お前がこの場で虚言を弄する意味もないか……」
「ヴァーミリオン家は長い間、堰き止められた水の流れに身を置いておりました」
私は静かに言葉を置いた。
「しかしその堰は解き放たれ、若様は今、とてつもない濁流に飲まれようとしております」
陛下は黙って聞いておられる。
「若様はそれに正面から向き合い、すでに動き始めております。ですが、人も物も、そして何より、表に出ぬ支えが足りませぬ」
私は頭を垂れた。
「私はあの方を支えて差し上げたい。ですが……私にできることなど、たかが知れております」
そして、深く息を落として続ける。
「陛下。どうか私に、ロシュ様を支えるためのお力添えを賜りたい」
部屋が静まり返る。
風が窓を撫でる音だけが、かすかに響いた。
アデルハイド陛下はすぐには答えられなかった。
私の顔を見つめ、その奥を量るように沈黙される。
やがて、低く問われた。
「その若者は、それほどの器か?」
まっすぐな問いだった。
私はゆっくりと顔を上げる。
「稀代の英雄――そのような大それた妄言を吐くつもりはございません」
陛下の視線は動かない。
私は、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「いまだ未熟な器なれど……バロック=ヴァーミリオンと同じ、真っ直ぐな心根と眼差しを持った良き青年にございます」
若様は、あの地でどれだけ苦境な現実であろうと悲観することはなかった。
どんな苦難にも腐らず、周りに笑顔を絶やすことはなかった。
どれだけ泥臭くもがこうと、前へ進むことを諦めなかった。
誰かに押しつけるでもなく、心が折れることもなく、ただ、前へ。
若様の背中は、私が憧憬の念を抱いた男と同じものを重ねさせる。
「ふふ。そうか、バロックに似た孫か。俺も会いたくなってきたな」
どこか懐かしげに楽しむ陛下。
私はそのまま静かに続けた。
「陛下、私はバロックの今際の際に、幼いロシュ様、そしてヴァーミリオンの地を託されました」
緊張で汗ばむ手の平を握り、陛下の目をしっかり見据える。
「主であり、戦友の願いを無碍にしては漢が廃るとは思いませぬか?」
その言葉に陛下の瞳が、僅かに見開き、やがて口元を吊り上げ愉快そうに笑った。
「わはははははっ! 漢が廃るときたか。平民出身で近衛まで上り詰めた男は流石に言うことが違うな」
笑いながらも陛下は手を二回叩き、側使えを部屋に招き入れた。
「手紙をしたためる。準備を」
「御意」
◇
羽ペンを走らせ、流麗な文字を綴っていく陛下。
「今代の王には多くのしがらみがある」
言葉を紡ぎながら、片手で迷いなく文字を刻んでいく。
「俺の頃のようにはいかぬ。表立って手を出せば、余計な目を呼ぶ」
「承知しております」
「お前の話を聞く限り、王国に全面の後ろ盾を求めるのは、まだ危うい」
私は静かに頷いた。
それは分かっていた。
だからこそ、今は表に出ぬ支えが必要なのだ。
陛下は手紙を書き終えると、王家の印を刻んだ封蝋で封じた。
「だが、私的に力を貸すことはできる」
背筋がわずかに伸びる。
「バロックには恩がある。それに……戦友の最後の願いを無碍にしては漢がすたるのでな」
陛下はニヤリと口の端を上げた。
「バロックの忘れ形見、俺も支えてやる」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
「……ありがたき幸せにございます」
陛下は書き上げた封書を差し出した。
「受け取れ、俺個人の騎士団を預かる者への書状だ」
差し出されたそれを、私は両手で受け取った。
「少し扱いに困る人物だが、俺の信のある者だ。今のお前たちにはちょうどよかろう」
封の重みを確かめる。
ただの封書ではない。
信頼と、古い縁が詰まった重さだった。
「それと」
陛下が目を細められる。
「俺の名で露骨に庇うことはせぬ。だが、不要な妨げが入らぬようにはしてやる」
「十分にございます」
「ふっ。お前のその頑なさは、老いても変わらなかったな」
私は苦笑いを浮かべ、もう一度、深く礼をした。
「若様が前へ進むなら、私は道を整えるまでにございます」
陛下は短く笑われた。
「老いてなお、難儀な役目を背負う」
「それが、今も昔も私の務めにございますれば」
◇
別邸を出た時、王都の空はすでに薄く暮れ始めていた。
石畳を踏む靴音が、静かに響く。
私は懐の書状へそっと手を当てた。
老いた手。
かつて剣を握った手。
今は筆と執務と、そして若き主を支えるために動く手だ。
門を離れ、馬車へ向かいながら、私は過去を振り返る。
血の匂いが漂う魔物達の躯。
夕焼けに染まる地に伏したバロックの姿。
最後まで諦めず、ヴァーミリオンの地を、そこに住まう者達を守り抜いた英雄。
かつての戦友であり、忠節の誓いを立てた男は、最期のわずかな力で私の手を取った。
『センバス。このヴァーミリオンの地を……まだ幼いロシュを、支えてやってくれ』
掠れた声だった。
だが、その眼差しだけは最後まで強かった。
私はあの時、誓いの言葉を返さなかった。
ただ、その手を強く握り返した。
言葉など要らぬと思ったからだ。
あれから幾年も経った。
若様は幼子ではなくなった。
だが、危ういほど真っ直ぐに、前へ進んでおられる。
ならば、私の役目は変わらない。
剣を置いた身でも、仕える理由は変わらぬ。
若様が前へ進むなら、老骨の務めはその道を閉ざさぬことだ。
私は馬車へ乗り込む前に、一度だけ王都の空を見上げた。
「お待ちください、若様」
小さく、それだけを呟く。
そして静かに目を閉じたあと、馬車へ乗り込んだ。




