第2話 悪魔と五年契約
祠の跡地には、まだ焦げた匂いが残っていた。
砕けた石。
抉れた地面。
白く焼けた草。
そして、その中心で――
悪魔が宙に浮いていた。
光る縄に縛られ、どう見ても亀甲縛りみたいな格好のまま、なぜか威厳たっぷりの顔で。
「ヴァーミリオンの末裔よ。もう一度問おう。盗まれたわらわの魔法は取り戻せたのかえ?」
「あぁ、ええと……そうだな」
俺は言葉に詰まった。
絵面がひどすぎて、思考が滑る。
なんでそんな状態で堂々としていられるんだ。
悪魔って、もう少しこう……雰囲気とかあるだろ。恐怖とか。神秘とか。
何で最初の感想が「変態か?」になるんだよ。
「まずその状態で語るのやめてもらっていいか? 滑稽だぞ?」
「威厳は内面から滲み出るものじゃ」
「滲み出る方向性がおかしい!」
ロロが俺の袖をぎゅっと掴む。
「ロシュ様、近づいちゃだめ」
「それが賢明ですな」
センバスも低く言った。
「どう見ても、まともな相手ではありません」
「それは見れば分かる」
俺は宙に浮く悪魔を見上げる。
光る縄に縛られている。
見た目だけなら、いかにも危険そうだ。
だが――
「……妙だな」
「妙?」
ロロが眉をひそめる。
「もっとこう、見ただけで触ったら死ぬ、みたいな感じかと思ったんだが……そこまでの圧がない」
光ってはいる。
禍々しくもある。
だが近くで見ると、妙に張り詰めた感じが薄い。
脅しの飾りみたいな、妙な軽さがあった。
悪魔がむっとした顔になる。
「なんじゃその言い草は。わらわの威厳ある拘束姿に文句でもあるのかえ」
「文句しかねぇよ」
俺は剣を抜いた。
「若様」
センバスが呼ぶ。
「危ういと思ったら、すぐ下がってください」
「分かってる」
「ロシュ様……」
「大丈夫だ。触るだけだ」
自分でも、こういう時の“大丈夫”が当てにならないのは分かっている。
だが、確かめずにはいられなかった。
そっと剣の刃を光る縄へ当てる。
するり、と。
「……切れた」
拍子抜けするほど、あっさりだった。
光る縄がほどけ、粒子になって消えていく。
「なんだよそれ……」
「言ったじゃろう。形だけじゃ」
解放された悪魔は、ゆっくりと地面へ降り立った。
足が土に触れる寸前、ふわりと黒い翼が広がる。
羽は墨を溶かしたように深く、光を吸い込む色をしていた。
だが、地面に落ちた羽根は触れる前に淡く消える。
無駄に幻想的だ。
腹立たしいほどに。
「……久方ぶりの自由じゃ」
肩を回し、首を鳴らし、満足げに笑う。
「自由になる条件、ゆるすぎないか?」
「自由にはなっとらんの。わらわは今なおこの地に縛られておる。あれは見た目だけの枷よ」
「見た目だけであの拘束を選ぶなよ!」
ロロがそっと俺の袖を握る。
指先がわずかに震えている。
「ロシュ様……あれ、絶対まともじゃない」
「まともな悪魔がいるなら紹介してほしい」
森は静まり返っている。
風もない。
鳥の声もない。
この場だけ、世界から切り離されたようだった。
悪魔が、ゆっくりと俺を見る。
「ヴァーミリオンの末裔よ」
声が変わった。
先ほどまでの軽さが消え、井戸の底から響くような低い音になる。
「盗まれたわらわの魔法は、取り戻せたのかえ?」
背筋が、ひやりと冷えた。
「……いや。知らん。そんな話、初耳だ」
悪魔はわずかに目を細めた。
「やはりか。あやつは何も伝えぬまま死んだのじゃな」
「あやつ?」
「初代ヴァーミリオン当主じゃ」
嫌な予感が、確信に変わる。
悪魔が指を鳴らす。
空中に赤い光が広がり、揺らめく幻影が浮かび上がった。
戦場だった。
血煙。
炎。
崩れた陣。
そこを一人の男が駆け抜けていく。
漆黒の全身鎧。
人の背丈ほどもある大剣。
踏み込むたび地が鳴り、振るうたび魔物がまとめて吹き飛ぶ。
「これが、おぬしらの初代じゃ」
思わず息を呑む。
強い、なんてもんじゃない。
人間の動きじゃなかった。
膂力も、踏み込みも、間合いも、何もかもがおかしい。
あれを“騎士”とか“剣士”とか、そういう言葉で呼んでいいのか分からない。
「……強すぎるだろ」
「わらわと契約したからの」
悪魔は淡々と言った。
ロロが小さく息を呑んだ。
「ロシュ様の、ご先祖様……?」
「いや、ちょっと待て。うちにそんな英雄譚みたいな話は残ってないぞ」
「都合の悪い話ほど、家では埋もれるものじゃ」
その言い方に妙な棘があった。
悪魔は続ける。
「わらわはかつて、“魔法”という概念を管理していた存在じゃ」
「……管理?」
センバスが低く問う。
「世界に満ちる理の一つ、と思えばよい」
「理、ねぇ……」
悪魔は頷いた。
「本来、人はそれに触れてはならぬ。届いてはならぬ。そういう領域じゃ」
「じゃあ、なんで盗まれるんだよ」
「愚か者がいたからじゃ」
幻影が変わる。
戦場は消え、巨大な塔が現れた。
その内部で、無数の光が暴れ狂っている。
床も壁も天井も、何かの力で裂け、ねじ曲がり、壊れていく。
「ある人間が魔法を欲した。より多くを救うために、より多くを変えるために。そう言って、己の器を越えるものへ手を伸ばした」
その声は冷たかった。
「そして魔法概念を引きずり込み、制御しきれず、壊した」
「壊した?」
「暴走じゃ。世界にとっても、人にとっても、最悪の形でな」
幻影の中で、光が裂ける。
火。
水。
風。
地。
光。
闇。
時。
七つの色が、世界へ散っていく。
「その時、魔法概念は七つの核に分かれて世界へ沈んだ。それぞれが漏れ出し、歪み、淀み、余剰を生んだ」
「余剰?」
「魔物じゃ」
その一言で、喉が詰まった。
魔物。
この世界で、人が最も現実的に怯えている存在。
畑を荒らし、森を塞ぎ、人を殺すもの。
「異常を察した他の管理者たちは、それらを封じる箱を作った。それが、ダンジョンと呼ばれるものじゃ」
今度は巨大な地下迷宮の幻影が浮かぶ。
暗い。
広い。
底知れない。
その最奥で、赤黒い光が脈打っている。
「封じたはずの核から漏れた魔力が淀み、魔物を生む。ダンジョンは、世界を守るための檻であり、同時に、歪みを閉じ込めた傷跡でもある」
「じゃあ今の魔物は……全部それが原因か?」
「その通りじゃ。今おぬしらが恐れておる厄災の根はそこにある」
悪魔は俺を見る。
「魔法は世界のマナを喰う。核が暴れ、歪みが広がり続ければ、やがて世界そのものが立ち行かなくなる」
「立ち行かなくなるって……どうなる」
センバスの声は静かだった。
「最後は崩れる」
さらりと言うな。
こっちは今年の冬を越すだけでも頭を抱えてるんだぞ。
世界単位で話を広げるな。
「……で」
俺はこめかみを押さえる。
「なんでそんな大惨事と、うちの初代が繋がるんだ」
悪魔は一瞬だけ黙った。
そして、幻影の中の黒鎧の男を見た。
「わらわは、あの愚か者が壊した世界を立て直すため、この地に縁ある若者へ契約を持ちかけた」
「初代に?」
「そうじゃ」
幻影の中で、黒鎧の男が大剣を担ぐ。
その背は強かった。
だが、どこか人の身には過ぎる力を背負っているようにも見えた。
「奴は力を得て成り上がり、魔物を斬り伏せ、英雄となった。……そして契約を果たさぬまま死んだ」
俺は両手で顔を覆った。
「先祖ぉぉぉぉ……!」
叫んでから、すぐに息が詰まる。
笑い飛ばして済ませていい話じゃない。
今までうちが抱えてきたどうしようもなさの根っこに、そいつがいるのだとしたら。
「契約は血統に刻まれる。履行されぬ場合、その反動は子孫へ向かう」
冷たい風が吹いた。
「おぬしらヴァーミリオン家の長き零落は、その余波よ。呪いと呼んでもそう外れてはおらぬ」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
父も、祖父も。
領地を守るために身を粉にし、それでも報われなかった。
祖父は魔物と差し違え、父と母は無理が祟って若くして死んだ。
それが全部、初代の未払いのせいだというのか。
「……身勝手にもほどがあるだろ、初代さんよ」
拳を握る。
ロロが俺の袖を強く握った。
「ロシュ様は悪くない」
「分かってる」
分かってる。
だが、そう言いたくもなる。
「このまま放置すれば、反動はいずれおぬしへも届く」
「いずれって、どれくらいだ」
悪魔は、ためらいなく言った。
「あと五年じゃな」
「へ?」
「おぬしの代で終わる」
「具体的に言うな!」
五年。
急に現実味のある年数を出すな。
世界が崩れるとかより、そっちの方がよほど嫌に刺さる。
「か、回避方法は?」
悪魔は三日月みたいに笑った。
「初代の契約を引き継ぎ、七つに割れた魔法概念を取り戻すこと。すなわち、ダンジョンを攻略し、核を回収することじゃ」
詰んでないか?
俺は初代みたいな化け物じゃない。
鍬を持つ姿が似合う程度の領主だぞ。
「……七つ」
頭が痛い。
いや、最初から全部痛いが。
そんな俺を見て、悪魔が思い出したように言った。
「ちなみに、初代に与えた力は血統に継承されておる」
「は?」
「おぬしの屋敷に、一つ目のダンジョンがある」
数秒、思考が止まった。
「……は?」
「そこに、わらわ自ら作った施設がある。そこで力をつけよ」
「待て待て待て」
俺は片手を突き出した。
「屋敷に? 今、屋敷にって言ったか?」
「言った」
「うちの、あのボロ屋敷に?」
「そうじゃ」
「誰が管理してる」
「誰もしておらぬ」
「何で今まで気づかなかった」
「隠しておったからの」
「さらっと言うな!」
ロロが青ざめた顔で俺を見た。
「ロシュ様……屋敷の、どこに……?」
悪魔は、にやりと笑った。
「案内してやろう」
その瞬間だった。
ずん、と。
足の裏に、低い振動が伝わった。
森の地面が、ほんのわずかに震える。
「……っ」
俺も、ロロも、センバスも息を呑んだ。
悪魔だけが楽しそうに目を細めていた。
「ほれ、始まりおった」
嫌な汗が背中を伝う。
「おい……何がだ」
悪魔の赤い瞳が、愉快そうに、どこか底知れず冷たく光る。
「おぬしの家の地下が、目を覚ましたのじゃ」




